ここ数日間に菅直人の一国のリーダーとしての仮面・元市民派としての仮面を剥がす記事を幾つか見つけた。先ず最初に12月22日(2011年)記事――《原発事故、官邸内で情報分断…避難混乱の一因に》(YOMIURI ONLINE)
政府の(東電第1原発)「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)の中間報告概要を紹介した記事である。
先ず東電の初期対応に関して原子炉の冷却操作で誤認や判断ミスがあったとしているが、このことが事故拡大につながったということなのだろう。
菅政権の事故・震災対応については、〈官邸内のコミュニケーション不足や重要情報の公表の遅れなど、政府の情報の収集・伝達・発信に問題があったことを指摘〉していると書いている。
では、菅政権の情報の収集・伝達・発信はどういった体制にあったのか。効率的・迅速的な体制を築くことができるかどうかも偏にリーダーたる菅首相のリーダーシップ(=指導力)にかかってくる。
大震災発生後、官邸地下の危機管理センターに各省庁の幹部らによる緊急参集チームが集合、陣取った。
菅首相以下政府首脳は執務室のある官邸5階に集合。
いわば一箇所に陣取って漏れのない迅速な情報交換を図って、発信していく情報を的確・迅速に決定していくのではなく、情報交換の場を二つに分けたばかりか、情報の決定は官邸5階のみが握って、地下の緊急参集チームは情報決定に関わることができなかった。
その結果、記事が紹介しているように、事故調査・検証委員会は、〈政府の事故対応に関する主な決定は、5階にいた一部の省庁幹部や東電幹部の情報や意見のみを参考に行われ、同チーム(緊急参集チーム)との連絡も乏しかったとした。〉という事態を招くことになったのだろう。
地下室と5階である。両者共、お互いの情報の遣り取りを直に目にすることも耳にすることもできない。両者間のその距離に対応した情報の距離を生じせしめた。
その結果の弊害の一つの例として記事は官邸5階が放射性物質拡散予測システム「SPEEDI(スピーディ)」の存在を把握していなかったことを挙げている。そのために住民のより適切な避難を阻害したと。
そしてこういった失態が生じた原因として事故調査・検証委員会はスピーディの活用に関する責任が所管する文部科学省と原子力安全委員会との間で曖昧だったことと官邸5階に文科省の幹部が在席していなかったことから、その存在が情報伝達されなかったためだとしている。
だとしても、2011年9月11日当ブログ記事――《菅政権は22年度原子力総合防災訓練でスピーディを用いている その存在を知らなかったでは済まない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたように、菅政権は2010年10月20日に静岡県の浜岡原子力発電所第3号機が原子炉給水系の故障により原子炉の冷却機能を喪失、放射性物質が外部に放出される事態を想定した、菅首相を政府原子力災害対策本部会議本部長とした「平成22年度原子力総合防災訓練」を行い、その訓練で「緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)」を使用、2010年10月20日の風速、風向、浜岡原発周辺の地形等に基づいて放射性物質の放出仮定量と拡散状況をシュミレーションし、その結果値からどの地域の避難が必要か等を訓練している。
菅首相自身が「SPEEDI」の存在を知っていなければならなかったのである。もし知らなかったとしたら、訓練の意味と政府原子力災害対策本部会議本部長の責任を失う。
住民の命がかかってくるのである。市民派とは一般市民、一般住民の立場に立つことが如何にできるかによって初めて市民派の資格と正統性を得るはずで、何よりも「SPEEDI」の存在を気にかけていていいはずだが、そうはなっていなかった。リーダーとして無責任極まりないということだけではなく、市民派は仮面に過ぎなかったことの証明以外の何ものでもあるまい。
「SPEEDI」を活用しなかったために、〈政府の避難指示が迅速に伝わらず、自治体が十分な情報を得られないまま、避難方法を決めなければならなかった〉と事故調の指摘として記事は紹介している。
記事は最後に、〈政府の情報発信では、炉心溶融や放射線の人体への影響など、重要情報に関する公表の遅れや説明不足があったとし、緊急時の情報発信として不適切だったと総括している。〉と伝えている。
情報の共有による情報の活用が的確に発揮されていなかった。組織運営能力をそもそもからを欠いていたために満足な情報体制を築くことができず、的確・迅速な情報の共有に基づいた情報の活用が的確・迅速に発揮することができなかった。
これが菅首相をリーダーとした菅内閣の事故対応姿勢だった。
このことは菅首相が震災と原発事故を受けて、役割が重なる会議やプロジェクトチーム、対策室等を官邸に20近くも設けて、結果として指示の不伝達・不徹底、指揮系統の不明確、責任所在の不明といった問題を引き起こしたことに重なる。
にも関わらず、菅首相は機会あるごとに「内閣としてやるべきことはやってきた」と国会答弁で何度も言い張っていた。
3月11日午後2時46分東日本大震災発生の翌日の3月12日午前7時11分から、菅首相は福島第1原発を現地視察している。原発事故で現地対策本部長を務めた池田元久前経産副大臣が3月11日の事故発生から5日間の様子を手記に纏めていて、その中で菅視察に同行したときの菅首相の態度を記しているという。
拾い出した限りでは、「asahi.com」、「YOMIURI ONLINE」、「MSN産経」が12月20日前後の日付で伝えているが、他にも伝えているマスコミがあるかもしれない。
記事は、怒鳴り散らしている菅首相の姿を浮き彫りにしている。極めつけは、「何のために俺がここに来たと思っているのか!」(MSN産経・朝日)である。
理に適った怒鳴りなら、怒鳴られた側は姿勢を正すことも必要となるが、言葉自体に何の理も見い出すことはできない。反発を誘うだけであろう。
このことは池田氏が「指導者の資質を考えざるを得なかった」(「asahi.com」・「YOMIURI ONLINE」)と書いていることが証明している。
元市民派が理路整然とした言葉で情報発信せずに視察で何様の姿を取って意味もなく怒鳴り散らす。市民派の仮面を自ら剥いだ瞬間であろう。
純粋な市民派はいくら反権力を掲げていたとしても、理不尽な権力者に対したからといって何様の態度は取らないはずだ。何様の態度は自分を偉く見せる態度であり、闘う態度ではないからだ。
それを下に位置する者に対して無闇矢鱈と怒鳴る。
菅首相は国会で、視察で「第一原発で指揮をとっている人の話を聞いたことは、その後の判断に役だった」と答弁しているが、一国の首相に怒鳴り散らされた側が果たして素直に心開いただろうか。萎縮し、恐縮して恐る恐るの言葉遣いしかできなかったのではないだろうか。腹の中では、クソっ垂れと反発しながら。
最後に何度も当ブログで取り上げている、東電の全面撤退の真偽の問題である。12月24日(2011年)付記事――《福島第1原発:「最悪シナリオ」原子力委員長が3月に作成》(毎日jp/2011年12月24日 15時10分)
記事は福島第一原発事故から〈2週間後の3月25日、菅直人前首相の指示で、近藤駿介内閣府原子力委員長が「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出していたことが複数の関係者への取材で分かった。〉と紹介している。
〈さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、原発から半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算していた。〉と。
近藤内閣府原子力委員長「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」
だが、これは前以ての危機管理ではなく、事故が起きてから対策を講じる慣例ともなっている後付けに過ぎない。
問題は記事が結びで、〈菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」と述べており、近藤氏のシナリオも根拠となったとみられる。〉と書いていることに関してである。
この記事が伝えている情報の前段部分である現実場面は、《検証・大震災:菅前首相の証言 国難、手探りの日々 「日本がつぶれるかも」》(毎日jp/2011年9月7日)によると、原発事故発生3日後の3月15日午前4時17分、清水社長が官邸を訪れ、東電が全面撤退を申し出たのに対して菅首相は全面撤退をその場で思いとどまらせる指導力を発揮することができなかったからだろう、約1時間10分後の午前5時35分、東京・内幸町の東電本店に乗り込み、そして、〈放射線の危険と隣り合わせの事故対処に、「覚悟を決めてくれ」と迫った菅首相。このときの思いを、こう振り返った。〉と記載されていて、その思いを次のように伝えている。
「放射性物質がどんどん放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる。国際社会が当然、日本に何とかしろと圧力をかける。黙って指をくわえてみていて、日本が何もやらないなら、国際社会だって黙っていない。ものすごい危機感があった。(放置すれば)間違いなくチェルノブイリ事故どころじゃない量の放射性物質が出る。国際的な部隊がやってきて対応しなければいけなくなることだって十分にありえる、と思った」云々。
いわば東電が撤退した場合の最悪のシナリオとして、「100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」との思いは3月15日午前5時35分に東電本社に乗り込んだときのものであって、首相を退陣後の9月の毎日新聞の取材に対して回顧として述べたという順序を取ることになる。
菅首相がこういった切迫した思いを3月15日当時実際に抱いていたとしたら、その切迫感は住民避難の範囲に影響してもいいはずだが、実際はそうなっていない。例え東電が全面撤退の申し出が事実あったことで、全面撤退の断念を約束したとしても、事故対応が満足に進捗しなかった場合、一度申し出た全面撤退にいつ突入するか分からないのだから、それ相応の避難を求めてもいいはずだった。
東電乗り込みの3月15日午前5時35分から約5時間半後の3月15日午前11時00分に緊急記者会見を開いて、高濃度放射性物質の放出を発表、同時に第1原発周辺半径20~30キロ屋内退避指示を行っている。
この半径20~30キロが「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感からあまりにもかけ離れているゆえに後付けの「100キロ、200キロ、300キロ」ではないかと疑っていたが、近藤駿介内閣府原子力委員長が「原発から半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算」した「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出したのは3月25日である。
いわば3月25日以前は菅首相は知り得なかった「最悪シナリオ」でなければならない。
知らなかったからこそ、3月15日午前11時00分の屋内退避指示を第1原発周辺半径20~30キロ程度とすることができたはずだ。
近藤内閣府原子力委員長3月25日作成の「最悪シナリオ」の提出を受けてから知った「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感であり、あくまでも「さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合」の「最悪シナリオ」であるにも関わらず、東電が3月15日に全面撤退を申し出たときの“最悪シナリオ”に変えて誤魔化している。
しかも菅首相は「最悪シナリオ」の提出を受けた3月25日の4日前の3月21日午後4時03分、緊急災害対策本部で原発事故について、「光明が見えてきた」(同毎日jp)と発言している。
いわば「光明が見えてきた」中で報告を受けた「最悪シナリオ」であった。それを東電が全面撤退を申し出てきた日の「最悪シナリオ」にすり替えた。
この誤魔化しは誤魔化す必要が何らかあったことからの意図的な作為に基づいているはずだ。東電の全面撤退が事実あったこととするために「100キロ、200キロ、300キロ」の切迫感を演じたのか、自身の首相としての事故対応すべてに正当性を与えるための強調なのか。
時事通信の退陣後のインタビューでは次のように発言している。
菅前首相「(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、(避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応は)当時の判断として適切だと思う」――
いわば自らの当時の判断を適切だとするために100キロだ200キロだ300キロだを後付けとして持ち出したとすることができる。
元市民派がする誤魔化しだろうか。権謀術数に長けた政治家だけがよくする誤魔化しであるはずである。
一国のリーダーとしての仮面を剥ぐと同時に元市民派としての仮面をも剥ぐ菅前首相の一連の態度と言わざるを得ない。
菅首相にとっての市民運動は政治的野心を満たすための利用の場であり、利用の機会に過ぎなかったとしか言いようがない。
参考までに避難指示と全面撤退等に関わる推移を時系列で。
2011年3月11日午後9時23分 ――半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の指示
2011年3月12日午前5時44分 ――避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大
2011年3月15日午前3時頃 ――菅、海江田経産相から、東電が全面撤退の意向を示していることを伝えられる。
2011年3月15日午前4時過ぎ ――菅、清水東電社長を官邸に呼ぶ。
2011年3月15日午前5時半過ぎ――東京・内幸町の東電本店に乗り込み、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴ったとされる
3月15日午前11時00分 ――第1原発周辺半径20~30キロ屋内退避指示 |