「日本維新の会」代表は太陽の党が合流して石原慎太郎が就任、代表だった橋下徹が代表代行に就いたのを度忘れして、橋下氏をそのまま代表と表現してブログに書いていたようだ。
但し「維新の会」の顔は橋下徹がどれ程に石原慎太郎を持ち上げようと、実質的には依然として橋下徹が務めている。
いくら代表代行であっても、「維新の会」の顔になって、「維新の会」を動かしているのは橋下徹だということである。彼の発するメセージが「維新の会」の考えを代表していることからでも証明できる事実であろう。
言って見れば、隠れ代表として代表代行を務めている。
その隠れ代表である代表代行橋下徹の「じゃんけん」発言が当事者間で揉め事のタネとなっている。
《みんなに合流打診=29日の都知事選告示まで-維新・橋下氏【12衆院選】》(時事ドットコム/2012/11/23-15:08)
11月23日(2012年)、テレビ朝日番組に出演して、出演前に渡辺喜美みんなの党代表に電話を入れて、次のように要請したことを明かした。
橋下徹代表代行「国のことを思うのであれば、自分たちのポジションとか自分たちの努力がどうのこうのということに関係なく、一緒にやりましょう」
東京都知事選が告示される11月29日までに決断するよう求めたという。その上で自分の考えとして主張した。
橋下徹代表代行「選挙区調整は最後はじゃんけんで決めてもいい。僕も代表代行のポジションにこだわっていない。みんなの党と一つに纏まっていかないと駄目だ。国のために」
橋下徹はみんなの江田憲司幹事長にも電話で同様に呼び掛けたというと、記事は結んでいる。
じゃんけん選択を提案された渡辺喜美みんなの党代表の反応。
《橋下氏のじゃんけん発言に激怒 渡辺氏「バカなこと許されない」》(MSN産経/2012.11.24 17:39)
11月24日の都内での街頭演説。
渡辺喜美「そんなばかなことが許されるのか。じゃんけんで決められる程、いいかげんな候補者を選んでいない。
(前日の23日に橋下氏に対して候補者同士による討論会を通じた一本化を提案したと明らかにした上で)橋下氏は『合流が前提でなければできない』と返答してきた。何のために戦う集団を立ち上げたのか」
要するに「候補者同士による討論会を通じての一本化」であろうと、じゃんけん選択であろうと、橋下徹は合流を前提としている。合流した上で、当日時点で両党の競合選挙区は18選挙区だそうだが、どちらの候補者を立てるのか決める考えでいるということである。
日本維新と太陽の党の合流について。
渡辺喜美「(両党の)政策合意書に『改革』という言葉が出てこない。戦う覚悟が書かれていない」――
「じゃんけんで決められる程、いいかげんな候補者を選んでいない」の意味には、インスタントないい加減の決められ方をされたのではたまったものではないという非難を含んでいるはずだ。
この非難に安住民主党幹事長代行が便乗した。《安住氏“野合に野合重ねる姿勢だ”》(NHK NEWS WEB/2012年11月24日 20時15分)
安住、「選挙が近づいたから、俄(にわか)に一緒になり、政策はどうでもいいから、とにかく候補者を統一するために最後はじゃんけんで決めると言っている。
そこまで有権者を愚弄していては、選挙どころか政党不信を増長させてしまうのではないか。野合に野合を重ねる姿勢は、いずれ厳しい審判が下る」――
民主党にも「厳しい審判」が待ち構えつつあるはずである。
橋下徹は「日本維新の会」の隠れ代表である、反発しないでは収まるまい。
次の記事が橋下徹代表代行の反発発言を詳しく伝えている。《「最後はえいやあ、で決めるしかない」 橋下徹氏》(asahi.com/2012年11月24日21時27分)
橋下徹「それくらいの言葉のニュアンス、表現の仕方を受け止められない政治家は政治なんてできない。政治家は言葉で物事を動かしていく。ジャンケンで決めましょうよ、というのは、要は最後は理屈で決めなくても一つにまとまりましょうよ、という強烈なメッセージだ。
批判することがないから、そういうことを取り上げて批判するのではないか。多くの国民のみなさんは分かっている。どうしようもない状況になった場合に理屈じゃなくて最後どっちをとるか。そういう政治判断、政治決断をジャンケンと表現した。最後五分五分になってどっちをとったらいいかとなったら、最後はえいやあ、で決めるしかない。そういうことを経験したことのない政治家がたぶん今回のジャンケン発言を批判していると思う。
分かる人は分かります。企業のトップをやっている人、責任ある判断をやり続ける人は僕の趣旨は十分理解してくれると思う。日本の政治家は、責任ある、ギリギリの判断をやったことのない人たちばっかりだというのがよく分かりました」――
「どうしようもない状況になった場合に理屈じゃなくて最後どっちをとるか。そういう政治判断、政治決断をジャンケンと表現した」と言い、「最後五分五分になってどっちをとったらいいかとなったら、最後はえいやあ、で決めるしかない」と言っている。
要するに五分五分でどちらにするか決めかねる状況では「最後はえいやあ、で決めるしかない」「政治判断、政治決断をジャンケンと表現した」のであり、このような「理屈」を超えた選択がどちらかに決めかねる状況下では一つに纏まる有力な方法であって、そのための「強烈なメッセージ」として、「じゃんけん」と表現したという発言趣旨になる。
だが、「ジャンケンと表現した」「政治判断、政治決断」が、立派な言葉を使っているが、その立派な言葉に反して、「最後はえいやあ、で決める」方法だと言うのだから、「えいやあ」が「じゃんけん」とイコールであってもいいわけであって、「ジャンケンで決めましょうよ」が「強烈なメッセージ」でも何でもなく、「えいやあ」と言葉を変えてはいるが、「じゃんけん」という選択方法を直接提示したことに変りはない。
要するに渡辺喜美代表の反論に対する橋下徹の反論にしても、最初に持ち出した「選挙区調整は最後はじゃんけんで決めてもいい」の提案と何ら変わらない言葉となっている。
最初に「じゃんけん」発言を扱った記事に触れたとき、言葉の綾に過ぎないと思った。実際にじゃんけんで決めるはずはないからだ。
しかし言葉の用い方としては不適切そのものとなる。二人の候補者をいずれかの一本に絞らなければならないとき、その選挙区に於ける各候補者の支持率、情報伝達力(=説得力)、積極的行動性(=実行能力=行動エネルギー)、指導力、政策構築能力等々を考慮しない選択はあり得ないからだ。
「じゃんけん」選択は候補者の以上の能力・資質に対する考慮を無視する決め方となる。当然、渡辺代表の「じゃんけんで決められる程、いいかげんな候補者を選んでいない」というごくごく真っ当な反発を生むことになる。
このように考えていくと、有権者に対する愚弄だという安住の批判も納得がいくことになる。
あるいは次のことも有権者に対する愚弄となるが、それぞれの能力・資質を無視して、党全体の利害打算から、一方に因果を含めて引導を渡すということもあり得る。
にも関わらず、「じゃんけん」を持ち出す、あるいは「えいやあ」を持ち出すのは認識が軽くできていなければできないはずだ。
橋下徹の提案は合流を前提としていると既に書いたが、橋下徹はそもそもからして対等合流ではなく、「日本維新の会」への吸収を形式とした合流を目的としている。
このことは既にブログに書いた次の発言が何よりも証明している。
11月19日(2012年)の大阪府高槻市内での、維新と太陽の党合流後初の街頭演説。
橋下代表「東京都知事、大阪府知事(経験者の)2人がタッグを組んだ政党は日本の政治史上初めて。行政経験のある石原慎太郎と橋下徹が中心の日本維新の会に一度力を貸していただきたい。
市長も知事も経験のない議員が日本国家を運営できるわけない」――
11月18日のフジテレビ「新報道2001」
橋下代表「行政組織を動かす、どこに問題があるかを判断して、そのような指示を出すのか、これはね、自治体の長を務めた者しか分かりません。
こういう自治体の長が国政を動かしていく、ってことが世界各国の潮流なんですよ。もう、このような方式をやらざるを得ませんね」――
日本国家運営者は行政トップ経験者でなければならないとしているのである。自身を支配的位置に置いた合流というわけである。石原慎太郎が代表であっても、あくまでも飾りであって、実質的な顔は橋下徹であると既に触れた。
例え石原慎太郎が首相になることがあっても、橋下徹が国を動かすことになるだろう。もし石原慎太郎が橋下徹のロボットになることを忌避、反発したら、二人の関係は決裂することになるに違いない。
自身を支配的位置に置き、何でも取り仕切る意識でいて、その取り仕切りが「日本維新の会」の内部には通用していて、維新の候補者には鶴の一言で効くだろうが(独裁的だと言われる所以である)、外部の組織であるみんなの党に手続きもなく通用するはずはなく、外部の組織なりに主体性を保持していることも考えることができずに手続きなしに取り仕切ろうとしたから、「選挙区調整は最後はじゃんけんで決めてもいい」などと、みんなの党の候補者の存在性を無視した軽い認識で提案することができたのだろう。
いずれにしても渡辺代表の反論に対する橋下徹の反論はマヤカシそのものの論理で成り立たせているに過ぎない。