民進党議員の宮崎岳志(47歳)が2017年4月6日、「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書」を提出、安倍内閣は2017年4月14日に答弁書を提出している。
「答弁書」 学校での国語科や道徳の時間を含む全ての教科等の指導における教科用図書以外の教材の使用については、学校教育法(昭和22年法律第26号)第34条第2項等の規定に基づき、教科用図書以外の教材で有益適切なものは使用することができることとされており、文部科学省が各都道府県教育委員会等宛てに発出した「学校における補助教材の適正な取扱いについて」(平成27年3月4日付け26文科初第1257号文部科学省初等中等教育局長通知)において示した教育基本法(平成18年法律第120号)等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できるものである。 その上で、御指摘の「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』については、同書の一部を引用した教材を使用して同書が執筆された当時の歴史的な背景について考察させるという授業が行われている例があると承知している。他方、仮に人種に基づく差別を助長させるといった形で同書を使用するのであれば、同法等の趣旨に合致せず不適切であることは明らかであり、万一このような指導がされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきものである。 |
要するに教科用図書以外の教材は教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえていれば、アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』と言えども「有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できる」としている。
森友学園元理事長籠池泰典も「教育勅語」を「有益適切なもの」と考えて、朝礼で幼稚園児に朗唱させたのだろう。要するに「有益適切」という価値観は人によって判断基準が異なるから、厄介である。
相模原障害者施設殺傷事件の植松聖は(26歳)は障害者施設「津久井やまゆり園」に職員として勤務中の2016年2月18日に同僚に「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」と話し、同僚が危険を感じて園長に報告、翌日の2月19日に植松を呼んで面接した園長に対しても「ずっと車いすに縛られて暮らすことが幸せなのか。周りを不幸にする。最近急にそう思うようになった」と説明、園長が「ナチス・ドイツの考え方と同じだ」と植松の考えの危険性を指摘しても、「そう取られても構わない。自分は正しい」と自身の考えを譲らなかった。
施設側は障害者を殺す意向があると判断、翌2月19日に警察に通報。警察は植松聖が4日前の2月15日に衆議院議長の公邸で障害者に対する抹殺の意志と障害者の安楽死制度の提案を内容とした手紙を渡していたことなどを踏まえて、「他人を傷つけるおそれがある」と判断、相模原市に連絡、相模原市は緊急の措置入院を決めた。
植松は措置入院翌日の2016年2月20日に病院の担当者に「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話したという。障害者施設園長の植松の対障害者抹殺意志を「ナチス・ドイツの考え方と同じだ」と批判した言葉が暗示となって、自分は正しいという思い込みからヒトラーのホロコーストを正しいと価値判断したに違いない。
植松は入院から13日後の2016年3月2日に退院、そして約5カ月後の2016年7月26日未明、施設に侵入してホロコーストもどきを実行、入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた。
障害者抹殺をナチスのホロコーストに倣って「有益適切」と見做したからこそできた大量殺人であろう。
「有益適切」という価値判断が他者の価値判断からすると、「有害不適切」となり得る場合もある。また、その逆の場合もあり得る。
昨日のブログに書いたが、安倍晋三が天皇主義者・国家主義者の立場から理想の姿とする憲法は自身からしたら「有益適切」であっても、その立場に批判的な者からしたら、「有害不適切」そのものであろう。
安倍晋三の腰巾着官房副長官の萩生田光一が政府がヒトラーの「我が闘争」に関わる政府答弁書を提出した4月14日にから5日後の4月19日の記者会見で「我が闘争」を学校の教材として使うことについて次のように発言している。
「『わが闘争』の一部を引用した教材を使用し、執筆された当時の歴史的背景について考察させるという授業が行われている例がある。肯定しているのではなく否定的に使っている。
仮に人種に基づく差別を助長させる形で使用するのであれば、教育基本法などの趣旨に合致せず、不適切であることは明らかだ。万一このような指導がされた場合には、所轄庁や設置者において厳正に対処すべきだ」(NHK NEWS WEB/2017年4月19日 13時18分)
「『わが闘争』の一部を引用した教材を使用し、執筆された当時の歴史的背景について考察させるという授業」での否定的な使用なら問題はないが、「人種に基づく差別を助長させる形で使用するのであれば、教育基本法などの趣旨に合致しない」から使用は不適切だと言っている。
6日後の4月25日の文科相の松野博一が文科省での定例記者会見で同じ趣旨の発言をしている。関係個所のみを抜粋する。
記者「昨日、文部科学省のホームページに、ヒトラーの著書『わが闘争』が、学校現場で教材として使用されるかどうかについて、先般、政府の答弁書が閣議決定されたのですが、それに対して、中国の外交部報道官が反応する形でコメントを出し、それに対して文科省のホームページでは見解を出されたわけですが、見解を出された意図と狙いについて教えていただけますでしょうか。併せて、英語とドイツ語でも翻訳が出ておりますが、この辺の意図についても教えてください」
松野博一「御指摘の中国外交部の定例記者会見における発言は、全くの誤解に基づくものであり、事実関係を確認せずになされたこのような発言を正すことが必要だということから、昨日、日本政府の立場を改めて明確にするために、日本語・英語及びドイツ語でそれぞれHP上で公表をいたしました。
その中では、我が国においては、憲法に定める基本的人権の尊重等の基本原則や、教育基本法に基づいて人種に基づく差別等は絶対にあってはならないとの理念の下で教育活動を一貫して行っていること、我が国の学校教育においては『わが闘争』の一部を引用する場合には、あくまで否定的に引用した授業が行われており、こうした教育は、正に憲法との趣旨に合致し、憲法に定める基本原則の実現のために行われるものであることについて説明をしております。
文部科学省としては、このような立場を引き続き堅持し、人種に基づく差別やジェノサイドなどは絶対に許さないという意識をしっかりと定着させるための教育の充実を図っていくということであります。英語及びドイツ語等でも併せて発表したということは、広く世界に、日本の立場、政府の立場、文科省の立場を御理解をいただくということを目的にしたものであります」
日本国憲法は第3章「国民の権利及び義務」で、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定め、改正教育基本法で、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」と定めている。
松野博一は政府答弁書に添って、「我が国の学校教育においては『わが闘争』の一部を引用する場合には、あくまで否定的に引用した授業」での使用であるなら、「憲法に定める基本的人権の尊重等の基本原則や、教育基本法」が禁止している人種に基づく教育機会の差別に触れないゆえに許されるとしている。
そして「人種に基づく差別を助長させるといった形」での「わが闘争」の使用は不適切としている政府答弁書に同じく添う形で、「人種に基づく差別やジェノサイド(大量殺害)などは絶対に許さないという意識をしっかりと定着させる」否定的に引用に限った「教育の充実を図っていく」と宣言している。
ナチスの人種差別・ホロコーストを可能とした一大原因はヒトラー独裁体制に他ならない。ヒトラーの命令にドイツ国民の殆どが考えもなく忠実に従い、その命令を考えもなく忠実に実行した。
「わが闘争」はヒトラーが自身の思想を記し、その思想を自らの行動の基準とした書物であり、ナチスの「聖典」とされて、ユダヤ人虐殺や世界制覇に向けた侵略等々の行動に一つ一つ形に変えていくことができたのも独裁体制である。
独裁体制なくしてヒトラーの大掛かりな行動はなかったと確実に言うことができる。
翻ってナチス時代と世界史を同じくした戦前の日本を見たとき、戦前日本国家は天皇独裁体制にあった。「大日本帝国憲法」は「第1章天皇第1条」で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と天皇に主権を与え、「第3条」で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と絶対的存在に位置づけ、「第12条」で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、「第13条」で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定して、天皇は憲法上は絶対的権限の保持者の姿を取る独裁者に位置づけられていた。
昭和11年(1936年)以降、軍部が発言力を増大させて軍部独裁体制に向かっていくが、それを可能としたのは天皇独裁体制である。天皇が持つ絶対的権限を天皇の名に於いて利用、天皇は本心では日米開戦に反対していたが、軍部に押し切られて昭和16年(1941年)12月8日に開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)を発することとなり、日本民族を優越民族とし、アジアの各民族を劣等民族に位置づけたアジア制覇の戦争を拡大させていった。
かくこのように天皇独裁体制が可能とした日中・太平洋戦争である。
ナチスの人種差別・ホロコーストを可能とした一大原因がヒトラー独裁体制であって、「わが闘争」がユダヤ人虐殺や世界制覇に向けた侵略等々の行動の基準となった思想書であったとしても、学校教育で否定的な使用なら問題はないとするなら、戦前の独裁体制を担った天皇という存在も学校教育で否定的に扱わなければ、似たような独裁体制であったことに対して矛盾することになる。
だが、安倍晋三や稲田朋美は靖国神社を参拝することで戦前の天皇独裁体制を肯定し、独裁者天皇が発した「教育勅語」を憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることはないと「教育勅語」を肯定することで間接的にではあるが、独裁者天皇まで肯定している。
確かにヒトラーと戦前天皇とでは独裁の規模に於いても、ヒトラーの思想を体現したドイツ軍と天皇の思想を体現した日本軍の行為の規模と残虐性の点に関しても桁違いではあるが、独裁という点では本質的には同じ地平にある。
それぞれの独裁性が誘発した世界史に現れたそれぞれの否定的足跡である。
であるなら、ヒトラーは許されないとするなら、戦前天皇にしても許されないとすることが独裁という政治体制に対する厳格な態度であるはずである。
ヒトラー著書の「我が闘争」の授業使用が否定的な教えのみが許されるとするなら、戦前の独裁天皇制に関しても右へ倣えして、その当時の天皇の在り様だけではなく、「教育勅語」を含めて、戦前天皇が発信した思想のすべてを否定的に取り扱うべきだろう。