昨日のウォーキング始めは正午過ぎに家をでて、京阪で天満橋へ行き、約1時間歩いて谷町6丁目より地下鉄谷町線で帰りました。
たぶん1万歩以上歩けたと思いますが、帰りに立寄ったデパ地下で福袋しっかり買い込み、かなりお腹におさまったので体重減はかなわなかった。
今から百年前1910(明治43)年
天満橋と京都五条間に京阪が鉄道を開通して以来、八軒家は淀川の貨客輸送のターミナルとしての役割を終えました。
熊野三山へ参拝する熊野詣は、平安時代から盛んになり、上皇、天皇や貴族から次第に武士、庶民にまで及びます。
京都から熊野三山を目指した人々は、京都の伏見から淀川を船で下り、今の天満橋近辺にあった渡辺の津に上陸し、ここから陸路をたどって熊野へ。
ここが熊野街道の始まりです。
江戸時代には渡辺の津に8軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれました。
三十石船をはじめ、野崎詣、金比羅参などの様々な船が発着し、淀川流域の船着場として賑わったようです。
幕末期、
新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司らの定宿跡だったという看板も見かけました。
今まで天満橋界隈はずいぶん歩いているけれど、全く興味なかったから目に留まらなかったのだった。
天満橋近辺で行きたい場所がありました。
事前に正確に地図確認せずに訪れたため、行き当たるまでぐるぐる回った。
永田屋昆布本店前の船着場跡から思っていたよりも西にあり、府立労働会館(エルおおさか)の東向かいにありました。
坐摩(いかすり)神社 行宮(あんぐう)
ステンレス柵で覆われた「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている、いわゆる磐座信仰の地。
大阪市中央区石町(コクマチ)の地名はこの鎮座石に由来しています。
熊野九十九王子社の最初の王子社の窪津王子社の比定地で、
熊野へ詣でる人々は船から上がり、一番最初に旅の安全を祈願した場所です。
祭神は「豐磐間戸神、奇磐間戸神」で、大隅宮 祝津宮 とも言われ、
難波の宮の発掘に力をそそいだ山根徳太郎氏によれば、応神天皇の宮とされる大隅宮の場所は当地であろうとされているそうです。
住吉神社神代記に「住吉大神の御魂として、為婆天利神あるいは猪加志理神と号すと託り給ひき。よって斎き祀らしめ…」とあるように、鎮座地はこの王朝にとっては聖地であったようです。
由緒では、この大江・田蓑島の渡辺の地に、神功皇后の御代に奉祀されたのが坐摩神社の始まり。
1582年、豊臣秀吉の大坂城築城にあたり替地を命ぜられ、寛永年間(1624年~44年)に現在地へ遷されました。
去年春、初めて坐摩神社にお参りしたのがきっかけでたいそう興味を持ちました。
そのときの記事は
2011-04-02
「いくたまさん」と「ざまさん」
2011-04-07
鷺丸(さぎまる) 坐摩巫(いかすりのかんなぎ)
2011-04-09
渡辺党からミセスワタナベまで
平安から鎌倉、室町にかけて渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えました。
渡辺の津は、鬼退治で有名な渡辺綱(嵯峨源氏)
を祖とする渡辺氏をはじめ、武士団の生まれた場所でもあり、彼らの瀬戸内水軍の拠点として束ねる場所でもあったのです。
上町台地のウンチク
古くから大阪湾に突き出した高台で、大阪の歴史の舞台で常に中心。
台地の北端は、淀川を眼下に見下ろす景勝の地。
古代には難波宮、中世には石山本願寺、近世には大阪城と、各時代を通じて大阪の中心地となった。
北部は淀川水系の大川に落ち込んでいるが、大阪城天守閣跡が標高38mと最も高く
大阪城大手町付近で24m、中央部の天王寺交差点付近で16m、住吉大社付近で6mと南部へはなだらかに下る。