ドタ日記

ドタの毎日の様子をエッセイで書き綴ります

舅の命日

2006-09-08 02:20:23 | Weblog
昨日9月7日は、舅の命日でした。
3年前の6月、舅が肺炎で倒れてから横浜と岐阜の行き来の生活が始まりました。
岐阜にいるときは本当につきっきりで看病しました。
舅とは普段はあまり話しませんでしたが看病して初めて心の交流が出来たように思いました。
看病していた時、とても思い出に残ったエピソードがあります。
6月30日は舅の誕生日。
そして、岐阜の天満宮のみそぎのお祭りの日でもあるのです。
このお祭りは神主さんが参拝した人にお払いをしておコメをもらう儀式です。
このおコメをもらったら、この一年は無病息災、病気にならないといういわれがあります。
(ここから私と舅の岐阜弁の会話を再現)
私、「お父さん、今日は天神様のみそぎやで、天神様に行ってお父さんがようなるように、お参りしておコメもらってくるわ」
舅「ほうか、今日はみそぎか、、、まあ、わしもあかんわ。
5年前に癌の手術したときは、ほんでも、ようなっていくのが自分でもわかったけど、
今度はちょっとも食べれーへんし、ようなってかへんも、、、
おまはんとこの横浜のマンションも行けなんだな、まあ、はようお迎えござったほうがええわ、」

私「そんな弱気になっとたらあかんがね、みそぎちゃっと行ってくるわ、
おコメもらってくるね」

舅「ほんなら頼むわ、最後の神頼みか」

みそぎのおコメをもらって一時的によくなりましたが
8月のお盆を過ぎて様態が悪化、
私が横浜に後ろ髪を惹かれる様に帰るとき、私が「9月の始めに岐阜に戻ってくるときまでに絶対、ようなってね。」
舅は私に「おまはんが帰ってくるまで頑張って生きとるぞ」
私は舅の手を強く握って横浜に帰省しました、
私が横浜に帰省したら意識がなくなり、一進一退の日々でした、
舅は私の約束をちゃんと守ってくれて、私が岐阜に戻ってきた日の翌日、亡くなりました。
私が病院についたときはもう意識がなかったのに、私が舅に大きな声で「おとうさん、今までありがとう、ヒロもキチもみんなお父さんに遊んでもらったことは忘れないよ」と涙声で話すと、手を差し出して何かを話そうと唇が震えていました。
私の感謝の言葉を聴いて安心したのかその6時間後、亡くなりました。
独特の岐阜弁でぶっきらぼうに話す舅とは舅が元気なうちはなかなか心の交流が出来ませんでしたが、舅の人生の終演間際に私と心の交流ができたのです。
それにしても今。ふりかえったら、あの独特な岐阜弁を話す岐阜人が少なくなり、
もう一度、舅の岐阜弁を夢でもいいから聞いてみたいです。

亡き父の戦友

2006-09-06 23:22:44 | Weblog
町田に在住の叔母(亡父の妹)から久しぶりに電話があり、
昨日亡父の戦友の方から電話があったそうです。
もう青森の白神山地の近くに住んでいらっしゃるそうで、87歳になられてもお元気でお過ごしで父の命日をちゃんと覚えていてくださり、電話があったそうです。
うちの父は戦争体験を生存中に文章にまとめていました。
亡くなってから父の手帳が発見され、町田の叔母が本にしてくれていました。
もう20年前の話です。
当時は子育てに忙しく父の戦争体験をしっかり読む暇もありませんでしたが、
今、無性に父の戦争体験を読んでみたい心境にかられています。
父が貴重な青年期、南方の激戦地クサイエ島で何をして何を考えていたのか、
知りたいのです。
叔母が製本した父の本をなくしてしまった私。
青森の父の戦友の方は大切にとってらっしゃり、毎日、父をしのんでくださっているそうです。
その戦友の方に直接、お会いして若かりしころの父のこと、戦争体験を
今、しっかり聞いておきたいです。
その戦友の方も、父の親類の叔母や娘である私に会いたいそうです。
命日に父が引き合わせているのでしょうか?
私と叔母は10月の連休に白神山地まで父の戦友を訪ねる旅にでようと思っています。

父の命日

2006-09-05 23:23:56 | Weblog
私の両親も姑も舅ももう黄泉の世界にいます。
今日は父の28回目の命日。
父はとても陽気な人で、父の周りにはいつも多くの人が寄ってきていました。
誰とでも人見知りせずすぐ仲良しになる性格は、しっかり私に受け継がれています。
どんなに仕事が忙しくても、日曜日は必ず岐阜の柳ヶ瀬にあった丸物デパートに連れて行ってくれて、屋上の乗り物に乗ってデパートの食堂でお子様ランチを食べたことを鮮明に覚えています。
当時は柳ヶ瀬に行くことは唯一の楽しみの娯楽だったのです。

岐阜は丸物デパートももうすでにありません。
子供のころ父とよく行った柳ヶ瀬もシャッターをおろしている店が多いのが現状です。
亡くなった父や母もきっと天国から見ていて今の岐阜の問屋街、柳ヶ瀬の衰退を嘆
いていると思います。
父が私にささやいている気がします。え?何?「お父さんのパワーをお前に送るから岐阜の街を元気にしてくれ」
ウーン、外様の(ずっと岐阜を離れていた私で出来ることってなんだろう)私が
出来ることって、、、、
街に音楽の花をたくさん咲かせて名古屋に流出している若者を逆に岐阜に呼び寄せることかしらん??
裏金問題ばかりクローズアップされる岐阜。
岐阜の街をお役所にまかせっきりにした、つけがどっと沸いてきた感じですね。
自分達の街は自分達が作っていく、その姿勢が大事になってきていると思います。

なんだか、父の命日に父をしのぶはずが、脱線してしまいました。
ごめんね、おとうちゃん。
いつもあなたにやさしくしてもらったことは忘れませんよ。
明後日は舅の命日だ、ふー忙しい。

ライブ演奏終わりました

2006-09-03 12:21:15 | Weblog
(めがねをはずしたレオ君はすごいハンサムです!)
昨夜は赤坂カーサクラシカでのライブでした。
1ステージは椿姫の乾杯の歌から華々しく始まり、椿姫からアリアを2曲。
その後、レオさんのピアノソロ2曲。蝶々夫人かわいい坊や、と重めのプログラム。
2ステージはふるさとをテーマにして夕焼け、ふるさとそしてレオさんの曲きれいな曲 そして童謡汽車(岩川智子編曲)をレオさんが面白いピアノアレンジに
手を加え私がコーラスにして二重唱でやよいさんと歌いました。
その後、虹のかなたに 勿忘草 お父様にお願いをやよいさんが独唱しました。
3ステージはエーデルワイスをレオさんがジャズ風にしたアレンジで二重唱
レオさんのプログレナンバーの独奏。
私が3曲、イタリア歌曲を歌いました。

クラシックとジャズの融合といううたい文句でこの夏、やよいさんとレオさんと
取り組んできましたが、私がどこまでジャズの世界に入り込めたかは?です。
ただ、レオさんは始めのうちは歌の揺れるリズムに戸惑われたようですが、
さすがピアニストのお母様のDNAを受け継がれています。
非常にきれいな音で、伴奏にもひねりを加えて下さり、レオさんのハードな演奏とは違ったよさが開拓された気がします。
やよいさんも舞台をたくさん踏んできて、のびのびと伸びのある声量で一舞台ごとにうまくなってきています。
若い人は無限の可能性があります。
私は彼らの音楽をうまく引き出せることが出来るプロデューサ的な役割をしていけたらと思います。
私自身がこれ以上、伸びることは無理でしょう。
でも歌うことをやめたら私でない。
引き続き私自身も歌い続けていこうと思います。
私の元気パワーが彼らの音楽のパワーに還元できていければおばさんはうれしいです。