南相馬市から、飯舘村に上がる。
地図上では、海岸線から左折して、阿武隈高地を抜けて福島市に至るという感じだ。
飯舘村は、今なお全村避難が続く。
もう5年もたつので忘れ去られていることも多いが、原発から30キロ圏外にあったがゆえに、北西方向に拡散した放射能に汚染され続けながらも、国からの避難指示が出なかったという、悲惨な被害を受けた村である。
この村とは、4年前に、飯舘村の被災児童を山賊キャンプに招待してから縁が続く。
バリケードで入れない高線量地域「長泥」地区。
区長さんはじめ皆さん、「バリケードの中なのに、なんで草刈なんかするんだ?って言われてる」と屈託なく笑う。
素敵な笑顔だ。
一方で「無駄な抵抗だとわかってる」と暗い顔も。
バリケードの中は帰還困難区域と言われ、除染すら実施されていない。
その周りの区域は、避難指示こそ解除されていないが、大掛かりな除染が続く。
方言がきつくて何を話しているかわからない時もあるが、彼らの言葉はきっとその複雑な状況を表してるのだろう。
バリケードを出ると、凄まじいまでの除染作業が展開され、山積みになった除染土が、彼らのふるさとの風景を変えている。
▼無駄な抵抗か?
▼人気のない長泥地区中心部
▼2011年3月の放射線量は、すさまじい数字
▼区長さんの家
▼牛を飼っていた
▼仔牛の名前が生々しい
▼家のカレンダーは、2011年3月で止まったまま
▼この除染済みの土とか、これからどうするんだろう?
飯舘村から福島市に降りた。
飯舘村の子育て世帯が避難している宿舎に足を運ぶ。
4年前に、この宿舎に避難しているこどもたちが、信州こども山賊キャンプに参加した。
その頃からお世話になる自治会の担当者に話を聞く。
子どもを3人抱えるお母さんでもある。
なかなか戻れない飯舘村。
でも、帰村宣言が出たところで、果たして戻るのか。
飯舘村の学校(仮校舎)に通い続けるこどもたち。
でも、もう、福島市の学校に転校した方が良いのでは。
いっそ、福島市に土地と家を購入するか。
帰村宣言が出たら、保証はどうなるのか。
あふれる想い、葛藤の想いが、口をつく。
簡単ではない結論を下さざるを得ない苦しみに、胸が痛む。
何ができるわけでもない。
私もまた子どもを3人持つ親として、彼女の想いをただただ聴いた。
夕方、バリケードの長泥から戻ってきた、区長さんと一献傾けた。
福島に来たら、ほんの少しだけでもこういう時間を設けることにしている。
最初に会った4年前は、「NPOは嫌いだ。自分たちの自己満足のために福島に来るだけだろう」と凄まれた。
そして同時に「おめえ、こんなんであきらめたらなんねえど」とニヤリと激励された。以来、4年、ことあるごとに福島まで足を運んで顔を会わせている。
今の飯舘村の状況を伝えてもらうために、私の立教大学の授業にもゲストスピークに毎年来てもらっている。
気軽に飲んで語り合う仲になったからこそ、初めて聞くことも多い。
今回は、聴き役に徹した。
彼が「人には言ったことのないことも、話せた。よかった」と言ってくれた。
こういう支援もまだまだあるんだな、と改めて想う。
「きっと一生つながっていく縁ですね」と約束して、福島を離れた。
4年前のこどもたちはもう高校生。
夏、熊本の被災児童を招待する山賊キャンプに、ボランティアでおいでと呼びかけた。
こうしてまた、豊かな縁が紡がれていく。
代表 辻だいち
地図上では、海岸線から左折して、阿武隈高地を抜けて福島市に至るという感じだ。
飯舘村は、今なお全村避難が続く。
もう5年もたつので忘れ去られていることも多いが、原発から30キロ圏外にあったがゆえに、北西方向に拡散した放射能に汚染され続けながらも、国からの避難指示が出なかったという、悲惨な被害を受けた村である。
この村とは、4年前に、飯舘村の被災児童を山賊キャンプに招待してから縁が続く。
バリケードで入れない高線量地域「長泥」地区。
区長さんはじめ皆さん、「バリケードの中なのに、なんで草刈なんかするんだ?って言われてる」と屈託なく笑う。
素敵な笑顔だ。
一方で「無駄な抵抗だとわかってる」と暗い顔も。
バリケードの中は帰還困難区域と言われ、除染すら実施されていない。
その周りの区域は、避難指示こそ解除されていないが、大掛かりな除染が続く。
方言がきつくて何を話しているかわからない時もあるが、彼らの言葉はきっとその複雑な状況を表してるのだろう。
バリケードを出ると、凄まじいまでの除染作業が展開され、山積みになった除染土が、彼らのふるさとの風景を変えている。
▼無駄な抵抗か?
▼人気のない長泥地区中心部
▼2011年3月の放射線量は、すさまじい数字
▼区長さんの家
▼牛を飼っていた
▼仔牛の名前が生々しい
▼家のカレンダーは、2011年3月で止まったまま
▼この除染済みの土とか、これからどうするんだろう?
飯舘村から福島市に降りた。
飯舘村の子育て世帯が避難している宿舎に足を運ぶ。
4年前に、この宿舎に避難しているこどもたちが、信州こども山賊キャンプに参加した。
その頃からお世話になる自治会の担当者に話を聞く。
子どもを3人抱えるお母さんでもある。
なかなか戻れない飯舘村。
でも、帰村宣言が出たところで、果たして戻るのか。
飯舘村の学校(仮校舎)に通い続けるこどもたち。
でも、もう、福島市の学校に転校した方が良いのでは。
いっそ、福島市に土地と家を購入するか。
帰村宣言が出たら、保証はどうなるのか。
あふれる想い、葛藤の想いが、口をつく。
簡単ではない結論を下さざるを得ない苦しみに、胸が痛む。
何ができるわけでもない。
私もまた子どもを3人持つ親として、彼女の想いをただただ聴いた。
夕方、バリケードの長泥から戻ってきた、区長さんと一献傾けた。
福島に来たら、ほんの少しだけでもこういう時間を設けることにしている。
最初に会った4年前は、「NPOは嫌いだ。自分たちの自己満足のために福島に来るだけだろう」と凄まれた。
そして同時に「おめえ、こんなんであきらめたらなんねえど」とニヤリと激励された。以来、4年、ことあるごとに福島まで足を運んで顔を会わせている。
今の飯舘村の状況を伝えてもらうために、私の立教大学の授業にもゲストスピークに毎年来てもらっている。
気軽に飲んで語り合う仲になったからこそ、初めて聞くことも多い。
今回は、聴き役に徹した。
彼が「人には言ったことのないことも、話せた。よかった」と言ってくれた。
こういう支援もまだまだあるんだな、と改めて想う。
「きっと一生つながっていく縁ですね」と約束して、福島を離れた。
4年前のこどもたちはもう高校生。
夏、熊本の被災児童を招待する山賊キャンプに、ボランティアでおいでと呼びかけた。
こうしてまた、豊かな縁が紡がれていく。
代表 辻だいち