田中真紀子文科相3大学認可見送りとそれに対する批判の是非を検証する

2012-11-07 10:34:09 | Weblog

 田中真紀子文科相が大学の設置認可機関である文部科学省「大学設置・学校法人審議会」が開校を認可した秋田市、札幌市、愛知県岡崎市の3大学の認可を見送ったことに猛批判が噴き出している。

 田中文科相は大学の数と数に対する質を問題とし、批判は多数議論の決定に対する個人の判断の正当性の適否を問題としている。

 田中文科相「大学(関係者)が委員の大半で、大学同士でお互いに検討している。

 全国に大学の数が約800あるが、質が低下している。量より質が重要だ」(MSN産経

 後者は次の意見が代表する。

 文科省幹部「大学設置認可の権限が文科相にあるとはいえ、審議会が半年以上かけて審査した結果を覆すのは、いかがなものか」(MSN産経

 「大学設置認可の権限が文科相にあるとはいえ」と言いつつ、審議会による多数議論の決定を大臣個人の判断の上に置いている。あるいは後者を絶対的判断と位置づけている。

 このような関係は審議会の決定を大臣が無条件・機械的に従うことによって成り立つ。

 いわば最終決定に関して、大臣は形式的存在に過ぎないことになる。

 だが、形式的存在に徹せずに、絶対であるべき多数議論を覆した。多分、田中文科相の決定を独断とすら見ているに違いない。

 もう一つ、両者の関係で分かったことは、田中文科相は審議会に出席していないということである。出席していたなら、自身の判断に基づいて多数議論をリードしただろうから、審議会の決定自体が違う内容となったはずだ。

 田中真紀子氏が文科相に就任したのは野田第3次内閣改造の10月1日である。そして1か月後の11月1日に審議会が3大学の来春開校認可を大臣に答申。翌日の11月2日の記者会見で、認可を見送ったことを公表。

 田中真紀子氏の文科相就任から1ヶ月ありながら、審議会に出席せず、審議会の多数議論決定の答申を待って、最終権限者としてその決定を覆した。

 大臣の出席が義務付けられているのかどうか、「大学設置・学校法人審議会令」を見てみた。義務付けられていながら、出席せずに答申を覆したということなら、田中氏に瑕疵があることになる。

 だが、「審議会令」のどこにも大臣の出席は書いてない。「議事」について次のように規定している。

 第9条 審議会は、委員の過半数が出席しなければ、会議を開き、議決することができな
    い。
  2 審議会の議事は、会議に出席した委員の過半数で決し、可否同数のときは、会長の決す
   るところによる。
  3 前二項の規定は、分科会の議事について準用する。

 大臣は委員の任命や指名の役を担っているのみである。

 また文部省のHP、《平成20年大学設置・学校法人審議会(第1回) 議事要旨》には、文部科学大臣の代理として、「高等教育局長」の名前が出ていた。

 要するに官僚主導で大学の開設が決まっていく構造があるのではないだろうか。

 このことは次の記事の田中発言からも見て取ることができる。《認可見送り 田中大臣決定に波紋広がる》NHK NEWS WEB/2012年11月2日 20時51分)から見てみる。

 田中文科相「これまでと同じように審議会にお任せするのがいいかどうかは、火を見るよりも明らかだ。多様な視点で判断してもらえる人選を行うなど、ありようを抜本的に見直したい」

 「大学設置分科会」の委員は15人で、うち11人は大学関係者で占められていると記事は書いている。

 穂積秋田市長「前の大臣が任命した諮問機関の審議会が許可すべきだとしたのに、新しい大臣の考え方一つで判断が変えられるというのは行政の継続性に逸脱し、非常に遺憾だ。審査する前にメンバーも基準も変えろと言いたい。文部科学省の内部の問題で、外部の私たちが多大な損害を受ける」

 田中文科相が問題とした4年制大学の数は20年前の平成4年の523校が10年前に686校、ことし5月には783校、ここ10年だけ見ても100校近く増えているという。

 問題は審議会が開校認可した大学が全て順調な経営と大学の質及び大学生の質を維持しているかどうかであろう。

 記事は書いていないが、大学の定員割れや廃校、募集停止が頻繁に発生し、8月27日(2012年)発信の「日経電子版」記事題名は《私大の45.8%が定員割れ 今春、3年ぶり4割台》となっているという状況、定員割れを中国人留学生等でどうにか補っている大学も数多く存在すると言われている状況、中国人留学生の多くが学費稼ぎにバーやキャバレーでアルバイトしている状況、中には留学は隠れ蓑で、単に日本に出稼ぎに来た留学生も数多く存在するとも言われている状況等は審議会の多数議論の決定が必ずしも正しい結果を生み出しているわけではないことを証明しているし、審議会による大学の粗製濫造と言われても仕方がないはずである。

 粗製濫造は当然質の低下を同時併行させる。

 実際にも大学の質だけではなく、大学生自体の質の低下も盛んに言われているはずである

 となると、穂積秋田市長が言っている、「前の大臣が任命した諮問機関の審議会が許可すべきだとしたのに、新しい大臣の考え方一つで判断が変えられるというのは行政の継続性に逸脱」するという批判は大学や大学生の質向上に資するか否かの観点を欠いているがゆえに必ずしも正当とは言えなくなる。

 橋下日本維新の会代表畑中文科相の今回の不認可決定を批判、大学の自由競争を主張している。《「需給調整は国の役割ではない」 大学不認可問題で橋下市長が田中文科相を批判》MSN産経/2012.11.6 21:47)

 大学や大学生の質の問題を需要と供給の関係のみで把えている。

 11月6日の大阪市役所記者会見。

 橋下大阪市長「大学の需給調整は国の役割ではない。切磋琢磨にさらさないと、大学の発展はない。

 大学の新規参入は認めるべきだ。(大学が)良いか悪いかはユーザーがきめればいい。大学がつぶれたときに、学生が他大学に移れるようにするなどのセーフティーネットを作るのが国の役割だ」

 大学間の自由競争のみで大学と大学生の質が向上するだろうか。質の低い大学に入学した、あるいは質が低いままに入学した大学生の質を低いままに放置して卒業させたとしても、そういう質の低い大学生のみが集まって経営さえ成り立てば生き残ることになる。

 大体が審議会の認可が降りないうちから学生募集のパンフレットを作成、校舎まで新築させていたというのは認可申請を提出した段階で開校を既定路線としていたということで、大学側と審議会側が正式な認可前に開校許可の何らかの意思疎通を図っていなければ不可能であるはずである。

 いわば審議会の議論は最初から“認可ありき”の多数議論ではなかったかという疑いである。

 このことの一端を次の記事が触れている。《「田中文科相の思い付きに振り回されたくない」 新設不認可で岡崎女子大の学校法人》MSN産経/2012.11.2 13:02)

 記事冒頭。〈田中真紀子文部科学相が認可しないとした岡崎女子大学(愛知県岡崎市)を新設予定の学校法人清光学園は2日「納得できない」とのコメントを出した。〉

 そして清光学園の話として、〈約2年前から文科省に設置を相談し、今年3月に認可申請。2013年度の開校に向け、大学設置・学校法人審議会からの問い合わせなどに応じていた〉と記事は解説しているが、この話自体が最初から“認可ありき”を前提としている。

 さらに次の解説も同じことを証明している。

 〈清光学園は岡崎女子短大や幼稚園を運営。短大を改築し大学校舎にするほか、大学案内のパンフレットなどを作成していたという。認可を前提に学生の募集を始め、今月末にも推薦入試を実施する予定だった。

 認可が降りるかどうか分からない段階で既に2013年度の開校に向けて準備し、学生募集と推薦入試実施を予定していた。

 審議会の議論は儀式に過ぎないことを証明している。儀式で済ますことができるのは校舎の規模や募集学生数に対する教師の人数等の規格面のみを問題にしているからで、どの程度の成績の生徒を募集するのか、どの程度以上の成績の生徒を進学させ、卒業させるのか、そういった成績の生徒が募集可能かどうかといった質の面を問題としなかったからだろ。

 いわば絶対評価でいくのか、相対評価でいくのかによって質は違ってくる。

 絶対評価でいったなら、定員割れの大学がゴマンと出るに違いない。

 清光学園「審議会の認可は得ていたが、大臣の判断で不認可だと伝えられた。詳しい理由を教えてもらえず納得できない」

 担当者「資金を投じて準備してきた。文科相の思い付きに振り回されたくない」

 何よりも問題なのは、大学開設の申請にしても、その申請に対する審議会の多数議論しにしても、“認可ありき”の前提で取り扱ってきたことであろう。

 〈3大学のうちの秋田公立美術大は「東北唯一の公立系美大」〉であることを以って、また、〈札幌保健医療大は「全国2番目の看護師不足地域克服」という明確な必要性〉(MSN産経)を以って開設の正当性を訴えているが、「唯一の公立」であることが質の確保の絶対条件となるわけではないし、看護師不足地域の克服という必要性、目的があったとしても、医師・看護師の都会一極集中を打破できる保証となるわけではない。

 そもそもからして、地方の医師・看護師不足は医師・看護師の都会一極集中が原因のはずだからである。

 自民党は田中文科相の「裁量権の明らかな乱用」(毎日jp)と把え、自発的辞任や参院に問責決議案を提出する選択肢も「排除しない」(同毎日jp)態度に出ているが、大学開設申請側や審議会の“認可ありき”の機械的大学開設の構造的問題、さらに大学や大学生の質低下の構造的問題からも、田中文科相の不認可を把えて批判すべきではないだろうか。

 田中文科相は批判の噴出に驚いたのか、新たに検討会議を設置、新基準を策定して、適合の場合来春の開学を認める方針転換に出た。

 多分、質抜きの“認可ありき”で軟着陸の決定を図るに違いない。

 アメリカやヨーロッパの技術を真似て、それを発展させてきた時代はとっくに終わっている。このような発展構造は中国や韓国に移っているからである。

 創造的な能力が日本人にとって平均的ではなく、一部のみが突出した構造で創造的である場合、創造性を日常的に相互に刺激し合ってなお一層創造性を高める機会が与えられずに一部のみの創造性にとどまることになり、必要とされる産業構造の転換や技術革新、政治の変革が世界にただでさえ遅れを取っている状況から抜け出せないことになる。

 少子高齢化・人口減少社会に対処するためにも産業構造の変化や技術革新、政治の変革は早急に求められているはずである。

 アメリカが自国以外から優秀な能力・優秀な頭脳を抵抗なく受け入れて創造性発揮の場を提供、そのことが他の創造性を刺激して産業構造の転換や技術革新、政治の変革につながっていく。

 暗記教育から脱して自ら考える思考性を持たせる教育に日本の教育を転換することから初めなければ、創造的な能力の平均化は望むことはできない。

 質を抜きにただ大学や増やせば済む問題ではない。

 このことに田中真紀子文科相は一石を投じた。

 問責決議案や自発的辞任で片付けていいだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする