安倍晋三の4/17「100万円寄付をしたとしても、犯罪ではない」国会答弁、寄付が露見した場合の予防線

2017-04-19 08:26:49 | 政治

 2017年4月17日の衆院決算行政監視委員会で民進党議員階猛が共謀罪(テロ等準備罪)の成立によって冤罪が増えるのではないかとの趣旨で質問していた。

 先ず共謀罪の導入によって表現の自由や集会の自由が萎縮する危険性、犯罪に走る一歩手前の共謀の段階で成立する犯罪ゆえに監視が強化され、監視社会化する危険性を指摘し、もう一つの危険性として冤罪が生じやくすなる危険性を挙げてから、質問通告していなから答えることができないかもしれないがと断りを入れて、刑事補償法に基づいて支払われた冤罪に対する補償金はどのくらいか安倍晋三に尋ねた。

 安倍晋三「突然の質問ですから、お答えすることはできません」

 階猛「(平成)24年度は3億4500万円、25年度は2億9700万円。多いと見るか少ないと見るか、金額だけの問題ではありません。冤罪を受けた人がこれだけの金額がいるのは重く受け止めなければなりません。

 冤罪を議論する上で総理は最近国会の中で悪魔の証明という言葉を言われています。悪魔の証明という概念、非常に重要で、法律家の間では半ば常識的な言葉ですが、総理のお言葉として悪魔の証明とはどういう意味なのかお答え頂けますか」

 安倍晋三「やっていないということをですね、証明することは極めて困難があるわけでございます。だから、あなたがやったじゃないかと言う側がですね、物証等を上げて立証する責任があるということでございます」

 階猛「悪魔の証明ということが森友学園に関して問題になりました。具体的に言うと、鴻池理事長が先の証人喚問で首相夫人から寄付として100万円受け取ったというふうに言われました。

 しかし首相夫人はそいう事実はなかったと言うふうに主張して言います。なかったと言う方が証明するのが悪魔の証明で、難しいと言うことを総理はおっしゃったんだと思います。

 しかしこれと同様なことが共謀罪でも起こり得る、そのことを指摘したいと思います。例えばAさんとBさんとの間で(共謀対象罪の)277のどれかの罪で共謀があったかどうか、これが刑事裁判で争いになったとしましょう。

 被告人のAさんは共謀がなかったというふうに主張したとします。ところが証人に呼ばれたBさんは共謀があったと主張したとします。目撃者はおらず、密室の中でこの共謀の罪があったかどうか争われる。

 そいう中で密室での共謀の有無が争点となった場合、真実は共謀がなかったという場合であっても、被告人のAさんに於いて共謀がなかったことを証明するのは総理のおっしゃる悪魔の証明に当たって、冤罪が生じる危険が高いのではないかというふうに考えますが、総理如何ですか」

 安倍晋三私は森友学園について話をした件については、そもそもこれは寄付をしていませんが、寄付をしたとしても、犯罪ではない。感謝こそされ、犯罪ではないわけですから、同一に議論頂きたくないと思うわけでありますが、テロ等準備罪の密室についても他の多くの密かに行われる罪の場合と同様の方法で刑事訴訟法の規定に従い、必要な立証を適切に行うことになると考えられます。

 即ち共犯者の供述後、テロ等準備罪の証拠となるものですが、テロ等準備罪の立証についての証拠により合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証ができているかどうか裁判所により厳しくチェックされることになると承知をしております」

 階猛は刑事訴訟法が改正されて来年度からスタートすることになった刑事免責制度を挙げて、免責制度によっても冤罪が生じる危険性を縷々述べているが、安倍晋三が「寄付をしていませんが、寄付をしたとしても、犯罪ではない。感謝こそされ、犯罪ではないわけですから」と答弁したことに関しては何の思いも持たなかったようだ

 階猛は首相夫人安倍昭恵が100万円を寄付した事実はないと主張している例を挙げて、安倍晋三側がない事実の証明が極めて難しい、いわゆる悪魔の証明に当たるとしている立証困難性が共謀罪でも起こり得て、冤罪を生む危険性を指摘したに過ぎない。

 但し安倍昭恵が100万円を寄付したとされている事実を冤罪だとしているわけではない。単に立証困難性が類似している例として挙げたに過ぎない。

 対して安倍晋三は改めて寄付を否定、否定しただけではなく、「寄付をしたとしても、犯罪ではない」から、共謀罪と同一に議論することを忌避した。

 寄付をしていないことが例え立証困難な悪魔の証明に当たったとしても、夫婦共々寄付を否定している以上、「寄付をしたとしても」という仮定は存在しない。

 存在しないだけではなく、存在させてはならない。

 そのような仮定が存在しない以上、「感謝こそされ、犯罪ではないわけですから」と断りを入れる必要性も全然ない。

 寄付をしていないと繰返し固く否定していながら、「寄付をしたとしても」と、否定を自分からわざわざ否定するような仮定法をなぜ用いたのだろうか。

 例えばそのような人殺しはしていないと強硬に否定したにも関わらず人殺しの容疑で逮捕され、取り調べを受けた人間が、「もしそのような人殺しをしていたなら、どのくらいの罪になりますか」という仮定を設けた場合どうなるだろうか。

 設けた途端に取調べ側に犯罪を確信させるだろう。

 なぜなら、設けてはならない仮定だからだ。

 これと同じように安倍晋三は設けてはならない仮定を設けた。

 寄付をしたという行為もなければ、100万円というカネの動きもなかったと否定し、それを絶対としていながら、「寄付をしたとしても」と寄付をしていた場合の仮定を、設けてはならないにも関わらず設けて、「犯罪ではない」と、罪に当たる行為ではないと自らを正当化した。

 もし容疑者の取調べに当たる刑事なら、この発言から寄付を確信したとしても、当然の成り行きであろう。

 なぜなら、寄付が事実でなければ、このような仮定を持ち出すことはないからだ。
 
 いわば寄付が事実だったからこそ、このような仮定を用意しなければならなかった。

 では、安倍晋三はなぜこのような設けてはならない仮定を持ち出したのだろうか。

 このような仮定は寄付が露見した場合の予防線となる。その役目を持たせた仮定でもあるはずだ。

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