野田首相のドジョウ発言は支持率に反映したとしても、そこに高い志なく、大きな国の発展を望めるのだろうか

2011-09-04 10:51:51 | Weblog

 昨日(2011年9月3日)の当ブログ記事――《野田新首相の「どじょう」論から、その政治姿勢を窺う - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、野田新首相が8月29日(2011年)の民主党両院議員総会の民主党代表選演説で行った相田みつをの詩「どじょう」の引用が相当に好感を持って迎えられたようだが、その影響か、菅仮免首相の内閣支持率20%以下の置き土産を跳ね返して、先ずは上々の50%超から70%超にまで戻すことができた。

 但しasahi.com記事が伝えている政権交代後の各内閣発足時の支持・不支持の比較では、野田新内閣支持53%―不支持18%に対して鳩山前々内閣支持71%―不支持14%、菅前内閣支持60%―不支持20%で、民主党内閣では最下位発進となっている。

 逆にフジテレビの「新報道2001」では70.8%で、三者の中では一番につけている。

 だとしても、内閣発足時の支持率はあくまでも未知数の内閣運営と向き合った中での期待に対する評価・判断であって、鳩山前々首相と菅前首相のその後の下降線を辿った支持率は結果責任を評価・判断した数値である。

 野田内閣発足時支持率が鳩山前々首相と菅前首相に右へ倣えして支持率が下降線を辿るかどうかは断るまでもなく、あくまでも結果を残すことができるかどうか、「政治は結果責任」を如何に果たすことができるかどうかにかかってくる。

 結果を残さないことに関して鳩山前々首相と菅前首相に倣ったのでは同じ運命を辿る確率は当然高くなる。短命政権化の危険である。

 野田政権が短命で終わった場合一番喜ぶのは菅仮免だろう。自身の無能力、指導力欠如が導き出した自らの「政治は無結果責任」を棚に上げて、「オレを続けさせればよかったじゃないか」と言うに違いない。

 ねじれ国会、党内の政策の違い、あるいは立場の違いを如何に統一させていくかの党内統治問題等の難しい課題を抱えているが、そのような障害を超越しなければ政権の命運を左右することになる「結果責任」は約束されない。

 また長期政権だけを願って、代表選前に打ち出した大連立構想も長期政権を狙った方策の一つだったはずだが、野党に妥協、異なる党内意見に妥協を重ねていたのでは、例え結果を残すことができたとしても、評価は低いところに落ち着くことになる。

 尤も数々の妥協を介在させたとしても、最初から実現させるべき政治目標の解決点を高いところに置いていたなら、妥協段階の駆引きによっては政策の値引きは少なく抑えることも不可能とは言えない。

 妥協は避けられない、そもそもからして実現させるべき政治目標の解決点も低いところにしか設定できない、単に長期政権となることだけが願いだといった志でスタートしたとしたら、当然の勢いとして数々の妥協は見るべきところのない「結果責任」しか生みかねない。

 となると、現在の国会状況、政治状況を踏まえつつ実現させるべき政治目標の解決点を高いところに置く、いわば政治の志を高く持つかどうかがよりよく「結果責任」を出せるかどうかのカギを握ることになる。

 8月29日の民主党代表選演説で詩人相田みつをの詩「どじょう」を引用して自らの政治姿勢をドジョウになぞらえ、泥臭いねばり強さが身上だと訴えて党内議員のみではなく、多くの国民から好感を得たとしても、庶民派を演じるには好都合だろうが、決して志高い姿勢を嗅ぎ取ることはできなかった。志低くしか見えなかった。

 再度その箇所の発言を取上げてみる。

 野田代表選立候補者「で、私は大好きな言葉。相田みつをさんの言葉に、『どじょうが金魚のまねをしても、しょうがねえじゃん』という言葉があります。ルックスはこのとおりです。私が仮に総理になっても、支持率はすぐ上がらないと思います。だから、解散はしません。(笑いが起こる)

 どじょうはどじょうの持ち味があります。金魚の真似をしてもいけません。赤いベベをした金魚にはなれません。(一段と声を挙げて)どじょうですが、泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。円高、デフレ、財政改革、様々な課題があります。重たい困難です。重たい困難でありますが。私はそれを背負(しょ)って立ち、この国の政治を全身全霊で傾けて、前進させる覚悟であります。

 どじょうかもしれません、(声を振り絞る具合に)どじょうの政治をトコトンやり抜いていきたいと思います」――

 「どじょうの持ち味」に自らの政治能力を限定して、その政治能力で以って「政治を前進させる」。志の高さを嗅ぎ取ることができるだろうか。

 「円高、デフレ、財政改革、様々な課題があります」は誰が首相になっても向き合わなければならない課題である。当然、誰が首相ではなく、志が高い首相なのかが基準となって、各課題のよりよい解決は志の高さに応じる道筋を描かなければならないはずだ。

 「どじょうの持ち味」を自らの政治能力とした、あるいは問題解決能力とした野田首相の志の低さが象徴的に現れた発言を9月2日(2011年)の野田内閣総理大臣就任記者会見の中に見ることができる。

 野田新首相「新興国が台頭し、世界は多極化しています。アジア太平洋を取り巻く安全保障環境は大きく変動しつつあります。こうした中で、時代の求めに応える確かな外交、安全保障政策を進めなければなりません。その際に軸となるのは、私はやはり日米関係であると思いますし、その深化・発展を遂げていかなければならないと考えています。昨晩もオバマ大統領と電話会談をさせていただきました。私の方からは、今申し上げたように日米関係をより深化・発展をさせていくことが、アジア太平洋地域における平和と安定と繁栄につながるという、基本方針をお話をさせていただきました。国連総会に出席をさせていただく予定でありますけれども、直接お目にかかった上でこうした私どもの基本的な考え方を明確にしっかりとお伝えをするところから、日米関係の信頼、そのスタートを切っていきたいと思います。
 中国とは戦略的な互恵関係を、これも発展をさせていくということが基本的な姿勢でございます。日中のみならず、日韓、日露など、近隣諸国とも良好な関係を築くべく全力を尽くしていきたいと思います。なお、経済外交については今まで通貨や国際金融という面で私なりに取り組んでまいりましたけれども、これからはより高いレベルの経済連携あるいは資源外交等々の多角的な経済外交にも積極的に取り組んでいきたいというふうに思います。特に、元気なアジア太平洋地域のその元気を取り込んでいくことが我が日本にとっては必要だと考えています。こうした観点からの経済外交の推進にも積極的に取り組んでいきたいというふうに思います」

 全体的な発言は誰もが取り組まなければならない政治スケジュールを並べて、単に「取り組みます」と言っているに過ぎない。常に問われるのはその実現、その「結果責任」である。その実現、その「結果責任」は実現させるべき政治目標の解決点を高いところに置いた取り組みとしているのかどうかにかかってくる。

 「元気なアジア太平洋地域のその元気を取り込んでいくことが我が日本にとっては必要だと考えています」

 この課題も野田新首相だけではなく、菅仮免も言っていたことである。 「元気なアジア太平洋地域のその元気を取り込んでいく」とするのは聞こえはいいが、悪い言葉で言うと、アジアのおこぼれを頂戴することに他ならない。志低くないだろうか。

 かつて日本はアジアの発展をリードしてきた。アジアの盟主とまで言われていた。だったら、おこぼれを頂戴するのではなく、「かつての日本がアジアの発展をリードしてきた。アジアのなお一層の発展をリードするかつての日本の姿を取り戻し、それ以上の国に造り変えていく」と志を高く持つべきであろう。

 勿論、そのような国造りを実現させるためには教育の力を現在以上に高める長期戦を敷く必要がある。教育力こそ、各部門の力を強化して、全体としての総合力を躍進させる、国家発展の根幹を成す基本中の基本の起爆剤となるはずである。

 だが、野田新首相は立候補演説では教育に関して衆院選に落選した浪人中に、「教育という字、教(きょう)という字、頭が父、下に子を入れて、右字、交われという、そういう説もあります。一番触れ合いができました。私の左に、上に乗って、頭が子の鼻の辺りに当るんです。子どもの頭の髪の毛の匂い、忘れられません」と親子の触れ合いに言及したのみで、国の教育についてはどのような発言もなかった。

 また9月2日の首相就任記者会見でも一言も触れていない。

 国民の教育力を高めて、新たな技術開発の契機とし、開発した技術を社会に生かす創意工夫の糧とすると同時に各分野の生産性をなお一層高める基盤としていかなければ、国の発展も望めないはずだ。

 特に就任演説で国の教育に触れなかった点からも、野田新首相の政治姿勢は志が低いのではないかと疑わざるを得ない。


コメント (1)
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