菅の「間違ったことやったからではない」の辞任感覚・「政治は結果責任」意識の欠如

2011-08-24 11:09:14 | Weblog



 菅仮免が昨日(2011年8月23日)参院財政金融委員会で辞任は「間違ったことやったからではない」と、間違いからの辞任を否定したという。《「間違ったことやったからではない」 菅首相が“失政退陣”を完全否定》MSN産経/2011.8.23 19:40)

 たちあがれ日本の中山恭子参院幹事長代理に対する答弁だそうだ。

 菅仮免「首相を辞する決意をしたのは、何か間違ったことをやったから責任を取るということではありません」

 記事が題名で「“失政退陣”を完全否定」としていることに関係する菅の発言はこれのみ。菅仮免が“失政退陣”否定の文脈で「間違ったことをやったからではない」と発言したのは分かるが、どういう意味合いで「間違ったこと」としているのか理解できないために《参議院インターネット審議中継》で、中山恭子議員の質問をダウンロードし、関係する箇所のみを文字に起してみた。

 記事が他に伝えている菅仮免の発言は内閣支持率に関するもので、「脱原発依存」宣言などを念頭にした発言だと解説している。誰の質問かは書いてない。中山恭子女子の質問を動画ソフトのスライダーを動かして要所要所探ってみたが、中山女史の質問の中から見つけることができなかった。あるいは見逃したのかもしれないが、記事の発言からのみ、先に取上げて感じたことを記してみることにする。

 菅仮免「「世論調査の厳しい数字は率直に受け止めなければならない。・・・・私が提起した政策が否定されたのかというと、同じ世論調査でもそうではない数字が出ている」

 菅仮免は8月11日(2011年)の参院予算委員会でも小坂憲次自民党議員の内閣支持率の低迷に関して追及を受けて次のように答弁している。

 このことは既に《菅仮免の愚かしいばかりにご都合主義の“世論調査論” - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で触れている。

 菅仮免「ま、世論調査に関しては私は、まあ、一つの民意として尊重しなければならないとは思っています。シー、しかし、それだけで物事を判断するわけではなくて、先程申し上げましたように、私は内閣としてやるべきことがやれているかいないか、それが、やれていないとなれば私の責任ですから、あー、それは辞めなければならない。

 しかし現実には常に第二次補正が成立をし、そして、えー、次ぎの復興の基本方針も、おー、決めて、そして第三次補正に向かっての作業も始まっております。ですから、私は内閣の動きが、おー、止まってしまっているというふうには全く思っておりませんですから、あー、世論調査について、それは色々な判断がありますけれども、一つの判断であって、それだけで私の進退を決めるということではありません」

 世論調査は一つの民意として尊重はするが、一つの判断であって、それだけで物事を判断するわけではない、いわば物事を決定するに至る絶対的判断ではないと否定的に把えている。

 にも関わらず、ここでは「私が提起した政策が否定されたのかというと、同じ世論調査でもそうではない数字が出ている」と個別政策に関しては絶対的判断だとするに等しい肯定的な価値を世論調査に与えている。

 これは8月11日の参院予算委員会の発言と正反対の把え方となっている。世論調査は「一つの判断」に過ぎないと価値づけているなら、個別政策に関しても例え高い支持率を得たとしても、「一つの判断」とするのが一貫性ある判断というものであろう。

 高い支持率を得ている項目のみの世論調査を肯定し、低い支持率しか得ることができない項目は「一つの判断」に過ぎないとするのは合理的判断を無視したご都合主義の何ものでもない。

 確かに菅仮免の「脱原発依存」発言は福島原発事故の影響を受けて高い支持を得た。だが、総理大臣として記者会見を開いて「脱原発依存」の主張をさも政府の方針であるかのように発言しておきながら、後になって前以て内閣に諮ったわけではない「個人の考え」としたことに関しては国会の中でもマスコミからも国民からも批判を受けることになった。

 このことは読売新聞社が8月5~7日に実施した全国世論調査に象徴的に現れている。

 先ず菅内閣支持率。

 支持する ――18%(前回7月調査24%)
 支持しない――72%(前回7月調査63%) 

 「脱原発依存」の方針

 「賛成」――67%
 「反対」――21%

 首相が内閣で調整せずに表明したことを「適切だった」と思うか。

 「適切だった」  ――16%
 「そうは思わない」――74%・・・・

 このことからも如何にご都合主義な世論調査論となっているか分かろうというものである。尤も菅仮免の自己を利するだけのご都合主義な解釈は今に始まったことではない。

 次に中山恭子女史との遣り取り。

 中山議員「今回責任を取られるということですが、これまで総理は、自分に責任があります、責任を持っています、お言葉が何度も使われました。ただ、そのあとで、えー、責任は逃げるわけにはいかないので、責任を果たさなければならないというお言葉がそのあとに続きます。

 で、全力で取上、全力を挙げて取り組んでまいりますという、そういう、ロジックになります。責任という日本語の二つ意味のある、この二つを上手に使い分けていらしゃったんだろうと思いますが、やはり責任がある場合には、何か事が起きたときには責任を取るということでございまして、今回色んな問題がございます。

 東日本震災への対応の問題、原子力発電所の事故の対応の問題、経済回復、雇用、TPP、普天間、領土問題、円高。

 どれも総理が在任中に問題があった案件でございまして、まだその解決に至っておりません。こういったことを考えて、責任を今回お取りになるんだろうと思いますが、あのー、是非、これからもですね、大きな意味で日本のために尽くしていただけたらと思っています。(菅、エールに対して一つお辞儀をしてから、早くも右手を上げる)私自身の質問はこれで終わります」

 委員長「今国会の総理としての最後の質問となるかと思いますので、どうぞ、思いをおっしゃっていただいて結構でございますので――」

 委員長が話し終えないうちにマイクの前に立って話し出す。反論したくて大人気ないばかりに相当に急いていたようだ。

 菅仮免「あのー、本当に、イー、温かいご質問を頂き、有難うございます。

 確かに責任というのはですね、責任を果たすという意味での責任と、何かこう、このー、間違ったことをやったから、責任を取るという責任と、若干違うと思います。

 私は、今回、あのー…、おー、代表、あるいは総理を辞するとしたのは、別に何か間違ったことをやったから、あるいは責任を取ると言うことは(声を強める)全くありません。全くありません。

 えー、私が、あー、今回の、おー、ケイサン(?聞き取れない)としたのは、6月2日の時点で野党のみなさんが不信任案を出されたのはこれは、あー、我々もしょっちゅう出しておりますから、野党は、あー、政権交代を求めて、不信任案を出すものであります。

 しかし、イー、残念ながら、与党の中でも、その不信任案に、えー、同調する動きが広がってまいりまして、そのみなさんに対して、えー、私としては一定のメドが、あー、ついたら、若い方に、イー、そもまで、それまでは、あー、しっかり責任を果たしさせてください、ということを、おー、6月2日の代議士会で申し上げまして、そして、大多数の、おー、まあ、それは代議士会でありますから、衆議院のみなさんが、それを理解していただいて、エ、大差で不信任案を否決をしていただきました。

 ですから、そののち、イー、3カ月、ウー…になりますか、そいう中で、私は一定のメドがつくまでですね、しっかりと責任を果たして、いこうと考えて、で、それから、あー、まあ、余り数え上げると、昨日の、あのー、愛知さんに対する答弁と同じになってしまいますが、エ、かなりのことは、あのー、オ、責任を果たして、きたと思っております。

 えー、ですから今回の、おー、私が、あー、代表や、あー…、総理、うー…、辞するという決断をしたのは、決して何かが間違っていたから、責任を取るということではなくて、エ、まあ、あのー、党の、おー…、そうした代議士会の中でえー、ある意味で、えー………、メドをつくまで責任を果たすことが、あー、必要だと、あの段階で、多くの、おー、仲間が、まあ、いわゆる造反ということになると、内閣としても、あー、機能しなくなって、えー、なり、イー、混乱を国民のみなさんに与えることになると、そういう判断で私自身が申し上げた、その、ある意味では、あー、党内にに向けての、約束を、おー…、きちっと、果たす、ことがやはり、まさに政治家の、ケジメであろうと、思ったわけでありまして、シー、そのことは、あのー、ご理解をいただけるかどうか別として、私の真意であることを、こういう場で発言させていただく機会を与えていただきました。どうもありがとうございました」

 中山オバサン女史、席に座って菅の「有難うございました」の声に頭を下げる。拍手が起こり、中山女史自身も手を叩く。(散会)

 相当に苦し紛れの責任回避のご都合主義発言となっている。ご都合主義者の面目躍如といった最後の晴れ舞台といったところか。

 先ず「責任」なるものについて、「責任を果たすという意味での責任と、間違ったことをやったから、責任を取るという責任」の二つがあると言っているが、前者の責任は自分が引き受けて実現させなければならない任務として、あるいは義務として行わなければならない行為のことを言うのであって、任務・義務である以上、当然結果を出すまでが責任範囲となる。

 「政治は結果責任」と言われる所以の一つはここにある。
 
 後者の責任は自分が引き受けた任務、あるいは義務をどれだけ果たすことができたのか、その結果に対して負う責任であって、何も「間違ったこと」だけではなく、中途半端で終わったことや、口で言っただけで何も成さなかったことや、言ったことと違うことをした場合も負わなければならない責任である。

 また逆に任務・義務を遺漏なく果たした場合は、責任を果たしたことになる。

 いわば前者の責任を引き継いだ結果に対する後者の責任であって、「政治は結果責任」は前者・後者共に深く関わっていると言える。

 だが、菅仮免は総理としての任務・義務を満足に果たし得たかどうかの責任が問われているはずだが、後者の責任を「間違ったことをやった」場合の責任としてのみ狭い意味で把えている。

 この合理的判断能力の欠陥は如何ともし難い。

 また、中山議員が総理として自らに課した任務・義務を満足に果たしていないから責任を取ることになったのだろうとの指摘に対して不信任案を出されたことや、6月2日の代議士会で「一定のメドがついたら」云々と、これまでも何度も国会で繰返してきた答弁をまたぞろ長々と繰返しているが、責任を取って辞任するわけではないことを強弁する意味もない戯言(たわごと)に過ぎない。

 出来事にはすべて原因と結果がある。菅仮免は「6月2日の時点で野党のみなさんが不信任案を出されたのは、これは、あー、我々もしょっちゅう出しておりますから、野党は、あー、政権交代を求めて、不信任案を出すものであります」と言っているが、一般的には衆議院に於いては野党は数の劣勢に立たされているから野党であって、不信任案はいくら出しても否決される運命にあり、決して政権交代を求めることが理由の不信任案提出ではなく、内閣の政治の現状を原因とした理由がなけれが出すことはできないもので、殆んどが内閣の政治の現状を印象づける意味合いでの提出であろう。

 いわば不信任案提出という結果に対してあるはずの、あるいはなければならない政治に関わる原因の存在を無視して、「我々もしょっちゅう出しておりますから、野党は、あー、政権交代を求めて、不信任案を出すものであります」と言うのは責任逃れの誤魔化し以外の何ものでもない。

 野党が6月1日に出した不信任案にしても、「しょっちゅう出して」いるから出したのでもなく、「政権交代を求めて」出したわけでもない。主として震災対応に於ける初動の遅れや指揮命令系統の混乱、震災復興の停滞等を原因として挙げ、最後にその原因をつくり上げている菅首相の退陣を求めたもので、そのような原因に対する結果としての不信任案提出なのである。

 最後は合理的判断能力もなく訳の分からないことを言っている。

 「代議士会の中でメドをつくまで責任を果たすことが必要だと」言った、「あの段階で多くの仲間がいわゆる造反ということになると内閣としても機能しなくなって混乱を国民のみなさんに与えることになる」、「党内に向けての約束をきちっと果たすことがまさに政治家のケジメであろうと思っ」て辞任することになった。「辞するという決断をしたのは、決して何かが間違っていたから、責任を取るということではな」い。

 バカもここに至れりの感しか浮かばない。

 民主党代表という地位は民主党議員、その他が決めることだから、民主党議員その他がいくらでも弄んでもいい。民主党内の問題として完結させても結構と言える。

 だが、総理大臣という地位は資質という点では全体的には民主党議員その他のみならず、全国会議員や国民世論が決めることで、それらを差し置いて民主党議員その他が自分たちのみで弄んでいい地位ではない。全国会議員の支持傾向、国民の支持傾向等を反映させた民主党議員その他の行動でなければならないはずだ。

 それを「党内に向けての約束をきちっと果たすことがまさに政治家のケジメ」だなどと党内問題でのみ扱っている。いわば菅仮免は国民に対する責任を省いて、「党内に向けての約束をきちっと果たすこと」だけを一国の総理としての責任としている。

 この感覚も凄いが、あくまでも就任から辞任に至る経緯は総理大臣に就任したものの国民に対する責任は果たすことができなかった、「政治は結果責任」を実現できなかったことを原因とした辞任という結果であって、そういった原因と結果の関係だと把握しなければならないはずだ。

 そのように把握することができないところに菅仮免が合理的判断能力を決定的に欠いている証拠となり、と同時に「政治は結果責任」意識を決定的に欠いている所以としなければならない。


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