最近の結婚事情はずいぶん変化して、結納の儀式も簡素化してることとは思います。
かつては結納のときに、この高砂人形も一緒に飾られたものでした。
熊手をもった翁と箒をもった姥
きっと末長く共に老いていく象徴としてるのかなぐらいの認識でした。
そして結婚式の祝言で朗々と謡いあげられる「高砂」
♪高砂や この浦舟に帆をあげて この浦舟に帆をあげて
月もろともに出汐の 波の淡路の島影や
遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住之江に着きにけり はや住之江に着きにけり♪
歌詞の内容も今までちゃんと考えたことはなかった。
高砂や~っていうだけで、おめでたいものと思い込んでた。
あらためて歌詞を詠んでみて、
なんで住之江に着いてめでたいのかイマイチよくわかりません。
先日、住吉大社権禰宜・小出氏のお話に、この高砂がでてきた。
阿蘇の神主が高砂で老夫婦に出会い、住吉大社に至る物語だと、
そして能には住吉を題材にしたものがたくさんあり、
高砂・雨月・梅枝・住吉詣・白楽天・岩船・富士太鼓などと伺った。
いかに住吉が日本人の深層部分に刷り込まれているかを説明されたことの一つだった。
で、今まで全く興味がなかった高砂のあらすじを調べてみた。
平安時代前期、醍醐天皇の御世の延喜年間のこと、
九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、都見物の途中、
従者を連れて播磨国の名所高砂の浦に立ち寄ります。
友成が里人を待っているところに、清らかな佇まいをした一組の老夫婦があらわれました。
松の木陰を掃き清める老夫婦に友成は尋ねます。
「有名な高砂の松はどれなのか、
高砂の松と住吉の松とは遠く離れているのに、
なぜ相生の松と呼ばれているのか」
老翁は、この松こそ高砂の松だと答える。
たとえ遠く離れていても夫婦の仲は心が通うもの、
現に姥はここ高砂の者、私は住吉の者で、
相生の松が万葉古今で歌枕に詠まれている事等さまざまな故事をひいて松のめでたさを語ります。
相生は二人して老いる「相老い」にかけてあるのです 。
歌が盛んに詠まれ世の中が平和であることを象徴する「相生の松」のいわれを教えます。
♪四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎かや かかる代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき
やがて老夫婦は、我らは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると正体を明かし、住吉で待とうと小舟に乗って姿を消します。
友成一行は、月の出とともに小舟を出し高砂の浦から一路住吉へ向かいます。
♪高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり
住吉の岸に着くと、西の波間より住吉明神が姿を現します。
美しい月光の下、千秋万歳を祝って颯爽と神舞を舞う。
悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。
♪さす腕には、悪魔を払ひ、をさむる手には、寿福を抱き、
千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ、
相生の松風颯々の声ぞたのしむ、颯々の声ぞたのしむ、
高砂は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、
人世を言祝ぐ大変めでたい能であることはよくわかりました。
作者の世阿弥は、古今集仮名序及び中世の古今集註釈説をヒントにこの作品を作られたそうです。
全くの空想の産物ではなく、何らかの故事があったのでしょう。
阿蘇神社の境内には、友成が持ち帰った高砂の松の実が植えられ、
それ以来千年あまり、松を植えかえ植え継いで"縁起の松"を育てているそうです。
住吉と阿蘇にも何か繋がりがあるのかな?