秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

とうとうと流れる淀川、実は

2013-01-14 | 古代史のミステリー
1797年(寛政九年)の河繪圖の一部です。
江戸時代の淀川の鳥飼大橋あたりが描かれています。

淀川は大きな河川なので、なんとなくまっすぐ滔々と流れてるような気がしてた。

今まで何度も淀川河川敷でバーベキューしたり子供駅伝とかで利用しました。
その都度ある一部の河川敷利用で、堤防を長い距離歩いたことなかった。

ところが昨日歩いた豊里大橋と鳥飼大橋の間で、
カッキ~ンと90度近く曲がってるって、初めて気づいた。
知らんかったのは私だけか…。

この記事、カテゴリーは古代史ミステリーに入れました。
ミステリーではなくて事実なんでしょうが、
現代人は知らない人が多いかもしれないと思ってのことです。


古代の大阪平野は現在からは想像もつきません。
なんで大阪より内陸部の奈良に都ができたのか子供の頃より不思議だった。
この謎が古代の地形図を見て納得したので、
このブログでも何度かこうした地図はご紹介してきました。

そして今回はさらに淀川の流れがどのように変化したかを知り愕然。

大阪府の、治水の歩みというページより古地図もらってきました。
古代


江戸時代


現在



淀川と国道1号線と京阪鉄道は守口近辺では平行して走っています。
R1と京阪の中間に文禄堤があり、これは豊臣秀吉が整備した京街道です。
淀川の堤防だったといわれ、守口市役所すぐ近くには船着場が残っています。

土居にある守居神社は、淀川流域の守護神として土居を築き社殿を構えてお祀りされたのがはじまり。
1544年(天文13年)7月9日に前代未聞の大洪水があり、大門鳥居流失し社殿失損宝殿流損。
そして同じく京阪電車の土居駅の南側にある高瀬神社は
古くより交通の要所で淀川舟運の拠点として開けてきたと由緒に書かれてありました。

淀川はどのように流れていたんだろうとずっと気になってました。
国道1号線よりも現在、淀川に近い下島や八雲地区ってかつては川や中洲だったんだろうか?
しかし淀川左岸の八雲地区には縄文時代から近世にいたる大規模遺跡があり多数の遺物が出土している。
いったいどうなってるのか調べてみようと、
思い立ったが吉日。

江戸時代の地図の守口→七番、約2.5kmを歩いてきました。

ネット検索で、邪馬台国と大和朝廷を推理するというサイトがヒットしました。
「茨田の堤」というタイトルで章立てされてますので詳しくは→こちら
流離の神社、行基の堀川、仁徳朝の悲願

地形図から読み解く、水利事業から見えてくる歴史。
学校では教えてくれない大阪の歴史がよくわかりました。

   
クリックで拡大します。

仁徳天皇時代に河川の大々的な工事がなされ、
その形跡が「難波の堀江」や、「茨田の堤」など遺されています。
江戸時代に大和川の付け替え工事がなされ洪水がなくなったのは、河村瑞賢のおかげとか、
かすかに日本史で習ったような気がします。

この5年間、日本の古代史に興味をもつようになり、
四天王寺さん近くの谷町筋で凹んだ部分があるのは、
和気清麻呂が上町台地に掘り川を作ろうと掘削失敗した跡だと知り、へぇ~!!

和気清麻呂は淀川の流れを変えるためにもいろいろ工夫してたんですね。
実はその前に、行基が淀川の水利事業で努力したことを知りもっと驚きました。
行基の堀川」よりそのまま引用させてもらいます。

「守口市の北部では淀川が大きく湾曲し、淀川水運における難所として知られていました。
淀川流域では、冬はもちろんのこと年間を通じて西風の吹く日が多いような気がします。
淀川をさかのぼる船はこの風を利用しました。
ところが守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げました。
特に冬は逆風がきつかったと思います。
そこで、湾曲部の横に、直線的なバイパス堀川を掘りました。
それが大庭の堀川です。
もし大庭の堀川が完成していれば、守口の難所は解消したはずでした。
残念ながら今、大庭に堀川が残っていません。
いかなる事情があったのかはわかりませんが、工事は完成しなかったと思われます。

吹田の堀川は、守口から都島区毛馬に至る川だと思います。
これは今の淀川にほぼ重なります。
ここでは堀川が淀川本流になってそのまま残ったのです。
次田は誤字でしょう。今の吹田市のこととされています。
この堀川によって、南の蒲生方面へ大きく蛇行していた淀川の流れを短く直線化することができました。
さらに、守口から蒲生に至る古い川を埋めれば、淀川と大和川を分離することになったはずです。
おそらく古い川は、この時埋められたのです。」




行基の堀川には三つの目的がありました。
一つは淀川と大和川を遠ざけることです。
二つ目は淀川の流れを直線的にして、すみやかに海に流すことでした。
さらに、水運の利便性を高めることも考えられていました。
行基のアイデアは、完全には実現しませんでした。
ようやく明治時代になって、オランダ人のヨハネス・デレーケ淀川放水路を作ったときに、そのアイデアが引き継がれ、ほぼ完全に実現しました。
ヨハネス・デレーケは行基のアイデアを全く知らなかったと思いますが、
淀川と人々のかかわりを理解したからこそ、同じ結論を得たのでしょう。」




堺市の百舌鳥八幡にある家原寺は行基(668~749)菩薩生誕の寺。
智恵の文殊さんを祀られてるので、受験の時はいつもお参りに行った懐かしいお寺です。

さすが知恵の文殊さん、行基さん、すごいわぁ


仁徳天皇(313-399)第16代天皇
行基(668~749)奈良時代の僧 溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所
和気清麻呂(733~799)奈良時代末期から平安時代初期の貴族


8 コメント

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Unknown (TM)
2013-01-15 22:04:44
古地図を見ると、大阪が水の都であることがよく分かりますね。川によって交通がさかんになり、商業が発展し、大きな都会になっていく。また治水工事によって都市計画がすすめられたんでしょう。面白いですね。
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TMさんへ (おざさ)
2013-01-16 09:13:41
現代に暮らす私達は今の地形と建物を見ていますので、
かつての歴史がイマイチ理解できないことありますね。
すぐ近くの高瀬神社の由緒書きにある、
「古くより交通の要所で淀川舟運の拠点として開けてきた」
現在淀川から直線距離にしても1km以上離れていますから想像しがたいです。
行基が変えた淀川の流れ、全く知りませんでした。
中高時代の日本史では習いませんでしたし、
守口で育ったうちの子供達も町の歴史としても教えてもらってないと思います。
しかしこれはものすごく大きな情報だと思うのですけどね。
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大阪 (悠々美術館)
2013-01-20 16:49:50
大阪の古い地図
とっても参考にになります

江戸時代、中之島に蔵屋敷が立ち並んでいたこと
がうなずける貴重な資料です


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悠々美術館さんへ (おざさ)
2013-01-21 07:41:52
現在は淀川と大和川は遠く離れてますから、
かつて同じ場所に流れこんでたなんてとても想像つきません。
洪水氾濫をなくすため、二つの河川を引き離すのが長年の課題だったのですね~
この大阪府治水の江戸時代地図みると、中之島あたりかなり太い運河ですね。
掘削したものが今の大川とか堂島川になってるのですね。
淀屋橋のたもとだったかに淀屋○○門やらの碑が立ってたような気がする…
蔵屋敷が建ち並ぶ時代に大儲けしたんですよね?
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Unknown (りひと)
2020-01-15 18:48:48
家原寺は堺なんですね。メルキイに負けないようにしたいですね。縁ってなんな不思議ですよ。
家原行きたい〜!
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りひとさんへ (ulala)
2020-01-17 10:39:34
去年秋まつりの際に、堺でダンジリ事故ありました。
蜂田神社の八田荘地車が交差点を右折時に電柱衝突。
堺市中区八田寺町の八田は、蜂田氏で行基の母である蜂田古爾比売なんですね。
いつか鈴の宮と呼ばれる蜂田神社行こうと思っています。

国を耕したもの 行基(1)より引用

「行基が生まれたのは、現在の堺市西区の家原寺で、母方の氏族蜂田氏の所領でした。蜂田氏は中国系の一族で、八田という地名が今に残ります。この母方の生家を行基がお寺にしたことから、家原寺と呼ばれるようになるのですが、ここにおそらく通い婚をしていた父は高石を所領としていた高志氏で、こちらは百済系の一族でした。つまり今風に言えば行基は、中韓ダブルで生まれ、育ちは日本というなかなかインターナショナルな文化背景を持つ人物だった」
toursakai.jp/zakki/2017/03/30_2300.html
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Unknown (木方)
2020-12-15 09:42:07
ランキングで覗いてみたら酉の市が通過した後なのか鳥が気になってしまってます。まず鳥飼って地名は最近どこかで出てきて調べなきゃって思っていたんです。あと白鷺島っていう地図の中の文字にロックオンされてしまいました。その上がヒメジマだったかな?姫島は今年調べたりしがような?その下にも島?びっくりです。

それから行基さんは本当関東でも活躍の功績にで会う事が多いのでお母様は調べてなかった事がびっくり。
蜂は結構調べてますけど蜂の付く皇子と関係あったら聖徳太子との関連が遡れるか?山形にも関係するのか?気になります。地名が八田というのと家+原なので八も田も原もかなりあるだけで調べちゃうキーワードです。百済っていうと7世紀までですけど、田があると縄文っぽいし、原があると旧石器のイメージも勝手に出ちゃうので行基の知識や才能がどういう風に受け継がれたか?気になってしまいます。幸い行基は歴史の中でも情報がかなりあるので楽しみです。色は白かな?青と黒ではないけど、赤と黄色はあるかも?治水なので青あってもいいようにも思うけど肉体感が青っぽく感じない、知識と知性や教養には青はないわけないんですけど、なので白で行基探ってみます。飛ばないでずっと居てくれる鳥のがいいなあ。鳥飼さんが飼っていた鳥や鳥の埴輪出ている所も調べてみます。
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木方さんへ (ulala)
2020-12-15 10:57:22
昨日書いた記事で、こちらのリンク貼りましたからでしょうか。
けっこう見ていただけたのかな。

近畿で暮らしてると行基さんゆかりの地あちこちで出会います。
まぁ近くで生まれ育ったというのに、子供の頃は…

去年暮れ多治速ひめ神社へ初参拝できました。
わりと近くの行基さんゆかりの鈴の宮・蜂田神社行こうと思って一年が過ぎてしまってた。
土塔(どとう)も行きたいです。
また同じリンク貼っときます。
https://toursakai.jp/zakki/2017/03/30_2300.html

そう思ってたら、つい今しがた妹から電話あり、年末に帰阪すると。
墓参りの流れで連れて行ってもらおうと思います。
行基さんからやっとお呼びかかりました。
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