1958年から検定を受けない副読本を使った教科外活動としてスタートした「道徳の時間」が小学校では来年の2018年の春から、中学校では2019年の春から「道徳」として教科化されることになり、その授業で使用される教科書の検定で文科省は、と言うことは、安倍政権は戦前回帰、復古主義を密かに意図しているのではないかとの文脈の報道を、安倍政権寄りを除いて各マスコミが紹介している。
2017年4月5日付「毎日新聞」記事の《道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず》から見てみる。
教科書出版会社の東京書籍が小1向け道徳教科書に載せる題材として、これまで副読本の中で紹介してきた「にちようびの さんぽみち」をそのまま載せたところ、祖父との散歩の途中で立ち寄るパン屋が「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」との検定意見が付き、東京書籍がパン屋を和菓子屋に修正したところ、検定に通ったというものである。
勿論、検定意見がついた題材をどう変えるかは出版社側の判断である。しかし通すか通さないかは文科省側の判断で、そこに国側の意図が働く。
では、検定意見がついた題材と修正後の題材はその一部を画像で紹介しているが、より多く紹介している《ネットロアをめぐる冒険》なるサイトから引用してみる。 NHKのニュース画面から文字起こししたらしくて、修正後の文章の一部が□で紹介しているから、毎日新聞の画像から補っておいた。
検定意見がついた文章 「にちようびの さんぽみち」 〈よいにおいがしてくるパンやさん。 「あっ、けんたさん。」 「あれ、たけおさん。」 パンやさんは、おなじ一ねんせいのおともだちのいえでした。おいしそうなパンをかって、おみやげです。 それからちがうはしをわたって、すこしあるいたら、 「あれえ、いつものこうえんだ。」 「そうだよ。きょうはちがういりぐちについたのさ。」 あたらしいはっけん。けんたは、いつもとちがうさんぽみちもだいすきになりました。 修正後の文章 「にちようびの さんぽみち」 そして、あまいにおいのするおかしやさん。 「うわあ、いろんないろやかたちのおかしがあるね。きれいだな。」 「これは、にほんのおかしで、わがしというんだよ。あきになると、かきやくりのわがしをつくっているよ。」 おみせのおにいさんがおしえてくれました。おいしそうなくりまんじゅうをかって、だいまんぞく。 それから、ちがうはしをわたって、すこしあるいたら、 「あれえ、いつものこうえんだ。」 「そうだよ、きょうはちがういりぐちについたのさ。」 あたらしいはっけん。けんたは、まちのことや、はじめてみたきれいなわがしのことを、もっとしりたいとおもいました。 |
検定前の文章は他の記事によると、祖父と一緒に散歩に出かけた小学1年生のけんたが普段とは違う道を歩き、地元のよさを発見するという内容だそうだ。
検定意見はパン屋では、「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」だとした。
文科省担当者「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」
つまりパン屋では小学1年生を対象とした「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」の刷り込みには不十分で、和菓子屋なら、その刷り込みはそれ相応に果たすことができると国は判断したことを意味する。
と言うことは、パンは和菓子よりも日本の「伝統と文化」という点で不足していて、それゆえにこそ、「国や郷土を愛する態度」を学ばせる点でも物足りない食品であるということになると価値づけたことになる。
既に断っているように検定意見がついた題材をどう変えるかは出版社側の判断であるが、職業を和菓子屋に変えたところ、検定で通したということは文科省側の判断であり、国側の判断となる以上、道徳の授業で「国や郷土」という生活空間を扱うときは「伝統と文化」を装わせた教材を用いなければならないことを基準づけたことになる。
いわば「国や郷土」と「伝統と文化」を常に一体化させていなければならない。
その「伝統と文化」にしても、パン屋に検定意見が付き、和菓子屋に修正したところ検定に通った経緯からして、戦前のそれを引き継ぐ「伝統と文化」に限定していることになる。
でなければ、パン屋に検定意見がつくはずはない。
パンが和菓子よりも日本の「伝統と文化」という点で不足しているとの価値づけは日本人が日常的にパンを食べ始めるようになったのは敗戦後のことだから、敗戦を基点としたそれ以前からの「伝統と文化」だったのか、それ以後からかの「伝統と文化」だったのか、それぞれの歴史の長さが基準となっていることになる。
このことを言い替えると、敗戦以前からの長い歴史を抱えた「伝統と文化」は極めて日本的で、敗戦以後の短い歴史の「伝統と文化」は日本的であることから遠ざかるということになる。
食する機会の多さの点ではパンは和菓子りも遥かに日常化しているが、日常化云々は関係なく、日本の伝統と文化という点ではたかだか70余年の歴史しかないパン食を戦前から存在した和菓子の「伝統と文化」と比較した場合、デカイ面をして“日本の”という形容詞をつけるには憚れる「伝統と文化」に過ぎないということなのだろう。
あくまでも戦前からの「伝統と文化」なのか、戦後を主体とした「伝統と文化」なのかが問われることになる
だが、パンの原形は8000年~6000年程前の古代メソポタミアで始まったとされ、それが欧米各国で発展、日本では戦後の経済低迷期は除いて高度経済発展以降は生活が豊かになるにつれてフランスやイタリア、ドイツ等の長い歴史を経たパンに関わる伝統と文化を取り込み、それらが入り混じって日本のパンに関わる伝統と文化となって発展してきた。
いわば日本のパンに関わる伝統と文化は日本に於いてはその歴史は短くても、西欧の長い歴史と発展を味付けに加えて育まれてきた。
和菓子にしても日本発生の「伝統と文化」ではなく、ネットで調べると、小豆の原産地は日本を含む東アジアとなっているが、《京菓子の歴史と知識》(亀屋清永)なるサイトに、〈今日の和菓子の原型というべきは、鎌倉時代に禅宗(道元、栄西――中国の南宋に渡って帰国)と共に伝わった、点心や茶の子ではないだろうか。
饅頭、羊羹の原型は、中国の饅頭(まんとう)と呼ばれ、伝わった頃は、獣の肉が入った、今で言う肉まんのようなものや、羊や亀などの肉をいれた羹(あつもの)。つまり、汁物だったのです。〉と紹介し、〈砂糖が我国に伝来したのは奈良時代(754年)。唐招提寺を建立した、唐の鑑真が薬として石密(砂糖の開祖だといわれる)を天皇に献上したのが始まりという。
その後、室町時代に中国から輸入されるようになったとはいえ、砂糖を口に出来るのは、貴族や将軍など、高貴な人々だけであった。〉と解説しているところからすると、「和」(=日本)という言葉を冠して「和菓子」と名前付け、日本の菓子としているが、砂糖なくして小豆だけでは成り立たせることができない「和菓子」なる食文化は中国の伝統と文化を取り込んだ日本の「伝統と文化」ということになる。
昨日のブログで、〈「日本の伝統」という絶対的な規範は存在しない。〉と書いたが、和菓子にしてもこのことを裏付ける証明となる。
と言うことは、敗戦を基点としてそれ以前から存在することの意味を持たせて日本に於ける歴史が長いからと、その「伝統と文化」は極めて日本的で優れていて、それを尊重することは「国や郷土を愛する態度を学ぶ」キッカケに繋がるとする価値判断は文化相対主義の点から言っても正しい意味づけではないことになる。
逆に敗戦を基点としてそれ以後に一般化したがゆえに日本に於ける歴史が短いからとの理由で日本的とは言うことができず、日本の「伝統と文化」の範疇に入らないとする価値判断にしても正しいとは言えないことになる。
いわば日本古来の「伝統と文化」は優れていて、戦後に外国から入ってきて一般化した「伝統と文化」は劣るとする価値判断から見えてくる姿勢は日本的なるものへの非常に強い拘りのみである。
この強い拘りには戦前の精神・価値観を戦後の日本に蘇らせようとする復古主義・回帰主義しか見えてこない。
このような復古主義・回帰主義の現れの特大の一つが教育勅語の教育への活用をここに来て俄に見せ始めた安倍政権の動きであろう。
文科相の松野博一が2017年4月4日の記者会見で教育勅語を道徳を教える際に教材として用いることについて、「憲法の趣旨に反しない限り、一義的には教員や学校長の権限にある」と述べ、否定しない考えを示したと2017年4月4日付け「NHK NEWS WEB」記事が伝えているが、旧憲法で国民に基本的人権を十分に認めず、絶対的権能者として主権を握っていた天皇が要求し、制約する親孝行や夫婦愛といった徳目である以上、国民主権で象徴天皇制を採り、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由等で内心の自由を国民の基本的人権として認めている現日本国憲法と相容れるはずはなく、そうであるにも関わらず、「憲法の趣旨に反しない限り」と許されるはずもない口実を設けて教材使用に道を付けようとするのは戦前の精神・価値観を戦後の日本に蘇らせようとする復古主義・回帰主義以外の何ものでもない。
安倍晋三からして元々戦前の日本国家を理想の国家像と崇め、戦前の精神・価値観を戦後の日本社会に蘇らせたい衝動を抱えている国家主義者であり、同じムジナの国家主義者が閣僚として周りを取り囲んでいる。
教育行政が道徳の教科化を利用して復古主義・回帰主義を取らない方が不思議ということになる。