ドタ日記

ドタの毎日の様子をエッセイで書き綴ります

ああ、柳ヶ瀬は泣いている

2006-09-24 21:32:03 | Weblog
今からかれこれ40年前、柳ヶ瀬は岐阜の一番の繁華街でした。
日曜の楽しみ、柳ヶ瀬の丸物の屋上の遊園場で遊ぶ。
そして最上階にあったデパート食堂でお子様ランチを食べるそれが、とっても楽しみでした。
私の実家から丸物まではさほど遠くなかったのですが(車で10分ぐらい)子供のころは東陸橋を渡ると(今はもう陸橋もなくなりました、だからとっても近く感じられるのですが)とっても都会に来たかんじがしたものです。
そして美川健一が歌って大ヒットした柳ヶ瀬ブルースで柳ヶ瀬は全国区になりました。
20歳を迎えて、私も夜の柳ヶ瀬にもよく飲みに連れて行ってもらいました。
つきあっている彼もいませんでしたのでもっぱら整形外科医だった義兄に(姉の夫)雰囲気のいいスナック、サフランに行ったものです。
夜の柳ヶ瀬もいろいろな飲み屋さんがひしめいていました。
ネオンサインがまばゆく光り、和服を粋に着こなした女の人や、ドレスを着たきれいなホステスさんが,たくさんいて本当に柳ヶ瀬は観光の名所になっていました。

私は子供の頃から、結婚して岐阜の地を離れるまでずっと柳ヶ瀬の町とともに育ったのです。

あれから27年。雨にぬれても買い物が出来るという名目で作られたアーケードが
衰退している柳ヶ瀬をますます暗い感じのものにしています。
シャッターを下ろしたテナントがなんと多いことか!
丸物デパートはすでになく、一階が薬屋さん、上は中日新聞のビル?に変わっていました。

そんな中で、道路を渡った通称、美殿通りは古くからの老舗があり、
街の活性化に旗を揚げているようです。
あえて新しさを出さず、昔のレトロな入れ物に佃煮を入れて売っていたり、
店のショーウインドウにさりげなく花を生けてって、通ると思わず、花の美しさに店に入って行きたくなります。

こうしてみてみると、東京名古屋のテナントを真似して作られた通りのテナントは
ゴーストタウンになっているのです。
かえって岐阜らしさをだした、通りは、老舗の店があるからでしょうか。
比較的活気があります。

戦国時代の国採り物語は岐阜城から始まりました。
織田信長が井口の里から岐阜と命名して、柳ヶ瀬辺りは楽市楽座で栄えていたそうです。
本能寺の変で自決に追い込まれた織田信長の怨念が岐阜の街を衰退に追いやっているのでしょうか?
いや、信長はきっと楽市楽座のような明るく活気のある岐阜の街をあの世から願っていると思うのです。
「信長に代わる岐阜の町を再興できるのは私しかいない!」と言ったら
岐阜のおばちゃまに岐阜弁で一笑されました。「とろくさいこと言っとりゃーすな。もっと自分の足元をよう見て考えて行動しやー。えか。」

ほんでも夢はあきらめーへん。
岐阜の街、音楽で街再興に賛同する人はドタママのところまでお知らせください。