本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

『絆通信135号』から(2)。

2007-12-14 00:03:48 | 社会
「中学では生徒会の副会長に立候補しました。1年生で名の売れた男子が同じく副会長に立候補していましてね。親友としゃべっているうちに、何か知らないけど『立候補する』ということになったんです。太刀打ちできる相手じゃないとわかりながら、アイデアで勝負しました。テープレコーダーに『アメリカ大統領からの推薦です』と吹きこんだり、夜中に学校に忍びこんでポスターを貼ったりね。策士みたいなことはすごかった。みんながアッと驚くような選挙戦を展開して、20票くらいの僅差で負けました。全校生徒の前で足をがくがく震えさせて、演説もしどろもどろ。『あのとき、もっときっちりしゃべっていたらなぁ』と悔やみましたね」
「高校は行く気がなかったので入学試験は白紙で出しました。もちろん不合格。レベルの低い高校でしたからどうして落ちたのか理解できなかったのでしょう。先生がびっくりしてましたね。実は吉永小百合の『いつでも夢を』の映画を観て、夜間学校にすごく憧れたんです。でも実際入学してみたら、映画の世界とは全然違う。おじさん、おばさんばかりだし」
「夜間高校には半年で幻滅して、翌年高校を受けなおしました。県立尼崎高校、進学校です。志望校を先生に言ったら『無理やで、昨年受けた高校さえ不合格なのに』と、内申書を書くことすら渋っていましたよ。合格はしたものの、勉強についていけなくて、だんだん面白くなくなっていった。うつ病になって精神科に通ったりして、休学、復学をくり返し、5年間通いました」
「それでも風紀委員長をやって、制服を無くせという運動をやったりね。当時は高校生の間にも全共闘運動が広がっていて、生徒の半数が活動、残り半分がノンポリという状態でした。尼崎で最初に高校の制服を廃止させました。校則も次々と無くして、生徒手帳の厚みが半分になるくらいでした。高校の先生も、変に封じこめて反発されるより、学生の自主性に任せてそれより大学受験に打ちこんでほしいと思っていたんでしょうね」
「3年生に上がるとき、休学させてくれと言ったら、ここで休学したら除籍ですよと言われました。高校は5年間しか在籍できないと説明されました。赤点ばかりでしょ。どうしようかなと思ったけど『学歴などどうでもいいや』と中退しました」
「20才から働きだしました。1年先輩が尼崎ボートレースに勤めていたのでそこでアルバイトしたり、電話の機械の配線とか、会社の電話の設置の仕事。毎年春になると大学の合格通知を連絡するために40台くらいの電話を設置するんです」
「親父はこのころ会社の早期退職勧奨に応じて、家族で愛媛に帰りました。その1か月後に会社がつぶれたんです。運がよかったんですね。妹は高校1年でした。僕は1人で尼崎に残りましたが、毎日チキンラーメンばかり食べる生活で食生活がめちゃくちゃ。近所の人が心配して田舎に連絡したんですね。親父が愛媛から出てきて、僕を連れて帰った」

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『絆通信』のメイン記事は『遠野物語』を髣髴とさせるこの聞書き ↑ です。長いので今日もここまで。w
 ちなみにこの引用は私が独断と偏見に基づき思いつきで勝手にやっていることで(考えようによってはお節介もいいとこなので!)もしご本人や炊き出しの会等から苦情があったりしたら直ちに中止します。笑。

cf.〒557-0004 大阪市西成区萩之茶屋2-5-23 釜ヶ崎解放会館1F
 釜ヶ崎炊き出しの会
 (TEL)06-6631-7460 (FAX)06-6631-7490
(振替)00990-8-302431
以上本文は(発行)'07.11.20からの引用です。

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cf.弁護士橋下 徹公式サイト


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