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牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

いろいろな形態の牛頭天王信仰

2015-06-12 05:54:17 | 日記
忙しい日々が続いていまして、なかなか牛頭天王信仰について調べられない状況にありますが・・・・。たまたま得た情報から、東京世田谷区の代官屋敷跡にある郷土資料館に行くことができ、牛頭天王信仰の存在を確認しました。

 世田谷区郷土資料館の中に江戸時代の「年中行事」についての説明があります。これは当時の代官大場弥十郎が『家例年中行事』という文書を残しているため、それに基づいて紹介したもので、6月15日に「祇園牛頭天王」をまつることが書かれています。


「どこの神社でお祭りをしたのか」ということになるのですが、それについては書かれていません。そこで、この資料館にもある、江戸時代に著された『新編武蔵風土記稿』を調べてみたのですが、他郡においては天王社(境内社としての天王社についても)記載がありますが、大場氏の代官屋敷近くには宇佐神社(八幡神社)や天祖神社はあっても、天王社も境内社としての天王社も見当たりませんでした。一番近いのが多磨郡喜多見の天王社(今の須賀神社)です。多磨郡喜多見の祇園牛頭天王社へ行ってお祭りに参加したとは考えにくく、①代官屋敷内に祠をつくってあったので屋敷内で「祇園祭(天王祭)をやったのか、 ②代官屋敷向かいにある天祖神社で「臨時」に祇園牛頭天王を御招きしてお祭りをやったのか、どちらかになろうかと思います。

代官屋敷向かいの天祖神社

 関東の多くの神社では6月と12月の「大祓」の儀式の時には、蘇民将来とも武塔神(牛頭天王)とも関係ない神社にあっても「茅の輪くぐり」の神事が行われています。「茅の輪くぐり」を行うのであれば蘇民将来も武塔神(牛頭天王)も祀ればと思うのですが、蘇民将来・武塔神(牛頭天王)の物語に出てくる「茅の輪」を「臨時に利用」させていただいていると言う訳です。
 こういった「臨時」発想は「茅の輪くぐり」だけでなく、「臨時」に祇園祭(天王祭)を行うということをも含めて江戸時代には結構あったのではないでしょうか?自分たちの住まいの近くの神社には牛頭天王は祀られていないのだけれども、牛頭天王信仰がはやっているため「臨時に牛頭天王に来ていただく」という儀式が・・・・。そういうことを東京の世田谷郷土資料館にある文書から想像した次第です。


 世田谷区郷土資料館(東急世田谷線上町駅下車徒歩5分。代官屋敷内。見学無料) 
                 世田谷区世田谷1-29-18 
                  電話03-3429-4237

安神社と広島市の牛頭天王信仰

2015-05-04 05:23:10 | 日記
安神社
 広島市安佐南区祇園2-21-3

 広島駅から可部線で下祇園駅下車。あたりは祇園の名に満ちている地域。


列車の進行方向に進み、徒歩15分くらいの所に鎮座。由緒書によれば、江戸時代には祇園社と称していましたが、明治2年に安神社と改称したとのこと。明治維新政府の牛頭天王信仰弾圧の影響がここにも見られます。
 祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命(大国主命)・伊邪那岐命・伊邪那美命・少彦名命・大山咋命・・・・。もともとは出雲系の神々を祀っていたようです。古代・中世にあっては出雲の影響を受けながらも、銀山や鋳造技術者の守護神を祀っていたとも想像されます。
 この社の前は以前は海であり、常夜灯も残っていますし、疫隈の国の社に比較的近いので、古代より武塔神を祀る祇園信仰もあったしてもおかしくはありません。

 


 安神社の向かいに安神社末社えびす神社と常夜灯があります。
 いろいろな神々を祀り地域の中心となっていた地と考えられます。牛頭天王信仰が流行っていた江戸時代には牛頭天王を中心にいろいろな神々が祀られていたのでしょう。
 

 

鞆祇園宮沼名前(ぬなくま)神社

2015-05-03 11:29:59 | 日記
沼名前(ぬなくま)神社
 広島県福山市鞆町後地1225
 
 福山駅から鞆鉄道バスに乗車。「鞆の浦」バス停下車。 (乗車時間約30分、下車後徒歩10分)

 鞆の浦は幕末、坂本竜馬の船が紀州藩の船と衝突した地。竜馬が紀州藩に弁償を迫った港町。昔ながらの風情の残っている町並みで、たびたび映画やテレビのロケ地となっています。当の沼名前(ぬなくま)神社は火災により鉄筋の建物になりました。

 鞆祇園宮と称しており、地元の人たちからも「祇園さん」と言われ港町の中核的存在ですが、祇園祭・天王祭と称してはお祭りは行っていません。

 
 港町に鎮座していることからして、元々は海神を祀っていたのでしょう。大綿津見命を祀って「海路の安全」を祈願したことに始まったということが当社のパンフレットにも記されています。牛頭天王の人気が高まると共に牛頭天王も祀るようになったと思われます。ですから、私個人としては、沼名前(ぬなくま)神社が『備後風土記逸文』の「疫隈の国の社」とは思いませんが、当社を「疫隈の国の社」としている人もいるとのことです。

 
 わたしが感動したのは小さな小さな「茅の輪」が玄関上に飾れている家々が目立ったこと。6月30日の「大祓の儀式」の時、茅の輪くぐりに使った茅をその場でバラしてわけてくれるので、人々はそれを家に持ち帰り小さな茅の輪をつくって玄関に飾ることができるというのです。疫病退散を願う大衆の気持ちに立とうとする、また伝統を守ろうとする神社の姿勢にうれしくなりました。

「疫隈の国の社」として誇りを持つ素盞嗚神社

2015-05-02 08:09:37 | 日記
素盞嗚神社
 広島県福山市新市町大字戸手天王1-1

 福山駅から福塩線で上戸手駅下車。駅のそばに鎮座。
『備後風土記逸文』にでてくる「疫隈の国の社」とは当社と誇りを持っている素盞嗚神社。地元の有志による、当社を説明する石碑も並んでいて地域からも厚い信頼が寄せられている神社です。境内には蘇民神社と並んで疱瘡神社もあります。











神戸市平野の祇園神社

2015-05-01 03:08:03 | 日記
神戸市平野の祇園神社
 神戸市兵庫区上祇園町12-1

 新幹線新神戸駅から地下鉄西神山手線で大倉山駅で降りました。徒歩20分くらい。神戸大学付属病院の先。付近には天王川が流れています。
 地元では「祇園さん」と慕われている神社で、祇園神社ではきれいなパンフレットをつくって、『天王社』であったこと、牛頭天王を祀っていたことを紹介しています。



 


(祇園神社のパンフレットの一部)

明治維新政府は神仏分離を進めていきましたが、江戸時代までの伝統を守り、仏教世界の祇園を神道世界にとどめんと、祇園にこだわりつづけた、数少ない神社の一社。
 7月中旬から下旬にかけて「祇園まつり」を行っています。平野の地元の商店街では店を閉じているところが目立ちました。牛頭天王の力を借りて商店街を活性化させるのもいいかもしれません。
 現在の祭神は素戔鳴尊と櫛稲田姫命です。境内社として白玉稲荷社・猿田彦社などがあります。

廣峯神社とその牛頭天王観

2015-04-30 05:13:13 | 日記
廣峯神社
姫路市広嶺山52


 姫路駅から神姫バス乗車。「広峰」行で「広峰」下車。バス停より徒歩30分くらい。

牛頭天王信仰の「総本宮」は京都の八坂神社ではなく、当社と主張している廣峯神社ですが、年間行事の中には祇園祭も天王祭も見当たりません。

 注目すべきは牛頭天王を「疫病神」(疫病退散の神)としてよりも、陰陽道の影響を受けて「暦神」であることを重視していることです 。

 拝殿は仏教の影響のあるつくりになっていて、本殿は神社様式。当社では、仏教においては薬師如来・牛頭天王ですが、神道と習合した場合はスサノヲノミコトとなり、陰陽道と習合した場合は武塔天神となるといった説明もしています。

 境内には蘇民将来社 をはじめとして、蛭子社など多くの境内社があります。



 当社の蘇民将来符は木札を茅の輪で囲むようにして作られていて「個性的」です。

千葉大学医学部付近および構内の七天王塚

2015-02-28 04:05:06 | 日記
 
 
 久々の牛頭天王信仰についての調査。今回は千葉大学医学部付近および構内の七天王塚についてです。








上記の写真は千葉大学医学部付近の道路の七天王塚。JR千葉駅東口下車。東口7番バス停からバスに乗り千葉大学薬学部前で降りて、前方の千葉大学病院方向に進みますと道路の右側に見2つの祠が見えていきます。
 また、千葉大学医学部構内にもいくつかの祠があります。







 一般には戦国時代については知られていますが、しかし、鎌倉時代末期から日本の多くの地が戦乱に巻き込まれていき、南北朝の動乱・応仁の乱(室町時代前期)を経て、戦国時代(室町時代後期)へと向かっていきました。
 豪族千葉氏が活躍したのは室町前期です。坂東平氏の代表格の平将門は妙見信仰(北極星・北斗七星信仰)をもって戦っていましたが、その末裔の千葉氏は妙見信仰に加えて、鎌倉末期から南北朝動乱期に著されたと思われる『ほき内伝』の牛頭天王の力を期待して戦ったというのは十二分に納得がいくと思われます。
 千葉氏は内部分裂によってしだいに房総での力を失っていきましたが、現在の県名として残り、牛頭天王信仰の担い手としての歴史的事実を伝えてくれています。

迎春ー金王八幡宮の茅輪ー

2015-01-01 04:49:01 | 日記
金王八幡宮
 東京都渋谷区渋谷3-5-12

主祭神は応神天皇。源平時代の悲劇の武将金王丸を祀るお堂があり、また稲荷神社も境内社としてあります。蘇民将来や牛頭天王の「垂迹(化身)」たるスサノヲノミコトを祀る境内社末社はありませんが、「茅輪くぐり」で大祓い。いかに、牛頭天王信仰・蘇民信仰が浸透しているかが分ります。




 昨年も表現活動に忙しく、なかなか牛頭天王信仰にかかわる神社を訪問することができませんでした。ただ、総本宮の八坂神社・総本宮の津島神社を訪問。伊勢の松下社(境内社蘇民社)も訪問。牛頭天王信仰の「中核」となる神社に行くことはできました。
 今年も絵画・身体表現・口上芸・映像とあわただしく動くことになると思いますが、年を感じるこの頃で、正直言って今年わたしは65歳。老人の仲間入り。無理はできない年になりました。活動領域を少しずつ減らし、牛頭天王信仰・祇園信仰に関する神社をのんびりと訪問したい気持ちです。
 男鹿半島の天王信仰・佐渡の天王信仰・三宅島の天王信仰・奥三河の天王信仰・出雲地方の天王信仰・備後風土記逸文に出てくる「疫の隈社」に関心をもっていますが・・・・・。
 また、文献をあまり読んでいないので、牛頭天王信仰・祇園信仰に関する本を読んでみたい気持ちでおります。

神奈川県大和市周辺の牛頭天王信仰

2014-12-14 11:09:14 | 日記
下鶴間諏訪神社 境内社八坂神社
  神奈川県大和市下鶴間2540



 小田急江の島線の鶴間駅下車。東口を降りて少し歩くと諏訪神社の看板が見えてきます。その看板と交番の間の道を進みます。15,6分ほど歩くと日枝神社が左手に鎮座。その付近に「諏訪神社近道」の看板があり、そこを進み、突き当たって左に少し行くと右手に諏訪神社駐車場と広い境内があります。 駅から徒歩20分くらい。
 広い敷地にどっしりと構えている神社。この付近では一番大きな神社でしょう。境内社として八坂神社のほか、稲荷神社・秋葉神社・古峯神社があります。
 諏訪神社ですから建御名方神が主祭神。由緒書板や神社が発行するパンフレットにはきちんと「牛頭天王」を明記。祇園祭・天王祭は行っていませんが神社役員によって毎年7月中旬「神前祭」が行われているとのことです。




大阪市の牛頭天王信仰

2014-12-10 05:05:51 | 日記
難波八坂神社
 大阪市浪速区元町2-9-19

JR難波駅から徒歩7,8分。南海本線難波駅から徒歩5,6分。地下鉄四つ橋線上の国道25号の元町2丁目信号と元町3丁目北信号の間付近に鎮座。「東横イン大阪なんば」の近く。
「天王祭」「祇園祭」としてはお祭りは行ってはいませんが、毎年7月中旬「渡御船団の巡行祭り」が盛大に行われています。

神社の発行しているパンフレット『難波八坂神社略記』には「牛頭天王を祀った神社」であったことがきちんと書かれてあります。
境内には治水工事や物価安定に貢献した名代官篠山十兵衛影義を祀る篠山神社もあります。



 
 

 大阪市大正区には 上の宮八坂神社(大阪市大正区三軒家東2-7-18)があります。江戸時代初期、義理人情に生きた木津勘助が建立したと伝えられている神社ですが、今回は時間の関係で訪問できませんでした。


伊勢市周辺の牛頭天王信仰(3)蘇民将来符

2014-12-10 04:48:37 | 日記
伊勢地方の「蘇民将来符」と牛頭天王信仰

伊勢神宮外宮に近い伊勢市駅周辺においても、伊勢神宮内宮周辺においても、「蘇民将来符」が飾られています。伊勢神宮ですから「皇大神宮符」や「天照大神符」が飾られて当然のこの地に、まるで関係ない「蘇民将来符」がものすごく多くの家々や鉄筋の建造物の玄関に飾られているのです。また、伊勢神宮内宮の横の「おはらい町」では「蘇民将来符」が販売されています。(2000円強の値段)
「蘇民将来符」が飾られて「皇大神宮符」「天照大神符」は無視されているこの現実をどう理解したらいいのでしょうか。
 要するに、昔の一般庶民は「皇大神宮」「天照大神」のご利益よりも「蘇民将来」のご利益を選んだということでしょう。
 ではなぜ、昔の一般の人々が天皇家の先祖を「無視」したのかということですが・・・・
 伊勢神宮周辺は原始においては「山信仰」(樹木信仰)の地であったということ。また、伊勢神宮は古代・中世にあっては荘園を管理していた「搾取階級」側であったということ。ですから、一般庶民とは関係のない、むしろ敵対する「位置」にいたのです。その神様を一般の貧しい庶民たちが尊敬したり守ったりするわけがありません。伊勢神宮は貧しい庶民階級の「味方」ではなかったということが考えられます。
 一般庶民にとっての心の支えは、貧しいながらも善行によって救われた「蘇民将来」だったのでしょう。ですから「蘇民将来符」が永きに渡り飾られ、伝統となったのでしょう。










写真は伊勢神宮(内身や)近くのおはらい町にて。

伊勢市周辺の牛頭天王信仰(2)

2014-12-09 05:35:22 | 日記
松下社  
   伊勢市二見町松下1346

 JR参宮線松下駅下車徒歩5,6分。国道42号線の「蘇民前」バス停。
近く。海岸のほうに向かいます。森の中に鎮座。
 由緒書には蘇民と牛頭天王についての関係について書かれてありますが、祭神については、「素戔鳴尊」「菅原道真」「不詳」となっています。境内社に「蘇民社」があります。また、境内には「山の神を祀ったいくつもの祠がありました。もしかしたら、蘇民の逸話や天王信仰が入る前は、「山信仰」の地だったのかもしれません。「山信仰」といっても、お山のことではなく、森林のことと思われます。要するに樹木信仰だったということですが・・・・・。
 東京には「久我山」「千歳烏山」という地がありますが小高い山はありません。かっては、その地域一体は実り 豊かな広葉樹林帯だったのでしょう。久我山近くには江戸時代の「蛇講」の跡を残している神社があります。森林にも暮らす蛇が、「山の神」または「山の神」のお使いで、豊かな実りを提供してくれているという縄文時代からの信仰の名残ではないかと、わたしは考えています。同様に、伊勢方面においても、「山の神信仰」「蛇信仰」の名残が松下社の祠となっているのではないかと想像しました。















伊勢市周辺の牛頭天王信仰(1)

2014-12-09 05:25:09 | 日記
河邊七種神社 
   伊勢市河崎町2-19-29

 伊勢市駅を降りて国道201号へ向かいます。河崎信号近くの百五銀行の向かいの道を入ってすぐ見えてきます。伊勢市駅から徒歩15分くらい。
 七種とは七草の意とのこと。主祭神のことではないようです。この神社の主祭神は多く、境内の隣には稲荷神社も鎮座。地域の中核となっている神社と思われます。毎年7月中旬、町をあげて天王祭を行っているとのことです。







となりの稲荷神社

名古屋市出来町天王祭と須佐之男神社

2014-12-08 10:19:35 | 日記
名古屋市出来町天王祭と須佐之男神社
  名古屋市東区古出来1-2-18


 JR大曽根駅を降り、線路に沿って名古屋駅方面に歩き、東界寺をめざします。東界寺と山川工務店の間の道をさらに線路に沿って進み、最初の道を左に行った左に鎮座しています。JR大曽根駅から徒歩20分くらい。
 小さな神社ですが集会所があり、地域の中心になっていると思われます。 出来町天王祭は毎年6月上旬に出来町商店街を中心に行われているということですが、もともとはこの須佐之男神社のお祭りです。最近は徳川園に山車が向かいそこから商店街へと練り歩くようです。




板橋区大門の牛頭天王信仰 

2014-09-13 08:27:04 | 日記


赤塚富士塚の須賀神社  東京都板橋区大門11あたり


 毎年7月中旬に東京都板橋区大門(だいもん)において天王祭がおこなわれると言うことを聞きましたので、どういうところか、行ってきました。大門天王祭は赤塚諏訪神社の近くの須賀神社のお祭りです。都営三田線新高島平駅下車徒歩15分。巣鴨信用金庫の方に曲がり大門交差点を過ぎて登っていきます。二つ目の道を右に曲がり進むと左側に見えてくるのが諏訪神社。



「田遊び」で有名とのこと。「田遊びの説明板」がありました。広い境内の奥に境内社。額には「薬師神社」の文字がありました。これはめずらしい。薬師如来を神社で祀っていたのでしょうか?




 さて、諏訪神社の正面の鳥居から「レストヴィラ赤塚公園」という高齢者施設の方に進むと広場があり、その一角が富士塚になっており、そこに小さな社が三つ鎮座。社に額がなく名前が分りませんが、向って左側が十羅刹女(じゅうらせつにょ=女性の鬼神で、十の鬼神という説と、固有名詞という説があるようです)社で、仏教における神像が狛犬の代わりに安置されています。中央が浅間神社。右側が須賀神社。

 なぜ、この場所に三つの社があるのか分りませんが、元々他の地にあった十羅刹女社と須賀神社をこの地にまとめたのかもしれません。「富士塚の説明板」はあっても、社の由緒書も額もなく、草ぼうぼう・・・・。お祭りの時だけ額を掲げたり草を刈ったりするのでしょうか。