本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

映画:「毒薬と老嬢」(1944年作品)。

2014-06-28 11:13:03 | 
 米映画:毒薬と老嬢(1944年)はフランク・キャプラ監督の代表作のひとつで、主演:ケイリー・グラントについてはYahoo映画にはこうある。 ↓ 

1904年1月18日生まれ  イギリス/ブリストル出身
 本名はArchibald Alexander Leach。父は工員で母が10歳の時家出。幼い時に劇場の舞台裏を見学して演劇に興味を持つように。13歳でアクロバットとコメディを披露する一座に入り、18年にその一座と共に渡米。公演終了後はアメリカに残り下積み生活を送る。やがて幾つかの舞台に立つようになり、パラマウントと契約。32年に「その夜」で映画デビュー。その年には主役に抜擢されるようになった(この頃ランドルフ・スコットと同居しホモ疑惑が流れた)。36年、映画会社との専属契約が一般的だったこの時期にフリーの身となったが人気は衰えず、「新婚道中記」、「赤ちゃん教育」、「フィラデルフィア物語」と代表作に恵まれ活躍。「愛のアルバム」と「孤独な心」でアカデミー主演賞候補にもなった。その後53年に“ケイリー・グラントであることを忘れたい”と発言して引退。が、ヒッチコックの説得によって「泥棒成金」で復帰。以降は「めぐり逢い」や「北北西に進路を取れ」、「シャレード」と充実した演技力を発揮して秀作を残した。その傍らでは59年に独立プロを設立。「ペティコート作戦」を製作してヒットもさせた。そして66年の「歩け走るな!」を最後に引退。時折映画関連のドキュメンタリーなどに姿を見せていた。70年にはアカデミー名誉賞を受賞。しかしホモ説は最後まで付きまとい、80年にはTVショーでネタにしたチェヴィー・チェイスを告訴したこともあった。私生活ではベッツィ・ドレイクやダイアン・キャノンなど、計5人と離婚。キャノンとの間に生れた一人娘のジェニファーは後に女優となった。86年、アイオワ州での講演先の劇場で脳卒中のため急死した。

============

 元々はヒットした舞台演劇を映画化したもので、そのせいか登場人物たちが皆早口で、ストーリーの展開も速く、私は「ちょっとでも油断すると話の推移に付いて行けなくなるのでは・・」といった一種緊張感を持って最後まで見ていた。が、終わってみれば後味も何もない、単なる娯楽映画だったような印象である。
 本来連続殺人の忌まわしい話題の筈なのに、それをするりとコメディタッチとドタバタですり抜けるあたりが、この作品の特徴と言えば言える。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。