八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)

2024-03-16 03:58:30 | 教育
 大体が日本の子どもを子ども問題のスペシャリストと位置づけることの効果を、「これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と最大限に持ち上げているが、尾木直樹がこれまでに解説してきたイジメ解決の困難性を忘却の彼方に放り投げて180度転換させた、無責任過ぎる期待感となる。この無責任は尾木直樹を信用できない人間という評価に変えうる。

 日本の子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等をそれ相応に備えないままに、あるいはこれらの資質を育むことを頭に置かないままに「いじめ対策委員会」を立ち上げようと、「いじめをしない、させない、見逃さない」の「三ない運動」を展開しようと、学校が用意したお仕着せをそのまま纏う
他力本願の取り組みとなる可能性が高く、他力本願が与えることになる従属的対応のままに推移する恐れが生じる。この恐れは、イジメが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の欠如に端を発していることと考え併せた場合、イジメ認知件数の変わらない推移か、逆に増加傾向という姿となって現れたとしても、止むを得ないことになる。いわばイジメ認知件数と主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の資質の欠如の度合いはほぼ正比例の関係を取るということである。

 以上のことを頭に置いて、尾木直樹の以後の解説を眺めてみる。子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組んだとき、初めてイジメのない学級や学校の実現が可能となる。理由は学校の中にいじめがあることを一番よくわかっているのは子どもたちであることと、教師には発見できていなくても、子どもたちは身近にイジメがあることを知っているから…。

 子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組むには主体性や自立性(自律性)といった資質を積極的な行動要素としていなければならない。例え教師には発見できていなくて、子どもたちが身近にイジメがあることを知ることになったとしても、現実問題としてクラスの殆どを占める数で存在し続けているイジメ傍観者は教師より先に知るイジメの存在の把握を無効としている姿であって、同時に主体性や自立性(自律性)といった資質を行動要素として抱えていない姿を示していることになり、イジメ問題を自らの課題とさせることは難しく、学校側の指示に従う形の取り組みであった場合、言われたからするという積極性とは正反対の従属性や惰性に陥りやすく、その分、効果は減じることになり、尾木直樹のイジメのない学級や学校の実現が可能となるという約束は額面通りには受け取れなくなる。

 尾木直樹は引き続いて主体性や自立性(自律性)といった資質の必要性を頭に置くことができずに仲間の同調圧力(ピアプレッシャー)や自身が次はイジメのターゲットになる恐れや思春期のプライドからイジメを話したがらない傾向を考慮して、〈そこで仲間内の生徒会が「3ない運動」を立ち上げてくれたらどうでしょうか。〉と、主体性や自立性(自律性)といった資質を個々に育む方向には向かわずに、あろうことか逆の他力本願を勧めている。断るまでもなく、他力本願の姿勢・行動は主体性や自立性(自律性)といった資質を欠いていることから発する姿勢・行動である。

 だが、尾木直樹はこの他力本願のイジメ根絶の効果を高々と謳い上げている。

・スローガンとして打ち出されていれば、「ほら、3ないだよ。やめなよ」と言うことができる。
・「みんなで決めたこと」という錦の御旗があることで、全体の意志をバックに「3ないだから、いじめやめよう」と明るく堂々と言うことができる。
・元々どの子の中にも「いじめはよくない」、「人の心を傷つけることは恥ずかしい」という気持ちはあるのだが、一人声高に言い、前面に立つ勇気がなかなか持てないだけのこと。
・生徒会という子どもたちの自治の最高機関が「いじめない、させない、見逃さない」を謳い、校内のあちこちにスローガンを掲示してくれれば、俄然行動もしやすくなる。
・一人ひとりの心のうちにあった認識が、逆の同調圧力(ピアプレッシャー)として良い方向に作用し、周りにつられて「みんながいじめを追放したがっている。自分も行動していかなくては」と動き出す子も増えていく。
・それが全体の大きなうねりとなって行き渡れば、いじめの駆逐は夢ではない。――

 全てが自分から動くのではなく、他を頼り、他の動きを見て、自分が動く。周囲の形勢を見ることになり、形勢に応じて動くことになるから、例え「それが全体の大きなうねり」となったとしても、精々付和雷同を正体とすることになって、一時的か、その場限りか、その程度で、ホンモノのうねりとはなり得ない。主体性や自立性(自律性)の行動様式に従って自分たちから立ち上がるという形式を、それらを欠いているがゆえに取ることができないだろうからだ。 

 当然、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」という発案も、「子どもが中心」という熱い期待も、綺麗事の幻想に過ぎないことを暴露することになる。

 〈子どもが中心にならない「いじめ対策」は、形式的、表面的にいじめがなくなったように見えても、いじめの根を残したままになってしまいます。根っこを埋もれさせたままにしないため、極論をいえば、私は「子ども問題のスペシャリスト」である子どもたちに任せてしまうのがよいと思います。〉――

 子どもが中心のイジメ対策はイジメの根を残さない、教師指導のイジメ対策はイジメの根を残したままになる。それ程にも子どもを万能な存在と見ることができるのは尾木直樹の教育者としての人徳の深さなのだろう。子どもと言えども、感情の生き物である。その上、イジメ加害者にしても主体性や自立性(自律性)といった資質が成長途上であった場合、あるいは未成熟な状態にあった場合、そのような状況に応じて感情のコントロールも未成熟な状態にあると見なければならないから、これらの事情が障害となってイジメ被害者側との関係修復に素直に割り切ることができなければ、否でも根を残すケースも出てくる。出てこないという保証はどこにもない。

 要するに尾木直樹がここで解説している、子ども中心であればイジメの根を残さない解決策が可能という見方はイジメ解決側の事情からのみ見ていて、イジメ加害者側の利害を抜きにしているからである。教師指導でのイジメ解決であろうと、子ども中心のイジメ解決が可能であったとしても、現実問題として解決後、暫くは監視を続けなければならない事情はイジメ加害者側が感情の生き物として悪感情を再発させる恐れや可能性を予測しているからだろう。尾木直樹は教師を何十年、教育評論家も何十年とやってきて、実際にはイジメの何たるかを何も弁えていない無知蒙昧の輩のようだ。だから、何の根拠もなしに子ども中心のイジメ解決は根を残さないなどいうデタラメを言うことができる。

 イジメを抑制していくためにも、イジメ傍観者を少なくしていくためにも、既に述べているようにどのような能力・才能に基づいた、どういった活動に自らの可能性を置いて学校生活で望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、見い出しているのか、あるいは将来的な生活に向けてどういった活動で自らの可能性を試し、望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、機会あるごとに問いかけて、それぞれの行動を自己省察させる"可能性教育"を行う。

 自己省察は自ずと他者省察に向い、自他の省察能力を育み、この自他省察の自分という人間を考えさせて、他人という人間を考えさせる働き合いによって、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と考えるようになり、そのように考える働きが自分の意志や判断に基づいていて自覚的に行動する態度や性格を指す主体性を育む方向に進むと同時に自分の考えで自ら行動するという点で意味の重なる自立心と自律心を併せ育んでいく。主体性や自立心(自律心)が社会的な規範との兼ね合いで正しいことか正しくないかを判断させて、自己の価値観を正しい方向に形作っていき、それが良心という形を取って、例え突発的な感情に流されてイジメてしまったとしても、その行為に負けてしまうことなく、身に付けた諸々の行動要素によって感情のコントロールが働くこととなり、自己抑制の理性が機能するという道筋を取り、自分からイジメを止めることになるだろう。

 一方でイジメを許していることになる傍観者となることは倫理的に許すことのできない自己の価値観(=良心)との間に心理的なねじりを生み、そのねじりに人間の自然な感情によって後ろ暗さを感じることとなり、その後ろ暗さを主体性や自立心(自律心)によって備えることになる自己責任意識から解消すべく、知恵を働かす。働かせなければ、主体性や自立心(自律心)を自らの資質としたこと、姿勢・行動とした意味を失う。

 イジメの抑止についても、イジメの傍観者を減らしていくためにも、児童・生徒に責任ある行動を取らせるためにも主体性や自立心(自律心)の育みに視点を置いた教育が必要だが、尾木直樹にはこの視点は一切なく、イジメを「本気でなくす」だ、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」だと、役に立たない綺麗事を撒き散らしている。

 当然、子どもたちを「子ども問題のスペシャリスト」との位置づけを行う場合にしても、その資格は主体性や自立性(自律性)、自己決定意識、自己責任意識等々の資質のそれ相応の体現者であることを頭に置かなければならないが、尾木直樹はこういったことにも頭を置くことができないのだから、尾木直樹の「いじめ対策」に於ける"子どもスペシャリスト論"は幻想そのものの砂上の楼閣に過ぎない。現実問題としても、イジメ傍観者内には"正義派"が3人はいて、その3人を中心にイジメ加害者に対抗する多数派を形勢、イジメ問題を解決すべきという発案自体が当方が指摘したとおりに矛盾に満ちている上に主体性等々の資質の育みの重要性を忘却しているのだから、子ども自身にイジメ問題に立ち向かわせることはイジメ加害者側の勢力次第という当てにならない成り行きを示すことになるだろう。

 尾木直樹の最後の纏め。〈大人が躍起になっていじめを封じ込めるのでなく、子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼して、子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく方向にもっていくことだと思います。いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくことではないでしょうか。〉――

・子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼する
・子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく
・いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくこと

 尾木直樹は「子どもたちが主役」を何度か取り上げている。子どもたちを信頼する思い遣り、理解する優しさに満ちた姿は見て取れる。これだけ信頼され、深く理解されたなら、信頼と理解に応えることになるだろう。既に触れていることだが、信頼と理解に応えるには子どもたちがそこに存在するだけで可能となるわけではないことは尾木直樹も認識していなければならないが、そこに存在するだけで可能となるような言い回ししか窺うことができない。

 子どもたちが主体性や自立性(自律性)を年齢相応に育むまでに至らずに自己決定意識や自己責任意識を欠いていたなら、このことはイジメを目の前にしてもクラスの殆がイジメの傍観者に成り下がることが証明していることで、このような状況下で子どもたちを主役に位置づけ、尾木直樹が信頼と理解を寄せて期待する役割を十分にこなすことは不可能なのは目に見えている。

 結局のところ、1997年のスウェーデンの教育視察は深く理解できずにその上っ面だけを参考にして、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」だと自らの底の浅い解釈と発想を得意げに振り回したものの、役にも立たない見当違いを大真面目に演じているだけのことで、尾木直樹は教育評論家を名乗るピエロに過ぎない。だが、そのことに誰も気づかない。

 今回はここまで。

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