野田新首相の「どじょう」論から、その政治姿勢を窺う

2011-09-03 11:45:10 | Weblog

 野田財務相が民主党代表選演説で詩人相田みつを作品の「どじょう」を引用した途端に「どじょう」が脚光を浴び、その作品に注文が殺到、相田みつをブームが再燃したとマスコミがその熱狂を伝えていた。

 日本人だけなのか、日本人だけではないのか分からないが、どうもいとも簡単に影響を受けやすい傾向を逆に嗅ぎ取ってしまった。

 どんな詩か調べてみた。MSN産経記事に相田みつをの長男で相田みつを美術館館長の相田一人氏がその詩が印刷してあるページを開いて詩集を手にしている写真が載っていた。

 どじょうがさ
 金魚のまね
 することねん
 だよなあ
 みつを

 無理な背伸びはするなという警句なのだろうと思う。どじょうはどじょうでしかない。どじょうとして生きろ。金魚として存在することはできない、と。

 あるいはどじょうはどじょうとしての特徴がある。その特長を生かして生きろ、その特徴のままに生きろ、ということではないだろうか。

 詩の解釈となると苦手だから、どうしても憶測となる。
 
 しかしこの詩はそれぞれの生物学的な存在性の違いを以って乗り超えることはできない違いだとあくまでも生物学的に把えて、その生物学的な超越不可能をそのまま人間に当てはめる解釈となっているように思える。

 それぞれの存在性を生物学的に把えるのではなく、生物学から離れて、それぞれを人間の存在に象徴化させた場合、どじょうと金魚は同じ人間でありながら、単に社会的な存在性の違いと化す。

 当然、どじょうたる人間が金魚クラスの人間に到達しようと、あるいは乗り超えようと挑戦してもいいわけで、「金魚のまね」をすることも、表面的な真似で終わるのは問題だが、間違っていないことになる。

 野党時代の民主党はある意味、どじょうであったと言える。それが2007年参院選前から俄然金魚へと変身を開始し、2009年総選挙で金魚と化したが、特に菅無能首相によって再びどじょうに回帰させてしまった。

 敗戦ですっかりどじょうと化した日本は高度経済成長によって徐々に金魚に変身、世界第2位の経済大国の地位を獲得、政治的・外交的にもアジアの盟主となることによって金ピカの金魚と化したが、失われた10年を経て、それでも経済大国世界第2位の地位を長らく保っていたが、ここに来て世界第2位と政治的・経済的なアジアの盟主の両地位を中国に譲り、先進国中最悪の財政赤字を抱えて金魚からどじょうに戻りつつある危険域に立たされている。

 「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」などとは言っていられない。「金魚のまね」ではなく、金魚そのものに回帰・変身する政治的・経済的挑戦を開始しなければならないはずだ。

 野田新首相が8月29日(2011年)の民主党両院議員総会で行った民主党代表選の演説でどういった趣旨で相田みつをの詩を取上げたのか、また立候補のときに表明した政治的な考えを知ると同時にそれが今後の政治行動の中で維持されるのか、変質させていくのか、そのスタートラインの発言として記録しておくために、横着をして演説を書き起こした記事がないかとインターネットを捜したが見つからなかった。

 で仕方なく、第2日テレ「ノーカット工房」に収められている動画《野田財務相が演説 民主党代表選 》から採録することにした。

 野田候補者「このたび民主党代表選挙に立候補させていただきました衆議員の野田佳彦でございます。どうぞよろしくお願いいたします(深々と頭を下げる)。

 私は、今日は限られた時間で、私の来し方を振り返りながら、自分の政治信条、政治理念の一端をみなさんにお示しをしたいと思います。

 私の父は、富山県の農家の、6人兄弟の末っ子でございます。私の母は、千葉県の船橋の、農家の11人兄妹の末っ子です。農家の末っ子同士の間に生まれた子どもが長男の私です。

 選挙区は都市部ですが、なぜかシティボーイに見えない理由は、そこにあるかもしれません。(笑いを誘う笑いをほんのりと浮かべる) 

 貧乏だったので、披露宴を挙げていません。父のトランクの上にお茶碗を乗せて、そして食事をしたという、そういう新婚生活から始めたそうです。でも、それからの時代は良くなっていくだろうという希望があった。いわゆる3丁目の夕日の時代でありました。

 そんな私が初めて政治を意識したのは、昭和35年10月、ご年配の方は分かるかもしれません。当時の日本社会党委員長、浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で刺殺されるという事件がございました。

 私の家はなぜか白黒テレビあったんです。親父は貧乏だったけど、プロレスが大好きで、テレビを買っていました。しょっちゅうニュースが流れました。こわーい刺殺シーンを、お葬式のシーンを。私は子供心に母に聞きました。

 『何であのおじさんは殺されたの』

 そのときに言われた言葉。『政治家って、命がけなの』っと、言われた記憶があるんです。

 それが初めて政治を意識した瞬間です。 

 保育園に通っているとき、今度は海の向こうから悲報が届きました。ジョン・F・ケネディの暗殺です。私は幼児の頃、政治の仕事とは怖い仕事なんだという、そういうイメージがインプットされました。

 次第に長じて、新聞等を見ていると、命がけで仕事をしているよりは、金権風土を尊重するような事件が続き、どおーもギャップがあるなあと思い始めました。そんな中で、私は学生時代は柔道部でした。当時も政界に入った今も、寝技は苦手です。

 一方で、シャイな文学好きの、そんな少年でもありました。今も時折り読みます。時代小説が大好きです。時代小説で政治の素養というものを学んだと思っています。

 司馬遼太郎から夢と志の世界を。藤沢周平から下級武士の凛とした佇まい、矜持を。山本周五郎から、人情の機微を学びました。

 政治に必要なのは夢、志、矜持、人情、血の通った政治だと思います。

 今それが足りないから、政治に対する不信、政治に対する不安が出てきているんではないかというふうに思います。

 そんな私が、~(聞き取れない)を契機にジャーナリスト志望だったところが政治家を志すことになりました。初めて出ようとした選挙は昭和62年4月の千葉県の県会議員選挙です。

 その前の半年前昭和61年の10月から、毎朝街頭に立つようになりました。津田沼駅、船橋駅。ずうっと続けてまいりました。大臣になる前の昨年の6月まで、4半世紀続けました。

 最初のデビュー戦、ジバン、カンバン、カバンなし。されど正義あり。されどバイタリティあり、良き友あり。こういうスローガンで戦いました。

 誰も応援をしてくれないので、一人で街頭に立ちましてけども、誰も注目してくれないので、1日13時間、同じ場所に立って、辻説法したこともあります。中古の街宣車が壊れたので、ハンドマイクを担ぎながら、1日中歩きながら、辻説法をしたこともあります。

 その結果、1万8千707票、当選をすることができました。どこにも入りたい政党がなかったので、一人会派で4年間過ごしました。

 次ぎの2回目の選挙。大雨となってしまいました。投票率が10%下がりました。誰もが落ちるだろうと思いました。でも、1万8千707票から2万405票に増えたんです。雨が降っても、傘を差しながら、私の名前を書いてくださった方が増えたということを、感動しました。

 組織もありません、団体もありません。投票所に行くとお分かりのとおり仕切りがあります。その仕切りで名前を書こうとすると、誰も囁くことはできません。強制して書くこともできません。そんな雨の中を、強制もされずに2万405票。40人学級で500クラス分の人たちがわざわざ足を運んでいただいたことに感動をいたしました。

 一人ひとりを大切にする政治、そのとき遣り遂げようと思いました。

 でも、どっかで気が緩んだんだと思います。

 初めての国政選挙挑戦は成功しました。万年与党・万年野党という体制を壊して、自民党に代るような政治勢力をつくって、政権交代をしたい。これが私の思いでした。

 でも、2回目の選挙、初めての小選挙区制で、私は敗れました。105票差。重複(ちょうふく)立候補をしていませんでしたので、3年8ヶ月浪人をいたしました。

 この浪人のとき、私は改めて、105票差ですから、なーんであの人たちはあの日旅行に行っちゃったんだろうとか、なーんであの地域、もっと強く入らなかったんだろう。百八つの煩悩ばかり出てきて、天井を見ると眠れない日々が続きました。

 改めて自分は一人ひとりの政治をと言いながら、一票は重いと言いながら、それに徹してこなかったことの痛切な反省が生まれました。一人ひとりを大切にする政治は私の原点です。

 ここに集(つど)った、ご縁があって集った、掛け替えのない民主党の、一人ひとりの同士を、大切にしたいと思います。私は排除の論理は絶対にこれは通しません。

 浪人中にもう一つ、大変自分にとって得難い経験をさせていただきました。それは先ほど105票差ですから、心にストンと落ちたときに、ある勉強会に行ったんです。たまたま友人に連れられていった勉強会でした。殆んど眠っていました。その眠っていた勉強会で、スーッと耳に入ってくる、心に入ってくる話がございました。

 それは朝顔の話です。朝顔が早朝に可憐な花を咲かせるには何が必要か、というお話でした。答は、私は日の光だと思いました。違うんです。朝顔が早朝に可憐な花を咲かすために敢えて一番必要なのは何か。その前の夜の闇と夜の冷たさだということでした。

 私はびっくりしました。人生が変わりました。闇を知って、初めて仄かな光に嬉しいと思うんです。冷たさを知って、本当にまさに温かみが幸せだと感じるんです。

 その今、夜の闇、夜の冷たさの中で明かりと暖かさを求めている人が一杯いるんじゃないでしょうか。今こそそういうい政治を実現しないければいけないと思います。

 私を支えていただいたのは中小企業の、零細企業のオヤジさんたちばっかりです。当時所属していた政党は解党し、政党助成金は来ません。一人で資金集めをしなければなりません。ちょうど貸し渋り、貸し剥がしの時代でした。50人の中小企業のオヤジさんたち、毎月1万円ずつ出してくださることになりました。振込みでは失礼です。毎月おカネを頂戴し、領収書を書いて、お礼を言いました。

 でも、段々不景気になっていくと、ご主人はおカネを出してくれるものの、奥さんに会うと出してくれないということもありました。

 苦労しました。でも、世の中を支えている人、私も支えていただきましたけども、こうした中小企業の、零細企業の社長さんたちがたくさんいるということが分かりました。

 しかしこうした中小企業、日本の宝であるはずの中小企業が円高、デフレで呻吟しをしています。今日もこの会合に来る前に、官邸で経済情勢検討会議に出てまいりました。

 政治空白を作らないために今日も全力で働いていきますけれども、一方で次ぎの手を打たなければなりません。私は先だって、直木賞受賞作の「下町のロケット」(正確には「下町ロケット」)という本を読ませていただきました。夢と志と技術を持っているけれども、資金繰りで苦労している企業が、中小企業が今一杯出てきているんじゃないでしょうか。そのためにも中小企業の資金繰り支援のための経済対策を早急に講ずるように、全力を尽くしたいと思います。

 浪人時代、もう一つの得難い経験。長男6歳、次男は3歳でありました。子供たちは親父がいつもいるんで喜んでいました。教育という字、教という字、頭が父、下に子を入れて、右字、交われという、そういう説もあります。一番触れ合いができました。私の左に、上に乗って、頭が子の鼻の辺りに当るんです。子どもの頭の髪の毛の匂い、忘れられません。

 子どもたちが段々大きくなる、成長していきます。親父のズボンのベルトが大きくなるのは悲しいことです。メタボですから。子どもが大きくなってズボンを買う。服を買う。嬉しいことです。

 でも、浪人中はそれがなかなかできませんでした。子供手当があったらなあと思います、そのときに。今、子ども手当、今そのことによって喜んでいらっしゃるだろう方が必ずいらっしゃると思います。

 子ども手当、高校無償化、農業の戸別補償、休職者支援制度、雇用保険の拡充、中産階級の厚みが今薄くなって、中産階級の厚みが日本の底力だったと思います。

 こぼれた人たちがなかなか上がって来れない。そこに光を当てようと言うのが民主党の『国民の生活が第一』という、私は理念なんだと思います。

 この方向性は間違いありません。これからも堂々とその実現を、勿論、野党との協議、見合いの財政の確保等々ありますが、理想を掲げながら、現実に政策遂行するのが私たちの使命だと思います。

 さて、私はその後復活をし、当選させていただきました。悲願の政権交代をみなさんと共に実現をさせていただきました。その政権交代、実現をしたあと、担当したのは財政です。えらいときの担当となりました。税収が9兆円以上落ち込んでしまった中で、先ずやるべきことはバケツの水をザルに流し込むような勿体無い遣り方は改める、そこは徹底したいと思います。

 しかし、白アリ退治、行政刷新会議を通じての戦いを進めてまいりました。気を抜くと、働きアリが収めた、その税金に白アリがたかる構図は、気を抜くとまた出てきます。私は引き続き行政刷新担当大臣を専任大臣として行政改革を推進をするべきだと思います。

 先ずは隗より始めよ。議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減、それはみなさんにお約束したこと。全力で闘っていこうじゃありませんか。

 それでも、どうしてもおカネが足りないときには、国民にご負担をお願いすることがあるかもしれません。

 政権与党は余り明後日(あさって)のこと、幻想を振り向かせるだけではなくて、国民に説明をし、お願いをすることもあると思います。そういう覚悟を持って、これから政権運営に当ってまいりたいと思います。

 で、私は大好きな言葉。相田みつをさんの言葉に、『どじょうが金魚のまねをしても、しょうがねえじゃん』という言葉があります。ルックスはこのとおりです。私が仮に総理になっても、支持率はすぐ上がらないと思います。だから、解散はしません。(笑いが起こる)

 どじょうはどじょうの持ち味があります。金魚の真似をしてもいけません。赤いベベをした金魚にはなれません。(一段と声を挙げて)どじょうですが、泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。円高、デフレ、財政改革、様々な課題があります。重たい困難です。重たい困難でありますが。私はそれを背負(しょ)って立ち、この国の政治を全身全霊で傾けて、前進させる覚悟であります。

 どじょうかもしれません、(声を振り絞る具合に)どじょうの政治をトコトンやり抜いていきたいと思います。みなさんのお力の結集を、私、野田佳彦に賜りますように、政治生命を賭けて、命をかけて、みな様にお願いを申し上げます。有難うございました」(一礼)

 短いセンテンスを多用し、尚且つ短い説明で折々の人生を次々と場面転換していくことで多くの事柄を瞬時に理解しやすく相手に伝えるなかなかの話術を如何なく発揮している。

 貧乏な農家の生まれであること。県会議員選挙に立候補する前から駅前に立って、いわば辻立ちしたことから始まって様々な苦労を経て県議に2度当選、衆議院選挙に挑戦、当選して、途中落選して浪人したが、復活して今日に至る経緯、中小企業のオヤジさんたちやその他から支援されたことが一人ひとりを大切にする政治を原点とすることになったこと、こういった中間層の厚みこそがかつての日本の底力だったといったことを自らの庶民性を訴えつつ聞く者をして手際よく納得させている。

 短いセンテンスを多用はその分大衆受けを狙うことはできるが、強烈な印象で相手を圧倒したり、心に深く感銘を与える話には向かないきらいがある。

 だとしても、なかなかの脚色家の姿をも見せている。「初めて政治を意識した瞬間」が浅沼稲次郎の暗殺と葬儀を家の白黒テレビで見た瞬間だと言っているが、野田佳彦の生年月日は1957(昭和32)年5月20日である。浅沼稲次郎暗殺は1960(昭和35)年10月12日。3歳と5ヶ月で政治なるものを意識したことになる。

 さらにジョン・F・ケネディ暗殺で「政治の仕事とは怖い仕事なんだという、そういうイメージがインプットされました」と言っているが、ジョン・F・ケネディ暗殺は1963年11月22日。野田佳彦が6歳6ヶ月のときである。

 子供心に怖いという印象は何となく持っただろうが、政治の何が暗殺を誘い、怖い仕事としているかまで理解する能力を果たして当時持っていただろうか。

 また、政治家が命を狙われ、暗殺される危険性が皆無とは言えない職業であることから、そのことを覚悟して命がけで務めることと、自身が信じた政治を万難を排して実現する意味での「命がけ」とは自ずと性格を異にする。

 前者は物理的な命の危険であって、後者は政治実現に於ける精神強固な姿勢の表明を示す。勿論後者の命がけが前者の命がけにつながっていくケースもあるだろうが、別個の命がけである。

 だが、野田佳彦は「次第に長じて、新聞等を見ていると、命がけで仕事をしているよりは、金権風土を尊重するような事件が続き」云々と行って、前者と後者を混同させて使っている。

 「そんな中で、私は学生時代は柔道部でした。当時も政界に入った今も、寝技は苦手です」も自身が実直であることを装おうための脚色臭い。

 県立船橋高校時代に柔道を指導した向井広志氏(61)は「立ち技は平凡だったが、寝技では粘りをみせた。立ち技はセンスがなければうまくならないが、寝技は練習した分だけ強くなる」(MSN産経)と証言している。

 なかなかどうして、柔道では寝技で持っていた姿が浮かぶ。

 勿論、柔道の寝技は物理的な一つの技術に過ぎない。人間営為に於ける裏技は裏取引や裏工作の技術を言う。後者を否定、前者を肯定すべきだったが、話を面白くし、且つ実直な人格をであることを証明するために話を脚色したといったところか。

 以上のことはどうでもいいことだが、肝心なことは次ぎように言っているのことである。

 これまでのように「政刷新担当大臣を専任大臣として行政改革を推進」する。「先ずは隗より始めよ。議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減、それはみなさんにお約束したこと。全力で闘ってい」く。「それでも、どうしてもおカネが足りないときには、国民にご負担をお願いすることがあるかもしれません」

 いわば消費税も含めてだろう、増税は「議員定数の削減、そして公務員定数、あるいは公務員人件費の削減」等々、国民に約束した行政改革を達成した後である、「国民にご負担をお願いする」と公約した。

 「中産階級の厚みが日本の底力」だと言っている。増税で最も打撃を受けるのは中間層以下の国民であろう。このことからもこの言葉、この公約が守られるかどうか監視しなければならない。

 最後に「どじょう」の譬え。この「どじょう」論は生物学的などじょうを生物学的どおりに人格化し、生物学的存在性のままに、いわば生物学的な「どじょうの持ち味」を以って自らの能力としている。

 「どじょうはどじょうの持ち味があります。金魚の真似をしてもいけません。赤いベベをした金魚にはなれません」と、金魚への変身、金魚への発展を自ら拒否し、どじょうを守備範囲とすべく意志している。

 「泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる」、「この国の政治を全身全霊で傾けて、前進させる覚悟であります」と勇ましく言っているが、言葉とは裏腹に、そこに大きな飛躍を目指す、大きな発展に賭ける意志――司馬遼太郎から夢と志の世界を学んだと言ってるが、大きな夢、高い志を嗅ぎ取ることはできない。

 日本という国の回復が「どじょうの持ち味」程度でいいのだろうか。一国のリーダーが目指す程度はその人物のスケールに対応しているはずだ。

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