郡上八幡の最後に立ち寄った宗祇庵で抹茶ラテフロート¥700
長良川の支流吉田川のさらにまた小さな支流の流れ込む角にある宗祇庵。
古民家の座敷で足を伸ばし清流を眺めながら、昼寝したくなるような快適さ。
今回の旅で一番立派なトイレだったことも大満足。
ローケーションもすばらしかったけど、
旅の締めくくりがトイレの思い出とはこれ如何に^^
環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水
宗祇が文明年間(1469-87)この泉に草庵を結んで、この清水を愛用したことから名付けられた
文明3年連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わした由緒ある泉です。
「水舟」という独特の水利用形態が昔からあり、これは今なお10ヶ所に現存し、住民が組合を組織して保全しています。
涌水が水源、飲料水、洗浄水など、段差になって流れ用途に寄って区切られています。
宗祇(そうぎ)は室町後期の連歌師と日本史で習いましたが、古典学者でもあったことを知りました。
応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日)
姓は飯尾といわれ近江の出自らしい。
若くして仏門に入り中年以後は臨済宗に属したと思われる。
連歌を宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに、
和歌を飛鳥井雅親に、
故実を一条兼良に学び、
卜部兼倶に神道の教を受け
東常縁(とうつねより)から古今伝授を受けた。
連歌師として名があらわれ始めた四十才頃より各地に旅して連歌界最高の栄誉をうけた。
ついには北野連歌会所奉行(北野天満宮に設けられた連歌活動を統轄する幕府の機関の長)という指導的位置につくに至った。
のちに、旅の詩人としてさまざまの伝説が生じ、芭蕉などにも影響を与えている。
白川郷に行こうか郡上八幡に行こうか迷いましたが、宗祇水が見たくって、郡上八幡にしました。
白川郷と違って観光地化されていないのがとてもよかったと思い出します。その後の旅行で白川郷に行って、旅行者が住人に怒鳴られているのを見て、興ざめしました。
思い出もかすんでしまいましたが悪かったことはいつまでも残っています。
私的には郡上踊りの町としてしか認識してませんでした。
今回は踊りの観光シーズン前だからか、ひっそりとしてました。
岐阜は、関西と中部地方の途中、名古屋へ行くまでの一部通過地点でした。
このたび、郡上八幡に実際訪れてみて、こんなに水の町として、清流を暮らしに活用していることに驚きました。
大阪は水の都といわれ橋はたくさんありますが、それほど水と共生してるとも思えない暮らしぶりです。
でも郡上八幡はいまでも自然の水を活かすインフラが大事に受け継がれててすばらしかったです。