○ 直木賞作家、三好京三さん。
3年前、2004年、「北上夜曲歌唱コンクール全国大会」の審査委員長は、三好京三さんでした。北上夜曲の作曲者である安藤睦夫さんが、ずっと、委員長を務められていましたが、近年、身体をこわされ、三好さんが、その任を務めておられたのでした。三好さんと安藤さんの友情については、僕の去年のブログに書きましたので、ここでは、触れません。
昨年は、三好さんは、委員長ではなく、1審査員でした。委員長は、松田晃という、岩手県合唱連盟名誉会長、をされている方。一昨年は、僕は、応募をし、エントリーナンバーを頂いていたのでしたが、事情があって、出場を、コンクール間近になって、取りやめました。主催者と三好さんにお詫びの手紙を書いたのでした。
3年前、審査委員長が、三好京三さんであることを、会場で、当日、知りました。びっくり仰天しました。
「子育てごっこ」で直木賞を受賞された作家です。僕が、教師をしていた頃、参加した「奈川私学教育研究集会」の壇上で講演されておられた姿をはっきり覚えていました。もう20年以上前のことです。会場は、神奈川学園という女学校でした。研究集会の最初に、講演があります。体育館で。次に、分科会、があります。教室で。僕は、英語分科会、ゃら、学級運営HR分科会、などに出ていたものです。僕が、勤めていた学校が、会場になったことも何度か、ありました。僕は、かなり、積極的に、参加していましたし、自分の学校が会場になったときは、率先して、責任者になりました。
体育館の壇上で講演していた、直木賞作家、三好京三さんを、1000人余りの教職員や父母の聴衆者に混じって、僕は、憧れを抱いて、眺めていました。元小学校の先生で、今、直木賞作家・・・。話の内容は、全く覚えていないのですが、高い壇上の、元先生直木賞受賞の、三好京三、という作家を、憧れの眼差しで、見ていました。僕も、教師を辞めて、作家になりたいけれど、、、と思いながら、、、。
コンクール会場のさくらホールに着いて、プログラムをもらい、ページを開いてみると、審査委員長の名前のところに、三好京三、とあったのです、から、僕は、びっくり仰天しました。歌なんか、どうでもよくなり、何とかして三好京三さんと、お話がしたい、と、その事ばかり考えていました。
幸い、思いがけず、「そよ風賞」を受賞することになりました。出場者、審査員、主催者、ゲストの懇親会が、夜7時からありました。出場前に、会場の外で、練習していたら、岩手放送の女性記者が、僕にインタビューをしました。(1ヶ月後、テレビ岩手で放送された、ビデオを主催者が送ってくださり、見たら、僕のインタビューが、そのまま出ていました。僕が、舞台で弾き語りしている場面も。いやー、テレビに出るなんて・・・!)その記者らしき女性が、懇親会に出ませんか、とさそってくれました。妻は、疲れたので、先にホテルに帰るから、あなたは出たら、、と帰りました。立食バイキング形式の懇親会。三好京三さんの挨拶で始まりました。ゲストは庄野真代さん。僕とテーブルが一緒でした。飛んでイースタンブール♪を歌った人ぐらいしか知らない。けれど、お話をしました。何をしゃべったか、記憶がない。僕は、三好京三さんのところへ行って話しかける機会、をうかがっていました。が、庄野さんとの話に気を取られている間に、三好さんが、スーッと、出口から出て行かれました。あれ?僕は、主催者の方に、三好京三さんは、トイレでしょうか、と聞いたら、お帰りになりました。と。僕は、玄関まで走り、三好京三さんを探しましたが、遅かったのでした。ギターを抱え、ホテルに帰ったのは10時近くでした。懇親会が終わったとき、僕は、主催者の方に、三好京三さんの電話番号をお聞きしました。お会いしたいので、、と。教えてくださいました。
翌朝、ホテルで、チェックアウトをする前に、部屋から、電話をしました。三好京三さんと、お会いしたい。出来れば、10分でも20分でも、お話できたらなあ、、、と思って。
「もしもし、僕は、昨日、北上夜曲歌唱コンクールに出場したものです。あのー、ギターで歌った山中と申しますが」
「あー、君かー。」
「お会いしたのですが、いいでしょうか」
「それなら、12時3分の電車に乗って、前沢駅で降りなさい。駅で私が待っているから」
「は!ありがとうございます」
という訳で、20-30分どころか、その日、夜の10時近くまで、なんと、延々9時間、三好京三さんのお宅で、妻と二人で、奥さんの手料理をご馳走になり、お互いを紹介し、人生の、文学の、歌の、話に花が咲きました。ギターで弾き語りをしました。
三好さんは、弾き「歌い」、と何故言わん、のかね。と言われました。そういえば、そうだ。弾き語り、じゃなく、弾き歌い、だ。明るいうちには、車に僕と妻を乗せて、「子育てごっこ」の舞台となった分校を案内してくださり、執筆される部屋、も見せてくださいました。加藤剛と栗原小巻が、ここで、、、、、などと、撮影の様子まで解説してくださる。
お宅に戻って、庭の、大きな石を指して、これはね、私が直木賞もらった頃、水上勉が、うちに遊びに来て、これをくれたんだよ。僕が、ボーっとしていたら、水上氏が、君は、何故、メモをとらんのかね、と、言われたものだよ。明日、水上勉の告別式があるので、僕も、明日、東京へ行くんだ、と三好さんが言いました。
客間に通され、ソファーに腰掛け、僕も、教師を辞めて、今、小説を書いています。作家になりたいのです、僕が三好先生に話しているのを聞いておられた奥さんが、「なにがなんでも作家になる」という本を、持ってきて、これ差し上げましょう、と、僕にくださった。(帰りの新幹線で読み始め、家に着いて、その日のうちに読み終えた。三好さんが、小説家を志して、直木賞を取るまでの足跡が書かれていた。勇気が湧いた。なにがなんでも作家になりたかった三好京三の、悪戦苦闘の足跡だった)。また、北上夜曲をギターで弾き歌って、、、と言われ、歌ったら、薄い冊子をくださった。「小説-北上夜曲」だった。直木賞をもらったすぐ後に書かれた、と。(北上夜曲が生まれる経緯が描かれていた-17才の菊池規が、書いた詩。それに18才の安藤睦夫が曲をつける。その若い青年の友情、、、。と、安藤睦夫と三好京三の出会い・・。)
その夜、泊まってゆきなさい、と進められた。妻が、いや、どこか宿を探します、と言ったら、三好さんが、ある宿へ連れて行ってくださった。教え子がやっている宿でした。
一介の、コンクール出場者、何処の馬の骨かわからない、僕達を、旧知の人のごとくもてなしてくださり、浦島太郎になったような気分でした。10年分のお正月が、一度に来たような、気分でした。
が、昨年は、僕は、《優勝して、三好さんから表彰状を受け取る夢》を見て、舞台に立ちました。が、全くの敗戦。無惨な結果でした。もう帰ろう、途思いましたが、三次先生に会って、帰ろう、と、落ち込んだ心に鞭打って、客席の末席から、決勝大会、最終審査結果発表を見た。長ーい長ーい、時間でした。やっと、終わり、懇親会場前で、僕は、三好さんに挨拶をしよう、と思って待っていました。明日にでも、お会いしたいと、一言、言いたくて。
ところが、何故か、三好さんは、懇親会場には来ず、玄関のほうへ向かって歩いてゆかれました。僕は、三好さんを追っかけました。
「三好先生、僕、です」
三好さんは、チラリと僕を見て、誰だ、と言うような顔をなさった。てっきり、「あー、君かー」と言う返答を予想していた僕は面食らってしまいました。
「明日、お会いしたいのですが・・」
「明日は、ちょっと用事があるので。じゃ。」
と言って、玄関をスタスタ早足で出て行かれました。取り付く暇がない。まるで、全く見知らぬ人に声をかけられた時のような先生の応対でした。僕は、びっくり仰天、してしまいました。三好さんは、僕を、全く忘れてしまわれたのか・・。それとも、朝の10時から、夕方の6時までの審査員の激務に、くたくたにお疲れだったのだろうか。
そういえば、昨年、懇親会の乾杯が終わって、すぐ帰られたのは、くたくたに疲れ、ビールが飲みたかったんだよ、車じゃ、飲めないからね。この齢で、一日中審査は、きついからね。と言われたのを思い出しました。
それにしても、どの賞にも入らず、三好さんには振られ、谷底にまっさかさまに、落っことされた気分で、ホテルに、帰りました。道々、何で、ギターが、こんなに重いんだ!と呟いて。
昨年は、北上で一番会いたかった人、に会えませんでした。「そよ風が吹いた」という小説を2年前から書いて、一時、休止しています。それが、出来たら、三好先生に会いに行こうかな。会ってくださるかな。
さくらホールの玄関先での先生は、くたくたで、ビールが飲みたくて飲みたくて、ただただ、その一念だけだったのでしょう。きっと。