けっこう降りしきる雨の中、月夜見宮へ。
2013年遷宮の翌年春に来た時はもっと雨風強かった。
あの時に比べればマシ。
でも傘さしての参拝は写真どころじゃない。
鳥居の奥が暗くてわかりにくいですが、真っ直ぐに参道伸びてません。
通せんぼするみたいに石積みが遮ります。
直角に2度曲がります。
お城で言えば枡形の防御仕掛けだそうです。
言い伝えでは、
月夜見宮入口の石垣の一つが、夜になり月夜見尊が鞭を当てると白馬と化す。
その白馬に跨って月夜見尊は夜な夜な外宮へ通うそう。
人々は夜この道を通ることを避け、やむを得ず通る場合には神の馬に触れないように、道の端を歩く。
社殿を横から写しました。
屋根の千木や鰹木から御祭神ツキヨミ尊は男神ですね。
毎晩白馬に跨り外宮へ通われたという伝承。
神さまの世界にもいろいろあるんですね〜
こちらのブログによりますと、
富家の伝承が伝えるところでは、外宮は、もとは「月読みの神」を祀っていたと云います。
やがて度会氏が外宮に宇佐の豊姫を「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)として祀ったので、
やがて度会氏が外宮に宇佐の豊姫を「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)として祀ったので、
月読みの神は当地に遷座したそうです。
左奥のお稲荷さんの老木根元が焦げてるのは、戦争末期の空襲で焼夷弾が落ち燃えたんだって。
手水舎脇の楠大木は、幹周り太さからして生き延びたんですね。
空襲の記録探してみました。
第二次世界大戦終戦間際の全国的空襲は、神都である宇治山田にも及んだ。
1945(昭和20)年7月29日午前1時頃、宇治山田市街地に6ポンド油脂焼夷弾1万数千発も投下された。
アメリカ軍の資料によると、この時B-29は93機で焼夷弾734.6tの攻撃を仕掛けたとされる。
被害は市街地面積の5割に及び、全戸数の3割4,517戸を焼失、総人口の35%の22,600人が罹災した。
月夜見宮は、周辺の住宅がすべて焼失した中で、軍隊による懸命の消火活動と、萱葺屋根に突き刺さった焼夷弾が不発だったため、
社殿だけが焼け跡に建っているという状態。しかし宿衛員嘱託は空襲で命を落とし宮掌が大火傷を負った。
なんかすんごい御神威ですね。
月夜見宮
由緒は定かではないが、古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社であったという。
927年の延喜式では外宮摂社の首位とされた。
『止由気宮儀式帳』では「月讀神社」、
『延喜式神名帳』では「月夜見神社」、『伊勢大神宮式』では「月夜見社」と記載。
1210年別宮に昇格した。
明治になって、同じくツキヨミの神様祀る「つきよみのみや」は、
外宮別宮は「月夜見宮」、内宮別宮は「月讀宮」と表記するようになった。
同じツキヨミ尊をお祀りするのに、なんで名前あえて変えるんだろうと思ってました。
もともと「月読」と「月夜見」はそれぞれ別々の氏族に祀られていた別神で、
外宮の月夜見宮は度会神主によって祀られ、
内宮の月読宮は中臣氏が祀るものだったようです。
古くからその区別が付かなくなってしまい、100%納得できる答えはないそうですが。
やっぱり異なる説あるんだ!
古代より、月を読む、月を観測して暦を定め、農事を占う専門家もいました。
吉凶を占うことにも通じます。
月を読むことを専門とする職能者は、
亀卜の神に仕える神主か巫女のような存在だったのではないかという説も。
先にリンク貼らせてもらったブログには、こんなことも書かれてました。
月神はもともと、びっくりなこと引用コピペさせてもらいます。
月神はもともと宇佐の豊玉姫が祀る神でした。
月には兎がいると信じられていたので、その場所が「宇佐」と呼ばれるようになったのだとか。
当時は太陰暦で、稲作や様々な祭り事が月齢を頼りに決められていました。
つまり月で暦を読むので、「月読みの神」と呼ばれるようになったのだそうです。
月には兎がいると信じられていたので、その場所が「宇佐」と呼ばれるようになったのだとか。
当時は太陰暦で、稲作や様々な祭り事が月齢を頼りに決められていました。
つまり月で暦を読むので、「月読みの神」と呼ばれるようになったのだそうです。
豊玉姫の後を継いだ豊姫は、物部イクメ王の東征軍に加わり、
記紀の日本神話において、豊姫は「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)と表記され、
天照大神の御神体を遷宮した、最初の斎王としていますが、
実際は太陽の女神を祭祀することはなかったのです。
とても詳しくご存知で、私のネットで知り得た受け売り情報とは訳が違いますね。
千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、鰹木が奇数で、祭神が男神と思いました。
出雲の美保神社は2013年に参拝して記録残しています。
マニアックな参拝ツアーだったので神職さんが、千木や鰹木について説明してくださいました。
ご参考までに
https://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/8a2e090b0abd92aaf0b92af07e3b5b6e
不思議だな、なんでかなという思いを持って検索重ねてると、時には行き当たることも。
今回の本文最後に引用させてもらった説の真偽は不明です。
ただなんとなく、そうかもと納得できたので。
鰹木はまだよくわかって無いのですが、千木は男神・女神ではなく
天千木(水平千木ーそぎ)
天の命を受ける―天意を受ける。
地千木は(垂直千木ーそぎ)
横から外圧などから守護する。
日御碕神社が判りやすい。
夜の日本を護れと天意を受けた素戔嗚が天千木。
あとから建てられた天照の神社が地千木。
(天意を受けた素戔嗚を守護するかの様)
これが、伊勢神宮に成ると
昼の日本を護れという天意を受けた天照が天千木。
伊弉冉・伊弉諾は、摂社であっても、天千木。
日本の国を作れと言う天意を叶えたせいか?
出雲大社が地千木なのは、
本当にそうだろうかと思う。
大和朝廷側が天千木を地千木にかえたのではないかと、想ったりもする。
男神・女神 という分類で行くと
(名前失念)縄文以前の創健と伝えられる水の女神の神社が天千木なのが、矛盾するが
天意をうけた、天に添うという解釈だと、天地に必要な水を差配する女神という意味で納得できる。
まだまだ、この解釈で矛盾がないとまでいいきれるほど、千木を調べていない。この説でいくと出雲の美穂神社の
千木は横並びに天千木と地千木が並んでいる(ここしかないー縦並びの地千木ふたつはある)
天千木ー天津神
地千木ー国津神
という説もある。
また、タイのアッカ族の酋長の家の屋根には昔は牛の頭の骨(角付き)がのっていたが、今頃は、板・木で作られた千木がのっていて、これが地千木。
外部族などから、部族を守護するなどなどの酋長の立場からも、地千木は納得する。
(ここまで書くと、千木のルーツがきになるところ 日本が先か タイ・スリランカ辺りが先か)
稲作のルーツを考えると、スリランカあたりに、日本語がそのまま通じるところがあるー稲 粥 米蔵 他ー
農耕に牛を使っていたりしたことだろうから、聖なるものとして護りとして、古くは屋根にかざったのかもしれない)まだ調べ中。
長くなりましたが
鰹木の事を知っていらしたら教えてください。
このあたりは、大本王任三郎あたりが
鰹木が「9つある(本数度忘れ)には訳がある」といっていたりしているのと、なにゆえああいう形の物を屋根に載せるか・・ちょっとつかみかねています。