わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【途方に暮れる】 ~福島の海岸線に立って~

2016年06月10日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
いわきの親子と再会した翌日。

福島の海岸線を北上した。


いわき市豊間地区。

東日本大震災で、多くの津波犠牲者を出したところだ。

震災1か月後の2011年4月に、ここに来た。

目を覆うような凄惨な現場だった。

以後、毎年この場を訪れている。

5年たった今、この場を訪れて、のけぞった。

壊滅的だった集落は、区画整理どころか跡形もなく整地され、そしてこれでもかという防潮堤建設現場となっている。

あの自然の猛威を、またぞろとてつもないお金をかけた人工物で防ごうとしている。

すぐそこに、まだ収束もしていない福島原発があるというのに。

この場で命を失った人々の遺族もいるので、軽々しくは言えない。

でも、それでも、どうにもやるせない現場だった。

この現状が、福島から岩手まで、ありとあらゆる海岸線で起こっている。


▼海が見えない防潮堤




▼その防潮堤に上る








▼何もなくなった






私は想う。

海の近くに住んでいるのに、海が見えない状況はどうなのか。

海に近づけない状況はどうなのか。

海で遊べない状況はどうなのか。

海を危険と言うのなら、その危険なものから遠ざければ遠ざけるほど、やっぱり危険になる。

刃物や火、われわれはそれを歴史的に感じてきたのではないか。

危険と言われる刃物も火も、いよいよ暮らしの現場から消えつつある。

その状況自体が、どのような危険をまねているか。

海や川や、そして山、つまりは自然が、遠ざけられてしまうのか。

様変わりしてしまった福島の海岸線に立ち、途方に暮れる。









震災後に立ち入ることができなかった地に、今は足を踏み入れることができる。

しかし、放射線量は依然、高いままだ。

住民の姿はほとんどなく、作業着を着た復興関係者が被災地を行き交う。

富岡町の駅前は、震災後から2~3年は、そのままの状況だった。

原発爆発後に、その地に暮らす人々が全て避難したからだ。

暮らしがなくなった街は、悲しいまでに生命感がなかった。

今、富岡駅前は、何もなくなった。

おそらく剥がされるであろう線路が佇むだけだった。

車だけが通って良い国道6号線は、停車してもいけないし、脇道にそれてもいけない。

福島第一原発付近を通る時は、恐ろしいほどまでの放射線量だった。

富岡町の中心街も、浪江町の中心街も、あの時のままだ。

これが原発災害か、と改めて想う。


▼富岡町




▼富岡駅




▼駅の近くの家が残っていた




▼津波の被害がそのまま




▼富岡町中心街。人気がない




▼国道6号線から、福島第一原発。クレーンが動く。





▼脇道には入れない










▼浪江駅前




▼南相馬市小高地区の海岸




▼途方に暮れる







この土地に生きた人々の暮らしは、どこに行ってしまったのだろう。

福島の自然に育くまれた人々の価値観は、どこに行ってしまうのだろうか。

故郷を失った人が「失って初めてわかる」と言う。

震災後5年たっても、まだ10万人近い人が避難生活を続けている。

でも、避難先の生活は、もう避難ではなく日常になってしまうのかもしれない。

日本政府は、福島の避難地域に、次々と避難指示を解除している。

解除されるということは、補償の対象外となるということでもある。

いったい、どうなっていくのか。

福島の海が見えるはずなのに、見えない場所に立ち、途方に暮れる。



代表 辻だいち



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