次期衆議院議員選挙 争点とすべき 2つのこと ◎森友・加計政治関与疑惑にまみれた 指導者を続投させるべきか否か ◎成長実感ゼロのアベノミクスを 効果があると見せかける幻想に 今後も付き合うべきか否か |
国が東海地震の予知前提の情報発表を中止する方針を固めたと2017年9月23日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。不可能だと予知を見限ったことになる。
〈「東海地震」は、南海トラフで起きるマグニチュード8クラスの巨大地震の一つで、国は、直前に予知できる可能性があるとして、39年前の昭和53年に「大規模地震対策特別措置法」、いわゆる「大震法」を制定し、予知を前提に防災対策を進めてきました。〉
つまり39年間、“予知可能”としてきた。但しこの“予知可能”は東海地震に限ってのこととしてきたらしい。〈東海地震は、国が唯一、地震の直前予知ができる可能性があるとしてきた地震で、地震の前兆とされる現象に応じて3つの段階の情報を発表する体制をとってきました〉と記事は書いている。
東海地震が“予知可能”ということなら、百歩譲って、“予知可能性”ということであってもいいが、他の地震も“予知可能性”の範疇に含めなければならないはずだが、東海地震に限る合理性はどこにあるのだろうか。
縄文・弥生の時代から巨大地震が発生していたことが考古学によって明らかにされているし、記録が残されるようになってから、歴史学その他にによって飛鳥・奈良・平安とM6以上7、8クラスの巨大地震に日本列島は見舞われていることが知られていて、この繰返し巨大地震が発生する傾向は時代が下っても変わらず、それゆえに地震列島と呼称されているはずだ。
にも関わらず、〈東海地震は、国が唯一、地震の直前予知ができる可能性があるとしてきた地震〉とされてきた。気象庁サイトの「東海地震の予知について」のページにも、〈東海地震は、現在日本で唯一、直前予知の可能性がある地震と考えられています(ただし、東海地震でも日時を特定した予知は不可能です)。〉との記述が載せられている。
つまり日時は特定できないけれども、間近に発生することを伝えることは可能としてきた。と言うことは、避難に十分に時間をかけることができる可能性を保証してきたことになる。
但しこのことの裏を返すと、阪神・淡路大震災や新潟県中越地震、東日本大震災等々の巨大地震についてはその発生に対する“直前予知不可能性”を許してきたことになる。東海地震とは違って、“予知可能性”唯一外だからだと。
東日本大震災の場合は地震調査研究推進本部が2008年に震源地を宮城県沖とした最大予測M8の巨大地震が30年以内に99%の確率で発生の予測をしていたと言うが、“直前予知可能性”のどのような情報も一切出されていない。
予知に関して「30年以内」という長いスパンでの予測は日々生活をしている国民にとっては無意味であって、間近に発生することを伝える“直前予知可能性”こそが意味を持つことになる。
「南海トラフの巨大地震モデル検討会第1回会合」(平成23年8月28日)の資料ページに〈東海地震は30年以内の発生確率は87%〉(2011年1月1日時点)と記して、東日本大震災に関して「99%」としていたように1の位まで明確に予知していることが意味を持つのは“直前予知可能性”を前提としていたからだろう。
“直前予知可能性”を前提とした東海地震のこの明確な発生確率予知とこれまで発生した巨大地震を“直前予知可能性”に入れていなかったこととの矛盾は否応もなしに露呈することになる。
だが、この矛盾は東海地震の“直前予知可能性”の取り下げによって解消することになる。他の地震の発生を直前予知できなかったことと整合性を取り合うことができる。
“直前予知可能性”の取り下げはこの地域で過去に100年間隔とかで何回か繰返して巨大地震が起きた、最後の地震から80年経過する、だから、2~30年内に再び起こる可能性があるという長期スパンの予測はできるが、直前予測は不可能で、いつ発生するかは分からないという意味解釈を取る。
だからこそ、国も地方自治体も起きた場合に備えることに予算をかけた方が利口で、より現実的だと今更ながらに気づいたということなのだろう。勿論、住民たる個人にしても気づかなければならない。
地震予知の不可能性を長年主張してきて、現在も唱えている東京大学名誉教授のロバート・ゲラ-氏著作の《日本人は知らない「地震予知」の正体》(2011年発売)に東海地震予知のために毎年100億円規模の予算が投じられているとの記述があることをネットに紹介されているが、上記「NHK NEWS WEB」に書いてある東海地震予知が「39年前の昭和53年」から進められてきたとの記述から計算すると、3900億円もの予算が費やされてきたことになる。
政府は予知を実際に中止する場合は、似たような過ちを繰返さないためにその額を明らかにすべきだし、もっと早い時期に中止の機会がなかったかについて、あるいは中止の決心のつけどころの有無についても調べるべきだろう。
中止へと転換する決心のつけどころが何回かあったにも関わらず、メンツや周囲の取り沙汰を気にしてズルズルと続けてしまうということは日本が制空権・制海権を共に米軍に握られた上に戦争継続能力を失いながら、振り上げた拳に拘って本土決戦に執着、ズルズルと戦争を続けて却って犠牲者を増やすことになった戦前の戦争の例からも容易に推測できる。