MATTのひとりごと

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ワイキキ海岸のふるさと(2015年3月21日)

2015年03月21日 | 歴史・地理

2015年3月21日の地元日刊紙「日刊サン」にこんな記事が紹介されていました。


実は3年前の2012年3月から4月に掛けてワイキキの砂浜の改修作業が行われました。

これはその時の日本語の掲示で、ワイキキ海岸の20%の範囲に渡って海中から浚渫した砂を撒布するという作業でした。
海上に碇泊している浚渫船(遠方の船)からパイプで海岸まで砂を送り

右の方に見えているパイプを経由して送られてきた砂を積み上げ、それをショベルカーでダンプカーに積み替え


ダンプカーが次々と撒布地点に運んで撒布していました。

この新聞記事と当時の写真をフェイスブックに載せたところ、ワイキキの砂はもともとヨソから持ってきた筈、という書き込みをいただきましたのでこの機会に、とネット情報をいろいろと調べてみました。

いつものように情報源は主としてWikipediaとGoogle Mapですが、今回はそれに加えてManhattan Beachに関する情報のお世話になりました。
http://www.tripadvisor.com/Attraction_Review-g32678-d261449-Reviews-Manhattan_Beach-Manhattan_Beach_California.html

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もともとタロ芋畑が海岸近くまで広がっていたワイキキ海岸はタロ芋の生育に必要な水(wai)が噴き出す(kīkī)土地であったためにワイキーキーWaikīkīと呼ばれたのですが、19世紀末に撮影されたと思われるこの写真からも分かるように{砂浜」がほとんど無く、あっても小さなカヌー一艘ぶん程度の幅しかなかったようです。


1920年代にこのワイキキ海岸を開発する事業が始まり、「水の噴出する」湿地帯の対応としてはアラ・ワイ運河を掘って川の流れをコントロールするとともに掘った土を埋め立て用の土として使いました。いっぽう、海岸を砂浜にすべくいろいろな検討が行われた結果、当時のアメリカ合衆国(ハワイは1959年までは米国の属領でした)の西海岸に大きな砂丘海岸があることを知り、これを取り崩してハワイに輸入し、ワイキキ海岸を作るとともに砂丘海岸も立派な砂浜に変貌させると言う両者にとってプラスとなる解決策を採りました。

その海岸はロザンゼルス空港(LAX)からクルマで15分程度の南方に位置するマンハッタン・ビーチという場所でした。

現在の地図(上記)によると長さ8Kmにも及ぶ海岸のうちの中央部にある長さ約3.4km、幅45mの砂浜がマンハッタン・ビーチなのですが、1920年当時はこれが幅120mもあり、砂丘の高さも15mから20mという巨大な砂丘海岸だったようです。

この海岸は三人の地権者が保有していて、それぞれ別な名称の「海岸」を名乗っていたのですが、あるときお互いに「名称統一」に合意し、コイントスで勝ったオーナーの出身がニューヨークであったためマンハッタン・ビーチというカリフォルニア州には似つかわしくない?名称の海岸が誕生したのです。

砂丘からの砂の掘削にはじまり船へ載せる作業、そしてホノルルに着いた船から砂を降ろして海岸に撒くという作業は、現在のような重機のない時代ですからおそらく人海戦術で行ったものと思われますが、いずれにしてもこの砂丘をすべて取り崩してハワイに運搬するというプロジェクトは10年以上にわたって行われたそうです。

この海岸の砂の量ではまだ不足していたようで、その後もオアフのノース・ショアやほかの島、さらにはポリネシアの島々、そしてオーストラリアの砂丘や中国(!)の砂丘にまで手を伸ばして砂を入手していたそうですが、上記の新聞記事にもありますようにここ50年以上はワイキキ海岸の砂補充は行われていませんでした。

そして上記の2012年に大々的な補修が行われたのですが、わずか3年にしてふたたび補修が必要な事態になるかもしれませんね。

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それではワイキキ海岸の(砂の)ふるさとマンハッタン・ビーチとはどんなところでしょう?

トップ写真にあるように、高台にある海岸道路いっぱいにまで住宅や(たぶん)別荘が建ち並んだ保養地のようです。

この建物群の前に高さ20mの砂丘が立ちはだかった姿を想像してみてください。たとえ建物群が高台にあったとしても砂丘が景観を妨げるだけでなく、海水浴ができる雰囲気ではなかったことが容易に想像できます。
その意味からもワイキキに砂を運んだのは正解だったことでしょう。

ただ、その後、海岸が浸食され、もともと120mもの幅があった浜辺が現在ではわずか45mになってしまったので、これを90mまで広げる計画が進行中だそうです。(まさかワイキキの砂を返せ!と言ってこないとは思いますが・・・・)

浜辺はこんな具合になっています。

海側から建物群を見たところです。

建物群は一応高台に建てられています。

高低差と上昇気流を利用してハングライダーも飛んでいます。

夜になればワイキキほどではないにしろ椰子の木が情緒を醸しだします。


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いままでも「ワイキキ海岸の砂はどこかから運んできたもの」という認識はあったのですが、今回の記事がきっかけでその「どこ」がわかって勉強になりました。

いずれにしてもアラ・ワイ運河を掘削し、ワイキキ海岸を埋め立てるとともに砂を輸入して海岸に撒くという決定をした当時のハワイ政府の決定力と、実際の作業を行った開発業者のおかげで現在のワイキキがあることをしっかりと認識した次第です。

お仕事や観光でロサンゼルスに行く機会のあるかたは、ぜひこの「ワイキキ海岸のふるさと」を訪ねてみてください。
当時の砂丘の一部がマンハッタン・ビーチの北端付近(最初の地図参照)に大切に保存されているそうですので、これを眺めて1920年代にタイムスリップしてみてはいかがでしょう?

この「砂丘公園Sand Dune Park」はなんと海岸にあるのではなく海岸から650mも奥まったところにあるのです。

この資料からいくつかの可能性が想像されます。

1) まず1920年代は海岸からこの付近一帯までが広大な砂丘であって、砂の採取が終わってからこの場所だけを保存するとともにほかの採取跡地にはたくさんの家や別荘が建ち並んだ。

2) この位置にあった砂丘までは採取の手が届かなかったために残され、それを「記念公園」とした。

3) 「砂丘」のイメージを保存するために内陸部にあった広場に砂を運んで砂丘の再現を図った。

さていかがでしょう?(ほかの可能性もあるかもしれませんが・・・・)ますます想像力が膨らんでいきますが、「知らないうちが花」かもしれませんね。

この公園のyoutubeです。

この公園は以前は誰でも入れたようなのですが、近隣住民からの騒音クレームがあったため、現在では平日の全日と土曜日の午前中のみ開放されていて、それも「ひとり1日1時間限定、同時入園者数最大21名」の有料許可を得る必要がありますので、フラッと行って中に入れることはありません。
詳しくは関連する情報を探してみてくださいね。

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14 コメント

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私の (Boo!)
2015-03-28 23:17:09
乏しい情報でも、ワイキキが人工的に作られたことは、何かの本を読んで知ってました。
浜辺ちかくまで稲作水田があったそうですが、とても想像できません。ウソか本当か、その水田や沼が蚊の大量発生源になり、それを何とかするために埋め立ててしまおうという計画が持ち上がったことが、その後のワイキキビーチに繋がったという説もありますが、どうなんでしょう?

しかしビーチが完成して不動産価格が跳ね上がり、業者は大儲けしたなんて話を聞くと、いつの時代にも金儲けの上手い人間がいるものです。
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Boo!さん (MATT)
2015-03-29 01:21:56
私の乏しい情報では、現在のアラ・ワイ運河の北側には稲作水田が、南側にはタロ芋水田があったとのことですが、真相はどうなんでしょう。
ワイキキビーチ開発には当時のハワイを、そしてハワイ政府を牛耳っていた「五大財閥」のいくつかが関わっていたと考えるのが妥当でしょうね。
ハワイ政府に手を回して開発にOKを貰い、自分たちで実作業を行ったのでしょう。
現在のワイキキにあるホテルはすべて借地で、地代を五大財閥のひとカメハメハ財団に支払っていると聞いたこともあります。
蚊の発生も開発の理由にできたでしょうね。まぁ「まず開発ありき」だったことでしょうが・・・・
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Unknown (ウクレレオヂサン)
2015-03-31 22:56:20
アラワイ運河の掘削事業でマキー島などが無くなってしまったわけですが、音楽で残っていること。嬉しいです。
ロサンゼルスの砂がワイキキの砂に!でこの裏側に財閥の陰。
何だか・・ミステリーみたいに感じますが、歴史を知ることになると、何だか蟠りのようなものも生まれますが・・・・
歴史を知らないおいらにとっては・・現在のハワイ、ワイキキが嬉しい存在です。
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ウクレレオヂサン (MATT)
2015-04-01 09:40:25
当初の計画ではアラ・ワイ運河をワイキキを取り囲むように掘る予定だったのですが予算が尽きたので現在のような「へ」の字形になった、と聞いたことがあります。
マキー島周辺の埋め立てに伴い、「マキー通り」が延長され「カパフル通り」となったようですが、今でも「マキー通り」の名残が10メーター程度の盲腸道路として残っているのが嬉しいです。
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知ってます! (ウクレレオヂサン)
2015-04-02 21:25:38
マキー通り 知ってます。でも未だ行ったことがありません!今年行けるかな??行きたいなぁ!!
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タロ芋畑と養殖池 (モリパパ)
2015-04-04 16:56:25
クムが英語で言ったので間違っているかもしれませんが、フラソングでそんな歌詞がありました。
どうも養殖池?が気になっています。
もしMATTさんが知っていれば教えてください。
カネフラは無理がありやめたのですが、フラはハワイの文化を伝えるものだという意識は変わっていません。
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ウクレレオヂサン (MATT)
2015-04-05 08:09:34
その道はこんなところにあります。
向こうの駐車場がその昔マキー島のあった場所です。
今秋お見えの節にはぜし訪問されてくださいね。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/8f/331aa48c58ebe83e95357e568c2e461f.jpg?random=fd558b34873101f2d2a938eef869a5bb
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モリパパ (MATT)
2015-04-05 08:10:07
現在米軍の施設があり、広い公園にもなっている「フォート・デルッシー」はその昔は大きな養魚池だったそうです。
この場所に限らずハワイのあちこちに養魚池があったようですね。
カウアイ島には土着の小人族「メネフネ」が一晩で作ったと言う養魚池が今でもあります。
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そうすると (モリパパ)
2015-04-05 10:41:04
ありがとうございました。
昔のハワイ人は、タロ芋作りと海から捕れた魚を池で養魚し食糧にしていたということですね。
この食材なら太ることはないはずです。
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まぁ、体質的に太るDNAをもってタヒチから (MATT)
2015-04-05 11:57:56
移住してきたという説もありますので、必ずしも魚とタロ芋だから・・・・というわけにも行かないかもしれませんね。
特に最近は肉やジャンクフードが蔓延していますので10XLサイズの住民もよく見かけますね。
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