愚ダメ記、真誤付き、思い津記

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広島タイムライン

2020-08-07 | 日記

広島タイムライン(NHK広島放送局)を見た。毎年8/6には広島・平和祈念館前で原爆追悼・平和記念集会が行われてきたが、自分がそのことを意識するようになったのはいつからだろうか? 小さな頃、時折り周囲の大人の戦争体験を聞くことがあったが、その中では「ピカドン」という言葉で表現されていた。子供が尋ねても詳しく教えてくれる大人はおらず、それが何を示すのか良く分からなかったが、子供心に「とてつもなく恐ろしい」響きを感じ取っていた。しばらくしてアメリカやソ連の大気圏水爆実験がニュースで報じられるようになり、だんだんとピカドンという言葉が原子爆弾を指していることが分かって来た。

 自分にとって、より生々しく具体的だったのは、身内の大人たちが実体験した「東京での空襲の日々」である。夕食時などどこかで消防か警察のサイレンが鳴ると、数回に一回は両親が「空襲警報を思い出すね」と話し始める。その話はしばしば「あの夜は、あなたは何処にいたの?」とか「ああ、あの日の空襲はひどかった。確か、〇〇方面が全部焼かれたんだよね」という話になって行った。「うちは、運よくあの日の空襲の前日に郊外に引っ越していたので助かった」という話も聞いたし、あの夜の火は〇〇まで拡がって止まったんだという話も。「焼夷弾は見ていると花火のようで奇麗なの」と子供に話して聞かせたりもした。そして「町内会で何度もバケツリレーでの消火訓練をやらされてたけど、いざ実際に落ちてくると、バケツリレーなんかで消せるようなものじゃなくて、とにかく逃げて生き延びるのが精いっぱいよ」と、昨日のことのように子供に言い聞かせる母の顔を思い出す。

 広島タイムラインでの日記に「庭に防空壕を掘った少年」の話が出て来た。東京でも自宅の庭に防空壕を掘っていたそうだ。それは塹壕のような溝に板を被せたようなもので、確かに一般人が自宅に作ることのできたのはそのような ”防空壕” でしか無かっただろう。しかし、高田敏子の「ガラスのうさぎ」にあるように、東京大空襲で庭の防空壕に逃げ込んだ人々は地面の上を何時間も荒れ狂う炎の下で助かる道は無かったに違いない。親類の男性が逃げ込んだ防空壕の入口に ”ドスン” という音とともに爆弾が落ちて来た話もよく聞かされた。「でも、運よく、それは時限爆弾だったの」という。「もしそれが普通の爆弾だったら、今頃あの方は生きていなかっただろう」と。東京の郊外から毎日都心まで歩いて通っていた父親は一度だけ、「毎日新しい焼け跡が出来て、その度に焼け焦げた人々の遺体とその匂いの中を往復した」と口を開いた。我が子がゼロ戦や軍艦の絵を描くことを嫌っていた父親が、一度だけ話したことがある、「空襲の夜にサーチライトに照らされ銀色に光るB29を見ると、自分も憎いと思った。あのサーチライトで誘導し、今で言う誘導ミサイルのようなものを作れば撃ち落とせると考えていたものだ」と。両親世代の平和への願いの奥底にある人間的な葛藤と反省を感じ取った。

 竹槍の訓練も良くやらされたと母親は言う。少年の手で掘る防空壕、女性たちの手に竹槍、それで国を挙げての戦争に勝てると言い聞かせた当時の政府や軍幹部の気が知れない。察するには、彼らとて自分を欺き、妄想を唱えるしかない精神状態だったのだろうか? 何故、そんなことになるまで、もっと客観的な判断と国民を大切に思う心を取り戻す機会がなかったのか? それをずっと思い続けて来た。東京大空襲の3月10日もそうなのだが、毎年8月は、子供の頃から何十年の間、常に、夏休みや海水浴という楽しい時間、高校野球の熱狂、そして両親世代が体験した矛盾に満ちた惨状の記憶を行き来する季節である。

 

 

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