尾木直樹こども基本法講演:「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立った」は法律知らずの戯言

2024-07-28 09:29:21 | Weblog
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3.居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の
 導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 〈結果、TikTokに「ブラック校則なくなれ」と叫ぶ動画を投稿、その再生回数を誇る知恵のみを働かせることになる。〉

 「こども基本法制定記念シンポジウム」は 2022年7月23日に日本財団主催で時事通信ホールで行われている。テーマは「こどもの視点にたった政策とは」となっている。

パネリストは――
奥山眞紀子(日本子ども虐待防止学会理事)
山田太郎(参議院議員)
尾木直樹(教育評論家、法政大学名誉教授)
野村武司(東京経済大学現代法学部教授、弁護士、子どもの権利条約総合研究所副代表)
中島早苗(フリー・ザ・チルドレン・ジャパン代表、新潟市子どもの権利推進委員会委員)
 の面々。

 ここでは新聞・テレビ等の多くのマスメディアに顔出ししていて、著名で、幅広く人気を得ている、その人気に応じて影響力・発信力が際立つ優れた教育評論家尾木直樹が取り上げた「2つのテーマ」、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態」》、及び《「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 》をそれぞれ何回かに分けて眺めることにし、その解説の正当性、的確性を窺い、マスコミや教育者を含めた世間の高い評価の背後に隠されている実際の姿に光を当てて見ようと思う。そして最後に参考として尾木直樹の講演の全文を紹介しておくが、聞き取れなかった発言個所は(?)で表している。発言そのものは「YouTube動画」から採った。

 では、最初のテーマに入る前に当方が考えている、法律が抱えざるを得ない性格について少し述べてみる。こども基本法は2022年(令和4年)6月15日国会可決成立、2023年(令和5年)4月1日施行となっているが、法律である以上、各条文そのものはスローガンという性格を帯びることになる。スローガンで終わらせるか終わらせないかは国民それぞれが法律を自分事として義務化できるか否かにかかることになる。

 但し義務化に無頓着な大人は大勢存在するだろうし、例え義務化していたとしても、生活上、金銭や感情等の損得・利害の対立や衝突を受けた場合、それを自分に有利な解決に向けて優先させるあまり、義務化を忘却、あるいは義務化を放棄、法律の目的に反する行為に走ってしまうケースが多々あり、それが各種法律違反の形や犯罪の形を取る。

 要するに如何なる法律も条文に書いてあるとおりそのままに影響力を行使できる絶対的な保証を与えられているわけではない宿命、いわば法律どうりにはいかない宿命を負っている。だが、尾木直樹はこの視点を全く欠いている。

 最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態」》に入る。尾木直樹は冒頭、次のように主張している。

 尾木直樹「どうも皆さんこんにちわー、尾木ママですー。今、山田先生からですね、色んな、非常に広い観点から、コメントを聞いたり、一杯あったかと思うのですが、僕も一応レジュメを作ってきたのですが、前に(注:壇上正面に)出てきますけれども、漠然としたところもありますので、そこは焦点化して正していかなければならないなあというふうに思います。

 僕が今日、特にお話したいのは大人と子供の、子どもと大人ですね、子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立ったなあということで、新しい関係性をどう作っていくのか、そこをですね、現状の問題から含めてお話していければというふうに思っています。

 丁度77年前、男女平等が推進され、男女平等社会が始まった。それに匹敵するよりももっと大きいかも知れない、びっくりするような関係性の変化の問題、そんな今回のこども基本法が、こども家庭庁の意義が大きくあるんじゃないかなと思うんですけども――」

 要するに、勿論、こども家庭庁のバックアップを受けることになるのだが、 「こども基本法」の制定によって〈子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立った〉と見ている。立った以上、第二歩、第三歩へと進むことを予定調和(=当然視)していることになり、それが、「新しい関係性をどう作っていくのか」。いわばどう調整していくのかの言葉となっている。そしてその関係性はびっくりするような"変化"が期待されるといった趣旨の発言となっている。

 既に触れているが、このシンポジウムの開催はこども基本法が国会成立を受けて開催されたもので、この開催は施行約8ヶ月前のことだから、尾木直樹は条文だけを読んで、今までにない「子どもと大人の新しい関係性」が構築されるであろうことを敏感にも読み取ったことになる。

 この感性には法律の持つスローガン性や法律どうりにはいかない宿命というものに向ける現実的な視点は見い出し難い。

 尾木直樹はこども基本法がその効果を備えていると確実視している、いわばびっくりするような子どもと大人の新しい関係性を、「丁度77年前、男女平等が推進され、男女平等社会が始まった。それに匹敵するよりももっと大きいかも知れない」と、その当時に始まった男女平等の関係性以上の子どもと大人の関係性の
出現を予想して大歓迎している。この何も疑わない、批判精神ゼロの無垢な心情、あるいは単細胞には驚かされる。

 この「77年前」とは1945年年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により女性の国政参加が認められたことを指す。だからと言って、尾木直樹が断言するように女性参政権獲得によって「男女平等社会が始まった」わけでも、実現したわけでもない。80年が経過した今日でも、戦前の男尊女卑の価値観の後遺症を戦後の現在も引き継ぎ、男性上位・女性下位の形で色濃く残って、このことは各分野に於ける男女採用格差や賃金格差、家事分担や育児分担の男女負担の格差となって尾を引いていて、法律が平等と定めたとしても、法律の文言どおりとはならない義務化不足とスローガンとしての役目で終えている部分があることを証明することになる。

 大体が普通選挙法がどう改正されようと、投票率が高くて70%前後、低くて30%前後、少し前の世間の注目を集めた都知事選でさえ60.62%で、それ以前は60%を切っている投票率は普通選挙法を義務化していない国民が無視できない人数での存在を示していて、法律を以って絶対とすることはできない状況の証明以外の何ものでもない。

 尾木直樹のこの法律の文言をそのままに信じて疑うことを知らない純粋無垢な単細胞精神は2013年6月28日「いじめ防止対策推進法」の施行を受けて立憲民主党小西洋之が2014年3月発刊した著作に寄せた「推薦の言葉」に如実に示されている。《いじめ防止対策推進法の解説と具体策》

 〈教職員•保護者のための立法者による初の解説書

 「本書は、子どもの命を救う法律に息を吹き込み、血を通わせる、いじめ対策のバイブルである」 教育評論家 尾木直樹氏推薦〉

 要するに「いじめ防止対策推進法」自体を「子どもの命を救う法律」だと見ていた。だが、生きて在る命を歪め、損なうイジメ認知件数は年々増加し、イジメを受けて肉体的生命そのものを断たしめてしまう自殺件数も跡を絶たない状況は「子どもの命を救う法律」とは必ずしもなっていない現実を示していて、法律というものが抱えるスローガン性、子どもに対して義務化させることのできない大人の存在を頭に置くことのできない、尾木直樹の優れた合理的判断能力の欠如が生み出している法律というものに対する疑うことを知らない単細胞な買いかぶりといったところだろう。

 当然、この買いかぶりはこども基本法にも向けられることになる。

 こども基本法が掲げている子どもの人間的成長に向けた各方策、いわば"スローガン"の重要な点を列挙してみる。「第1章 総則 目的」では第1条で、"人格形成の基礎的構築"、"自立した個人としての成長の促進"、"生育状況に関係しない権利の擁護"、第3条「基本理念」で、"個人としての尊重"、"基本的人権の保障"、"差別の禁止"、"成長の度合いに応じた意見表明の機会の保障"、"多様な社会的活動参画の機会の確保"等を謳っている。

 これらのことを謳うについては謳っている方策が現実とはなっていないからで、現実化に向けたスローガンと見なければならない。大体がここに挙げた多くが日本国憲法が国民のあるべき姿として要求している諸方策であって、それを「こども基本法」という形で子ども単位に改めて要求すること自体が法律というものが宿命としているスローガン性と誰もが義務化する訳ではないその欠陥に留意しなければならないのだが、幸いにも尾木直樹は留意せずに法律の効果を予感できるのだから、他人にはない鋭い先見性に恵まれているのだろう。

 いずれにしても尾木直樹は「こども基本法」の成立を受けて、「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立った」と評価し、その「第一歩」を基礎に「新しい関係性をどう作っていくのか」と提言している以上、この講演を通して新しい関係性の構築を可能とする最良のアドバイスを提供するはずである。何らアドバイスを提示しなければ、自身のメッセージに対する詐欺行為そのものとなる。
 
 子どもの人間的成長に向けた核となる方策は日本国憲法「第3章 国民の権利及び義務」の第13条でも、「すべて国民は、個人として尊重される」と謳い、こども基本法でも、その必要性が高いことから謳うことになっているのだろう、"個人としての尊重"を第一番に掲げなければならない。なぜなら、この"尊重"の実践が子どもの人間的成長に向けた方策の第一歩、あるいは基礎となり、この第一歩、基礎が子どもの諸権利を認めるスタート台となるからであり、多くの大人が義務化を引き受けなければならない課題と見るからである。

 いわば法律がどのように子どもの権利を認めようとも、子どもが個人として尊重される扱いを受けない限り、それらの権利は子どもを素通りしていくことになる。

 子どもを個人として尊重するとは子どもそれぞれを、例え考えが幼かろうが、半端であろうが、幼いなりに、半端なりに一個、一個の人格と看做して、子どもが何をするについても本人の意志(意志はその子どもの意見・考えによって表わされる)を尊重・信頼し、その意志に任せることを言うはずである。結果、例え失敗しても、大人が失敗した理由、あるいは失敗しないための方法を教え、それ以後の行動も本人の意志に"任せる"信頼を積み重ねていく過程で信頼され、任せられる側の子どもは任されたことを成し遂げようとする、あるいは信頼に応えようとする自主性や主体性の育みと共に責任感を身につけていくことになり、この連鎖は成長に応じて紆余曲折を経ながらも、自分の意志・行動を自ら律する自律心や自立心という行動様式の養いに向かうことになる。

 要するに子どもが何をするについても子供の意志(考えや意見)を尊重・信頼して任せる"個人としての尊重"がこども基本法が目指している人間的成長要素となる、"人格形成の基礎的構築"、"自立した個人としての成長の促進"、"子どもの権利の擁護"、"基本的人権の保障"、"成長の度合いに応じた意見表明の機会の保障"、"多様な社会的活動参画の機会の確保"等の方策達成に手を貸すことになり、いわばこれらの達成の出発点が"個人としての尊重"――子どもの行動に関しては子どもの意志を尊重して任せる、それが大人の側の子どもに対する信頼ということになるはずである。

 簡潔に纏めると、子どもを個人として尊重するとは「子どもを信頼して任せる」ことを言うことになる。大人の子どもへの信頼が子どもの大人への信頼へと跳ね返って、循環し、積み重なっていく。

 当然、尾木直樹が言う、「子どもと大人の新しい関係性」も(子どもを個人として尊重する)=(子どもを信頼して任せる)子どもと大人の関係性を土台に置いて、そこからスタートする新たな関係性ということになると思うが、誰も考えつかない独創的な関係性を、期待はできないが、頭に置いているのかもしれない。

 ここで尾木直樹は壇上正面上方に顔を向けているから、実際はそこにプロジェクターで映し出していたのだろう、画面に画像として挿入されていた最初のテーマの各項目をテキスト化した。

 問題山積の教育現場と子どもたちの実態(一部)

①いじめ認知件数、重大事態の増加。
②子どもの自殺者数の増加
③体罰と「指導死」問題 
④人権侵害の「ブラック校則」問題 
⑤不登校と「登校しぶり」の急増(コロナ禍の心と生活――マス
  ク問題)
⑥「教育虐待」を生む受験制度と競争主義的教育
⑦教育格差の拡大(公私間、地方と都市間等)
⑧教師不足と質の低下が深刻化(わいせつ教師問題等)
⑨中等度以上の「うつ症状」の子ともが増加
⑩外国にルーツをもつ子どもたちへの差別、いじめなど、子ど
  もの命や人権に関わる深刻な問題が山積

 以上の10項目を2回に分けて記事にしてみる。

 要するにこの10項目のうちの多くが「子どもと大人の従来の関係性」が起因して表面化している諸問題ということであって、「こども基本法」が「新しい関係性」の構築に手助けしてくれて、諸問題の解決に向かうと、それ程までに「こども基本法」を買っている、あるいはそれ程までに「こども基本法」に肩入れしているということなのだろう。

 でなければ、77年前も昔の男女の関係性の変化を持ち出して、それと比較して「びっくりするような関係性の変化の問題」などと持ち上げたりはしない。

 尾木直樹「ここに10項目も挙がっていますけども、先程から理事長から、山田先生がおっしゃっていたんで、ダブっていますけども、中でも4番の人権侵害の『ブラック校則』の問題。これは僕はいつだったかな、結構最近なんですけども、TikTokをやってるんですね。こどもたちとつながろうということで。

 TikTokに『ブラック校則なくなれ』とか何とか、1分間ですから、叫んで動画を入れたらですね、何と再生回数が270万超えて、コメントだけでも、7000入っていて、ずっと楽しみながら、読みみましたけど、本当に苦しんでいます。

 とんでもない校則、下着の色で決めるとかですね、それをチェックするとか、まあ、髪の毛は自分は元々茶色に、外国籍っていうかな、外国の両親を持つ子であっても、黒く染めなければいけないという指導が入っちゃうという、もう人権侵害、人間否定です。本当にひどい、そういう問題。

 それから、『登校しぶり』というのが物凄く増えていますよね。日本財団の調査で33万人と言われていますよね。

 それからこれは『教育虐待』の6番目の問題なんかもホントーに、日本だけの問題じゃないですが、競争して他人より成績がいいとか、他人より何点取ったとかですね、優秀だとか、優秀でないとか、評価を決められたり。高校入試をやっても(?)凄く無駄なんです。どこも中高一貫なんです」――

 「ブラック校則」は教師が児童・生徒の価値観を信頼できずに自分たち大人の価値観を押し付けることによって生じる。いわば子どもに対して"個人としての尊重"ができていない。だから、校則に関わる各規則を任せることもできない。そのことが「ブラック校則」の存在根拠となる。そしてこのことを可能とする根本原因が根のところで日本人の行動様式として受け継いでいる権威主義であり、その今以っての横行であろう。

 ブログでこれまでに何度も繰り返し言ってきたことだが、「権威主義」とは「大辞林」(三省堂)に「権威を振りかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」とあるが、要するに「権威主義」とは権威を媒介物として上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向ということになる。

 子どもに対して子どもの価値観そのものを信頼して、その価値観に従った考えや行動を"任せる"のではなく、権威主義に基づき、教師の権威を振りかざして大人の価値観に従った考えや行動を取らせる。当然、任せることのできない行動力学からは信頼関係の構築は期待できず、自主性や主体性や責任感も満足に育たないことになって、自律した(あるいは自立した)存在となるには程遠く、結果、子どもをいつまでも手のかかる存在に閉じ込めておくことになる。

 この子どもをいつまでも手のかかる存在としていること自体が教師の多忙の大きな要因の一つであって、教師の働き方改革を言うなら、子どもの価値観を信頼し、何事も"任せる"習慣の獲得="個人としての尊重"を第一番に持ってきて、子どもを手のかからない存在とすることで、教師の時間と手間を最小化することだろう。

 ところが、そうはなっていない。大人の価値観が児童・生徒それぞれの価値観を信頼できず、下着の色や髪の毛の色を決めることにまで及んで、殊更子どもを手のかかる存在に仕立て上げている。いわば「ブラック校則」は権威主義に依りかかさった、子どもを信頼できない存在に仕立て上げている格好の事例と言える。このような両者の力学からは建設的で発展的な両者関係は期待できるはずはない。

 下着の色を何にしようと、髪の毛をどう染めようと、本人の美意識に基づいた一つの表現行為と認めて、その美意識が単に下着の色や髪の毛の色に関わる表現行為で終わらずに、色彩に関係する何らかの創作的な表現行為への将来的な発展を期待することを常々児童・生徒に伝えて、全てを任せる態度を取れば、児童・生徒は責任意識を刺激され、美容に関するスタイリスト、あるいは服飾に関するスタイリストとして、あるいはそのほかの美容系や美術系に関係する職業を進路とする可能性は否定できない。

 例え出てこなくても、任せらるれことが習慣となれば、責任感から、下着の色、あるいは髪の毛の色で終わらない行動を心がけるようになるはずで、それが任せられることの意味となる。禁止しただけでは反発は招くが責任感は育たない。責任感が育たない場所に自主性も主体性も、自律心も自立心も芽生える素地は期待できない。

 尾木直樹は「ブラック校則」を「人権侵害」だと批判しているが、人権侵害は人権侵害であっても、それだけでは表面的な解釈で終えていることになるが、本人自身はこのことに何も気づいていない。

 「ブラック校則」の成り立ちそのものが"個人としての尊重"を打ち出せずに児童・生徒の側の価値観を大人の側の価値観を絶対として排除、その無理強いを存在根拠としているという認識を尾木直樹自身が持つことができていたなら、子どもの責任感や自主性、主体性、自律心、あるいは自立心を育むためにも子どもが何をするについても"個人としての尊重"を前面に出して本人の意志、考えや意見を信頼し、その意志に任せて、大人の価値観を押しつけるべきではないことを道理とすべきだと忠告するはずだが、そんな知恵が働かないから、TikTokに「ブラック校則なくなれ」と叫ぶ動画を投稿、「再生回数が270万超えて、コメントだけでも、7000入っていた」と自らの手柄話とする知恵しか働かないだけではなく、それを子どもと繋がる手段の一つとしているとは底の浅い考えに取り憑かれていて、その程度で満足しているようだ。

 何のために学校教師を務めてきたのか、何のために教育評論家を務めているのか、意義を見い出すことができない。

 世間の「ブラック校則」に対する批判的趨勢によって女子生徒には許されなかったスラックス(あるいはズボン)が許されるようになっているようだが、色は黒か紺色限定で、ほかの色は許さないということは大人たちが新しい統一的価値観を権威として用意し、その権威に従わせる従来の方法と本質のところで変わりはなく、例え生徒の意見を求めて決めたことであっても、子どもの価値観に任せることとは明らかに異なる。

 成績を競う、あるいは成績を競わせる「教育虐待」は世の大人たちが作り上げた学歴主義に子どもたちを巻き込んで作り上げた残酷世界であるはずだ。この「教育虐待」という残酷世界も、大人たち、あるいは教師たちが子どもを個人として尊重し、信頼して、学校の成績一つに対しても本人の意志に任せるのではなく、逆の状況にあることによって作り上げられているはずだ。

 学校の勉強が好きになれない、頑張っても成績を上げることができなければ、学校の成績だけが将来的な進路を決めるわけではないこと、世の中に出ていくにはいくらでも方法はあることを教え、自分が世に出ていく最善の方法を見つけるよう促すことが子どもを一個の人格を有した個人として尊重することになり、そのような尊重に基づいて相手を信頼し、学校の成績一つに対しても本人の意志に任せることができれば、任された子どもは勉強の成績以外で世に出ていく方法を見つけるべく努力するだろうし、任されたことと努力することを通して自主性や主体性、責任感、自律心等々の性質や姿勢を学び取っていく方向に向かうはずである。

 だが、尾木直樹は〈「教育虐待」を生む受験制度と競争主義的教育〉だと旧来から言われている表面的な事実だけを把えて表面的な解説で終えるだけの能しか持たない。

 「こども基本法」に「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立ったなあ」との先見性を示しながら、子どもと大人の従来の関係性に起因し、表面化している「ブラック校則」に関しても、「教育虐待」に関しても従来どおりの表面的な解説で終えることしかできない。この先見性と表面的な解説の落差は先見性は単なるハッタリで、表面的な解説が尾木直樹の本質を提示することになるが、それとも最後の最後に目を見張るような種明かしを見せてくれるのか、そういったサプライズは先ず期待はできないが、今回はここまでにして、以後、おいおいと見ていくことにする。

 次回は最初のテーマである《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》の後半部分を取り上げることにする。

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