06年6月16日のNHKの夜9時台のニュースで、「どう教える愛国心」と題して実際の授業の取材を通した〝愛国心〟教育を取り上げていた。舞台は国の研究指定校だという西東京市の向台小学校6年生の教室である。同校は道徳教育に力を入れているという。
授業を受持つのは30歳前半と思われるイケメンの男性教師明石先生(6年生担任)。〝愛国心〟をテーマとする授業は初めてだそうで、テレビのどんな授業をするつもりかの問いかけに、「愛国心ということで僕自身が教育を強く受けた経験はあまりないです。難しいと思うのですが、テーマがテーマだけに――」
「あまりない」ということは厳密に言うと全然「ない」ということではなく、少しはあるということだが、日本人は経験が全然ないことでも、「あまりない」と体裁を装うことが間々、どころか頻繁にある。Yes・Noをはっきり言わずに程よく自己のプライドを維持しようとする性格傾向を民族性として持っているのだが、そういった日本人の歴史・伝統・文化から考えると、私立の特殊な学校を卒業したのでなければ、年齢から言っても、〝愛国心〟教育を「強く受けた経験」は実際はゼロなのではないだろうか。
それは後の展開を見てみれば予測がつく。
「愛国心を育てる授業は国の学習指導要領に基づいて行われています」との解説があり、指導要領の<国を愛する心を持つと共に>の文言がカメラで映し出された。学習指導要領の「主として集団や社会とのかかわりに関すること」とする項目に於ける「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や国を愛する心をもつ」との定めを言うのだろう。
向台小学校では週1回の道徳の時間に年に1度か2度、〝愛国心〟教育に取り組んでいるということである。毎日朝から晩までやればいいのに。客観的認識能力を持たない日本人をいつまでも絶やさないためにも。
解説「どんな授業にしたらいいのか、明石先生はミーティングで道徳が専門の吉本校長に相談しました」
校長「自身の経験をふとしたことで語っていく。という中で、子どもたちが心の中にすうっと沁みいるものがあって――」(先生たち、それだけで理解できたらしく、ただ頷いている。上位権威者の言うことをかしこまって機械的に頷くのも日本人の顕著な民族性となっている)
解説「吉本校長に明石先生自身の身近な体験から子どもに考えさせるよう、アドバイスされました。明石先生が教材に選んだのは、ブラジルで歌った『故郷』と言う物語です。日本から移り住んだ人たちの祖国に寄せる気持が書かれています。明石先生自身が子供の頃フィリッピンに住んだ経験があり、同じように日本のことを考えたことがあります」
授業風景が映し出される。
解説「授業に吉本校長も参加しました」
校長「外国の人たちと仲良く暮らしていきたいなあ――」と生徒に語りかけるが、最後まで取り上げなかったのはたいして意味もないことを喋っただけだったからだろう。
解説「まず明石先生が移住したお年寄りが日本の童謡を聞くシーンを読み聞かせます」
明石「アンコールがかかる。その曲は再び『ふるさと』だった」
ラジカセで『ふるさと』をかけ、生徒たちに聴かせる。「ウサギ、追ーいし、彼の山~」(生徒たちがテレビカメラが回っていることと曲の雰囲気に合わせてのことからだろう、一様に顔を俯かせる様子でしんみりと聴いている)
明石「会場の人たちも歌い出し、その歌声は大合唱となって、僕達を包み込んだ。周りを見回すと、あっちにもこっちにも涙をぬぐっている人たちがいる――」
解説「吉本校長は、なぜお年寄りたちが歌を聴いて涙を流したと思うか子どもたちに尋ねました」
生徒「日本がなぜか懐かしくなって、涙を流した」
生徒「生まれ育ったりして、何か、そういう他の人との触れ合いとかを思い出した」
吉本校長、黒板に赤チョークで、「日本への思い出」と大きく書く。
解説「子どもたちはお年寄りが日本にいた頃のよかったことを思い浮かべて涙したようだと考えたようでした。そこで吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけました」
校長「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」
女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」
男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」
女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」
解説「明石先生は自身も子供の頃ふとしたキッカケで日本のよさを考えたことがあると語りかけました」
明石「フィリッピンの小学校のみんなとお互いの文化とかを紹介しあった。仲良くしようねという会があったのですね。なかなか日本のいいところとか素晴しいところを考えることはなかった、正直――」
解説「愛国心をテーマにした明石先生の初めての授業が終わりました」
テレビカメラを向けられての感想――
女子生徒「自分の国のよいところを考えたり、そういう身近なことを素晴しいことがあるっていうことを考えるのは難しかったです」
男子生徒「何か時々考えてみようと思った」
解説「明石先生は授業の中で愛国心と言う言葉を一度も使いませんでした。子どもたちに自分が住む日本のよさを考えさせようというものでした」
明石「キッカケ作りとしては、多分共通してできると思うのですが、後は子どもたちがこのキッカケをどう自分のものとして消化していくか、どう、そういう気持ちにつなげていくか、その作業はまたこれから試行錯誤していかなければならないのかなと思います」
女子アナウンサー「先生自身も探しながら、戸惑いながら、悩みながら・・・・(後は聞き取れない――多分、「試行錯誤しているのですね」と言ったのかも知れない)」
アナウンサー自身、客観的認識を働かすこともせず、批判も何もなく、放送された一切を頭から肯定的に把えている。果たして一切を肯定することができるのだろうか。
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どうでもいいことだが、明石先生の〝愛国心〟授業が吉本校長の「アドバイス」の忠実な再現に過ぎないことから、〝愛国心〟教育を「強く受けた経験」は実際はゼロなのが予測できる。
解説は「子どもたちはお年寄りが日本にいた頃のよかったことを思い浮かべて涙したようだと考えたようでした」と言っているが、担任の明石先生が『故郷』という物語を読み聞かせ、ラジカセで『ふるさと』という曲を流すことまでして、年寄りたちが涙を流したことを伝えた上、吉本校長が「なぜお年寄りたちが歌を聴いて涙を流したと思うか子どもたちに尋ね」たこと自体が、既に答を用意していたことになり、子どもたちが「考えた」というよりも、誘導されたと言った方が正確であろう。
〝誘導〟に応じたに過ぎないからこそ、「日本がなぜか懐かしくなって、涙を流した」とか「生まれ育ったりして、何か、そういう他の人との触れ合いとかを思い出した」とか、1+1の答が2しか導くことができないようにごくごく当然の答しか出てこなかったのだろう。
ブラジルに渡り、その地で年老いた日本人が日本を思い出して涙する。しかし、アメリカに渡り、その地で年老いたイタリア人、アイルランド人、イギリス人にしても、それぞれが母国を思い出して涙することもあるだろう。日本人だけが特別に持っている感情ではない。母国にいた頃の「よかった」ことの経験にしても、日本人にのみ特有な現象ではない。読み聞かせた物語からそれ以上の発見が何かなければ、「教材」とした意味は出てこない。〝発見〟は番組を見た限り、何もないようである。
移住した人間にとっての一般的な感情の働きであり、経験であることを省き、無視して、日本人だけを問題とし、「日本のよさ」だけを抽出すべく拘る。最初からそういった〝相対化〟のない場所から教え(=教育)が入っている。逆に言うと、校長・担任共に〝相対化〟意識を持ち合わせていないからこそできる授業とも言える。何しろ国の研究指定校である。
〝相対化〟作用を持つことによって生徒の意識の世界は広がっていく。それがなければ生徒の世界が広がるはずはなく、これでは客観的認識能力が育つどころか、逆に視野(生徒の世界)を限定する方向にのみ役立つ。他を排除し、日本の国の長所だけを教えようとする構造自体が、既に客観的認識性獲得の埒外の教育内容となっている。
また涙したことが「日本への思い出」だったとしても、涙した対象を以て、それを「日本のよさ」とすることはできない。母国での過ぎし若い頃の生活上の忘れ難い一コマが単なる〝私〟の経験――ごく個人的な出来事に過ぎないということもあるだろうからである。
例えば友達と喧嘩別れになってしまった。仲直りしようしようと思っていたが、仲直りのキッカケがつかめずにブラジルに渡ってしまった。そのことがいつまでも心残りとなっていた。彼はどうなったのだろうかとかつての友達に懐かしさを感じて涙したといったことは「日本のよさ」ということにはならない。
「日本への思い出」の対象を「日本のよさ」に結びつけること自体に既に無理がある。あるばかりか、結び付けたとしたら、間違ったことを教えることになる。ところが「吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけ」ることで、「日本のよさ」に結びつける誘導を行っている。
明石先生にしてもブラジルに移住して年老いた日本人の祖国へ寄せる気持を「日本への思い出」とし、「子供の頃ふとしたキッカケで日本のよさを考えたことがあると語り掛け」ることで「日本のよさに」に吉本校長共々結びつけている。
その結果、子どもたちは校長や担任の「日本への思い出」=「日本のよさ」の誘導に同調して、その文脈で自らの答を導き出している。
そのような舞台をわざわざ作って、「日本のよさ」を誘導する。生徒は〝誘導〟に応じた同調を行う。小学校低学年の生徒が先生の引率(=誘導)におとなしく従って2列縦隊で遠足か美術館に導かれて行くようにである。そういった構造の授業となっている。
これは他の暗記授業と形式的には何ら変わりはない。他の授業が教科書やそれを解説する教師の言葉の中に既に答が準備されていて、それをなぞって反復するだけで答を形作ることができるように、〝誘導〟自体に既に答が準備されていて、誘導すべく期待している答に添って生徒は答を形作っていく。「日本のよさは何だと思うか」――「日本のよさはこれこれです」で完結させることができる。
解説が「そこで吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけました」と説明し、吉本校長自身の「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」との〝誘導〟を受けた生徒たちすべての答が〝誘導〟に添うことだけに向かったのは、校長・担任がブラジルに移住して年老いた日本人が故郷を思って涙した物語を〝相対化〟できなかったことの当然の反映でもあるのだろう。学校教育者でありながら〝相対化〟意識が欠如している状況はどのようなパラドックスを意味するのだろうか。
生徒が答えたいずれの「日本のよさ」も、年齢相応の新鮮な視点からの発見ではなく、多くの日本人が既にどこかで言っている言葉であって、いわば使い古された言葉に過ぎず、当然月並みで紋切り型、悪く言うと、手垢のついた決まり文句並みなのは、〝誘導〟自体が既に答を準備していて、生徒がその〝誘導〟に添うことのみを目的としているから、手軽に、あるいは手っ取り早く誰かが既に言った言葉の借用と言う形を取ることとなったのだろう。
使い古されている言葉を学校の生徒が使用するのも問題だが、大の日本人が日本、もしくは日本人特有の価値観であるかのように言っていることの方が如何に客観的認識能力が欠如しているか物語っていて、問題である。
個々の発言内容を具体的に見てみると、「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」は日本人が「正直さ」を絶対としている倫理観であるかのような言い回しとなっているが、絶対どころか、人間はウソをつく生きものであり、日本人もその例外ではない。人間は一つの価値観で成り立っているわけではなく、逆に一つの価値観で成り立たせる能力もなく、正直な人間もいるし、不正直でウソつきな人間もいる。正直な人間であっても、ときにウソをつく、あるいはついてしまうのが人間であると言う認識は誰もが持たなければならない客観性でありながら、多くの日本人が持てずに「日本人は正直な民族」だとか、「日本人は親切で優しい」とか言う。あるいは「日本人はサムライ民族だ」と抜けぬけと高言する。政治家、・官僚をチョット見ただけで。「コジキ民族だ」とは言えるが、「サムライ民族だ」などとはとてもとても言えないのが分かる。
多くの日本人が持つそのような客観的認識性の欠如がストレートに小学校6年生の生徒にも反映している。ストレートにとは、小学校6年生であっても普遍性としてある人間の現実の姿をテレビドラマやマンガ、雑誌、あるいは日常的な対人関係を通した親や兄弟姉妹を含んだ他者、さらには自己自身の中に見てきていて、学んだであろう人間という生きものに関わる小学6年生なりの認識――フィクションの世界にもいくらでもあるし、親や兄弟、さらに友達や自分までもがウソをつく、その記憶――を活用できずに、いわば年齢相応の客観的認識性すら示せずに、それら一切を「日本のよさ」への同調の前に無化し、「日本人は正直」という同調のための虚構を借用してしまうのだから、これほどのストレートさはないだろう。
女子生徒を含めた多くの日本人が言うとおりに「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直」だとしたら、日本の学校・社会にいじめは存在しないことになる。男性教師の女子生徒に対する淫行・性犯罪などは外国の話ということにしなければならない。外国の人間が聞いたら、いや、確かに我々の国にもあるにはあるが、日本の教師ほど多くはないと言うかもしれない。
少なくとも日本人の犯罪は存在しないこととなり、犯罪報道を自己存在証明の重要部分としているマスコミは利き腕をもぎ取られた苦境に陥ることになるだろう。朝の時間帯、みのもんたの顔も見れなくなる。
「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」にしても、「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」にしても、多くの日本人が言っていて耳にタコができるくらい聞き古された「日本のよさ」ではあるが、日本に限った「よさ」、日本に限った固定された特色ではなく、多くの外国にある一般性であろう。あるいは四季がなくて雨季と乾季のみであったとしても、それなりに素晴しい自然があり、それぞれに旬の食べ物もあるだろう。そうでなければ中国料理とかイタリア料理、フランス料理、タイ料理、ベトナム料理、インド料理、その他その他の外国料理の恩恵を日本国内で受けることはなかったろう。日本料理にしても外国の地に進出している。いわば相互性としてある文化であり、「旬の食べ物」であって、そういった〝相対化〟なくして認識の世界を広げることはできない。
一つの答に対して、その答をどう思うか、他の生徒の意見を聞くこともないし、異なる考えがあるかどうかも尋ねない。あるいは教師自身が妥当な認識に導くといったこともしないから、つまり生徒の言いっ放しで終わらせるから、当然議論は生まれず、議論が生まれなければ、〝相対化〟も生まれず、一度答えさせるだけで誘導すべく狙った答に外れる内容でない限り答として罷り通らせてしまう。勿論そうさせているのは学校である。教師が問い、生徒が答えるほぼ1回限りの返球のないキャッチボールで完結させてしまうことが主流となっている日本の教育に従った知識の授受なのは言うまでもない。何度でも言うが、西東京市の向台小学校の場合は何しろ国の研究指定校である。
解説は明石先生が「授業の中で愛国心と言う言葉を一度も使」わなかったと説明しているが、続く「子どもたちに自分が住む日本のよさを考えさせようというものでした」という言葉の中に〝愛国心〟教育が〝日本のよさ〟の発見へと〝公式化〟の一歩を踏み出していることを物語るものだろう。
「郷土や国を愛する心をもつ」〝愛国心〟教育が〝日本のよさ〟の発見だというふうな公式化は日本及び日本人の欠点や不足、矛盾な点には目を向けない客観性を欠いた〝誘導〟を当然の条件とするが、教師の〝誘導〟に合わせて生徒が答え、それで完了する械的対応によって、もし教師の側から日本のいいところはこれこれです、歴史・伝統・文化の点でこういったいいところ、素晴しいところがありますと答まで出してしまう〝誘導〟へと進み、その答が国(文部科学省)が準備した〝誘導〟としてあるものなら、戦前のような国家主義教育のいとも簡単な再現とならない保証はない。その恐れは決して的外れではない。多くの保守政治家が国家主義を植えつけたくてうずうずしているし、生徒の側は機械的対応を得意中の得意としているのである。
例えそういうコースに進まなくても、既に指摘したように小学校6年生の人間にも日本の絶対性意識の影響が現れているのである、〝日本のよさ〟の発見へとパターン化した〝愛国心〟教育が国の指導で年に1~2回が10回20回と増えていった場合、粗製濫造される〝相対化〟を経ない〝日本のよさ〟は〝相対化〟を経ないという唯一その理由によって、当然の結末として日本だけが優れているとする意識(=自己文化中心主義、あるいは日本民族優越主義)へと多くの生徒を導かないはずはない。世界も日本もそれぞれによい点もあり、悪い点もあるという〝相対化〟意識の育み、世界の中の日本、あるいは世界あっての日本という相互性に関わる視点・認識の育みを犠牲として手にする反対給付なのは断るまでもない。
「学力向上は心の勉強を通して生きる力を養うのです」と「百ます計算」の陰山英男がキレイゴトを言っているが(06.6.21.「教育朝日2006」)、「生きる力」とは暗記教育による「学力向上」といった機械的な積み重ね、もしくは「心の勉強」といった抽象的な営みからではなく、〝考える力〟を身につけることによって獲得し得る能力である。どう生きるか〝考える力〟に応じて、それぞれの生き方、人生が決まっていくからである。
〝考える力〟は〝相対化〟の訓練を通した客観的認識能力の獲得にかかっている。〝相対化〟が個々人の視野・生きる世界を広げていく。日本の教育にはそれがない。〝愛国心〟教育がその最たる位置を獲得することは間違いない。
〝愛国心〟教育バンザイと言ったところか。