わが大地のうた♪

NPOグリーンウッド代表理事:辻英之(だいち)が今、南信州泰阜村から発信する炎のメッセージと…日々雑感!

【聴く、聴く、聴く】 ~福島県飯舘村の今~

2016年06月11日 | 震災支縁=支え合いの縁を紡ぐ
南相馬市から、飯舘村に上がる。

地図上では、海岸線から左折して、阿武隈高地を抜けて福島市に至るという感じだ。

飯舘村は、今なお全村避難が続く。

もう5年もたつので忘れ去られていることも多いが、原発から30キロ圏外にあったがゆえに、北西方向に拡散した放射能に汚染され続けながらも、国からの避難指示が出なかったという、悲惨な被害を受けた村である。

この村とは、4年前に、飯舘村の被災児童を山賊キャンプに招待してから縁が続く。





バリケードで入れない高線量地域「長泥」地区。

区長さんはじめ皆さん、「バリケードの中なのに、なんで草刈なんかするんだ?って言われてる」と屈託なく笑う。

素敵な笑顔だ。





一方で「無駄な抵抗だとわかってる」と暗い顔も。

バリケードの中は帰還困難区域と言われ、除染すら実施されていない。

その周りの区域は、避難指示こそ解除されていないが、大掛かりな除染が続く。

方言がきつくて何を話しているかわからない時もあるが、彼らの言葉はきっとその複雑な状況を表してるのだろう。

バリケードを出ると、凄まじいまでの除染作業が展開され、山積みになった除染土が、彼らのふるさとの風景を変えている。


▼無駄な抵抗か?




▼人気のない長泥地区中心部




▼2011年3月の放射線量は、すさまじい数字




▼区長さんの家



▼牛を飼っていた




▼仔牛の名前が生々しい




▼家のカレンダーは、2011年3月で止まったまま






▼この除染済みの土とか、これからどうするんだろう?









飯舘村から福島市に降りた。

飯舘村の子育て世帯が避難している宿舎に足を運ぶ。

4年前に、この宿舎に避難しているこどもたちが、信州こども山賊キャンプに参加した。

その頃からお世話になる自治会の担当者に話を聞く。

子どもを3人抱えるお母さんでもある。

なかなか戻れない飯舘村。

でも、帰村宣言が出たところで、果たして戻るのか。

飯舘村の学校(仮校舎)に通い続けるこどもたち。

でも、もう、福島市の学校に転校した方が良いのでは。

いっそ、福島市に土地と家を購入するか。

帰村宣言が出たら、保証はどうなるのか。

あふれる想い、葛藤の想いが、口をつく。

簡単ではない結論を下さざるを得ない苦しみに、胸が痛む。

何ができるわけでもない。

私もまた子どもを3人持つ親として、彼女の想いをただただ聴いた。



夕方、バリケードの長泥から戻ってきた、区長さんと一献傾けた。

福島に来たら、ほんの少しだけでもこういう時間を設けることにしている。

最初に会った4年前は、「NPOは嫌いだ。自分たちの自己満足のために福島に来るだけだろう」と凄まれた。

そして同時に「おめえ、こんなんであきらめたらなんねえど」とニヤリと激励された。以来、4年、ことあるごとに福島まで足を運んで顔を会わせている。

今の飯舘村の状況を伝えてもらうために、私の立教大学の授業にもゲストスピークに毎年来てもらっている。

気軽に飲んで語り合う仲になったからこそ、初めて聞くことも多い。

今回は、聴き役に徹した。

彼が「人には言ったことのないことも、話せた。よかった」と言ってくれた。

こういう支援もまだまだあるんだな、と改めて想う。

「きっと一生つながっていく縁ですね」と約束して、福島を離れた。



4年前のこどもたちはもう高校生。

夏、熊本の被災児童を招待する山賊キャンプに、ボランティアでおいでと呼びかけた。

こうしてまた、豊かな縁が紡がれていく。



代表 辻だいち


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