いつか、読みたい、とずっと思ってきました。
書斎の本棚に、長いこと眠っていた1冊の本。
もう、30年以上前に、古本屋で買った本。
遠藤周作さんの「沈黙」。
やっと、今、読んでいます。
やっと、読める時が来た、らしいのです。
真ん中ぐらいまで読み進みました。
今日、読んだ箇所の、次の部分が、心に留まりました。
江戸時代、ポルトガルから、はるばる、キリスト教禁教下の日本に、
宣教にやってきた、司祭、ロドリゴが、
長崎のある村で、井上筑後の守と奉行所の役人に捕えられ、牢屋に入っている場面、です。
ロドリゴが、キリストの顔を、思い浮かべ、祈っているのです。
「やわらかな、人の心の内側を見抜く澄んだ目・・」
「何ものも犯すことができず、何ものも侮辱することのできぬ顔」
――≪それを思うと、小波が浜辺で静かに砂に吸い込まれてゆくように、
不安も怯えも鎮まっていくような気がした≫--
イエス・キリストの顔や姿は、映像では、残されていません。
なので、聖書の記述から後世の人が、想像して、顔や姿を、描きました。
作者の遠藤周作さんは、司祭、ロドリゴを通じて、
イエス・キリストの目、と顔を、表現しています。
「やわらかな、人の心の、内側を、見抜く、澄んだ、目・
何ものも、犯す、ことができず、何ものも、侮辱する、ことができぬ、顔」
と。
遠藤さんは、こんな風に、イエスの目や顔を感じていたのか!
と知りました。
イエス・キリストを、あなたは、どのように感じるでしょうか?
手がかりは、聖書の記述にしかありません。
人それぞれ、その人の目と心と全身で、思い描くほかは、ありません。
僕は、四面楚歌、どうしようもない状況の暗闇の中、
藁をも掴む思いで、頭を垂れて、じっと黙して祈ったことがありました、。
何故か、そんなときは、目をつぶりました。
と、ふと、視線―誰かに見られているという,視線―を感じることが、ありました。
もしかすると、その視線は、イエス・キリストの視線かも知れない・・・・・・・・・
と、思ったことがありました。
今日、読んだ箇所の、ロドリゴ司祭が感じた感じ、遠藤さんが、表現された箇所
―小波が浜辺で静かに砂に吸い込まれてゆくように、
不安や怯えが鎮まってゆくような気がするのである―
に出逢って、僕も、あの時、ほんの爪の垢ほどだけども、同じように感じたことを、
思い出しました。
イエスの顔や姿は、わかりません。
古今東西、描いたり、映像にした人々は、いっぱいおられますが・・・。
もしかしたら、見えない、けれど、感じる存在、なのでしょうか。
風、のように。
さて、後半、物語は、どう展開するのでしょう。
主は、いつまで黙っておられるのでしょうか。
神の沈黙・・・・。
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ちなみに、遠藤周作さんの、僕が今まで読んだ作品で
好きな作品は、
「お馬鹿さん」
「私が・捨てた・女」
です。
前者は、ユーモア小説
後者は、哀しい悲しい小説。
そう、
両方とも、僕の独善的視点かもしれないけど、
≪イエス・キリストの、まなざし≫、
を感じました。
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