昭和17年3月20日一年で星が3個の上等兵に進級、人事係の准尉が強引に下士官候補者
になるよう強引に言われ4月より大隊本部勤務を命ぜられました、6月南京の経理部下士官
教育隊に入学しました、当時赤痢が流行私は感染していませんでしたが用心に1ヶ月間
お粥を食べた処、脚気になり足がパンパンに腫れて困りました、毎朝1キロ位駆け足をする
のですが気ばかり焦って足は進みません、半分位走った処で先頭はもう帰ってきています後
について帰るので毎日半分の駆け足でした帰ると防具を着けて竹刀を持って剣道の稽古です、
竹刀を打ち込む事が出来ません、区隊長で意地悪な軍曹が居ました、脚気の兵隊を相手に
横面を打って来るのには困っていました、
幸いな事に小豆島町安田の太田主計中尉殿が教官として居られ、お前も同じ小豆島だな
と軍曹に相手されていると、こちらへ来いと軍曹から連れだして戴いた事がありますそれからは
軍曹も意地悪をしなくなり、太田主計中尉には大変お世話になったことが有ります。
太田主計中尉は金銭に対する教官でした、全国から集った教育隊に同じ小豆島の上官が
居られることの幸せと思っていました、戦後は安田で運動具店をして居られたのでは無いでしょうか
私は自宅にお伺いをしたのみにて商売の事は存じません。
11月に無事卒業し原隊に復帰し18年2月1日陸軍主計伍長に任官しました。
ドクダミの花盛りです、昔は影干しにしてドクダミ茶などにしていましたが現在はドクダミ
など使わないのでしょうか干しているのを見かけません、体には良いそうですが。
二人ともあまり多くは語らずに逝ってしまいました。義兄は晩年に本にして残してくれましたが・・・孫子の時代には平和であることを祈ります。
ドクダミは今も干してお茶にしますよ。利尿剤になるからよく使っています。
内海中学・小豆島高校の同級生が太田主計中尉の息子さんです。小学生の時からの剣道仲間でもあります。
息子さんは東京教育大学(旧 東京高等師範)に進み 学生剣道日本一にもなりました。今は日本剣道界の重鎮です。
です。
此方では各家にドクダミを干していましたが最近
見かけなくなりました、勿論私宅も
ですか小豆島にも御立派な方がおられるのですね
私は戦時中太田主計中尉には大変お世話になりました
晩年は糖尿病でご苦労されていましたね。