事実上小泉政権最後の国会が閉幕した16日(06.6)午後、小泉首相が国会内で行われた自民党代議士会の挨拶で9月に行われる総裁選までのポスト小泉レースを「今年は解散はないが、また暑い夏になる。自民党にとってきかなりつい権力闘争になりますが、これを身近に経験することはいい機会だと思います」というふうに形容した。
日本の首相という大事な責任を次に担うにふさわしい人物は誰か、その決定にかかる総裁レースが「権力闘争」になると、まだ退任していない現首相が公言したのである。
いわば総裁レースが首相を目指す者同士がそれぞれの政策を闘わせ合い、党所属議員や党員等にその内容を問う選挙を経て決定される民主的な体裁を取ったそんなカッコイイものではなく、実態はドロドロした「権力闘争」そのものだと自ら公表したようなものである。そればかりかテレビで見た印象は言葉のニュアンスから民主的な選択よりも「権力闘争」の方がさも立派な選択肢であると自慢するような響きすらあった。
小泉ファンにしたら単になぞらえたに過ぎないと弁護するだろうが、「身近に経験することはいい機会」だと、自民党代議士会に出席した議員全員に勧めたのである。単なるなぞらえなら存在しない「権力闘争」は「身近に経験する」〝機会〟とはなり得ない。
「身近に経験する」とは、議員及び党員全体が自ら1票を投じる形式で関わる総裁レースである以上、傍観者の立場からの「経験」ではなく、全議員・全党員が内側にあって関わることを意味するから、会社ぐるみの粉飾決算とか省ぐるみの不正経理とかの事件と同様に、その「権力闘争」は当然自民党ぐるみと言うことになる。
自民党ぐるみの「権力闘争」――凄い見ものではないか。小泉首相自身が、その総裁選が政策闘争に見えたが、実態は「権力闘争」を手段として獲得した経験からの言及であろう。
「権力闘争」などはかつての旧ソ連や林彪とか華国鋒、あるいは江青の4人組時代の中国、それでなければ発展途上国に限った話で、民主制を取った国では既に過去の遺物と化した闘争形態だと思っていたが、民主国日本では現在でも総裁を決定する手段として民主的方法を取ることができずに、「権力闘争」によって決定すると言うのである。
経済大国との評価に連動した、既に日本の歴史・伝統・文化となりつつある政治三流国なる世界的声望は、なる程妥当な格付けだと納得しなければならない声望ということになる。