東京渋谷の昼下がりの路上で資産家の一人娘である21歳の女子大生が身代金目的で誘拐されたが、1日も経たずに犯人たちは逮捕され、被害者は無事保護された。
娘が誘拐された母親として、犯人をスピード逮捕し、被害者救出に成功した警察に 感謝したい気持は分かる。しかし「警察に感謝します」で十分であるにも関わらず、「日本の」という形容詞をわざわざつけたのはなぜなのだろう。ここは日本の国であり、断るまでもなく社会の治安と一般市民の生活上の安全を守ることを日本の警察は役目としている。アメリカの警察が管轄しているわけではない。分かりきっているのに、「日本の」である。
母親にさすが日本の警察という気持があったからこそ出た殊更な断りではなかったろうか。日本の警察は優秀だという認識を従来から固定観念としていた。そこへきてこの一件である。優秀だという思いを新たにした。他の国の警察ではない、やはり日本の警察のやることは違うという賛美が「日本の――」と特定することとなったということだろう。
事件捜査の間、警察は犯人特定に関する情報を何もつかんでいなかったわけではない。母親は捜査員から捜査進展の一部始終を聞いていたはずである。被害者をまさに拉致していく瞬間の情景と連れ込んだ車両の目撃情報があったこと、目撃した女性が車種・色・ナンバーをはっきりと確認していて、その情報をもとに犯人使用の車両がレンタカーであり、貸したレンタカー会社も割り出したこと、犯人が使用している携帯電話から大体の位置が分かること、犯人逮捕にさして時間がかからないといったことを逐一伝えられて、安心してすべてを任せてください、娘さんは必ず無事保護しますと励まされていただろう。そうすることも警察の役目である。
それとも警察は自らの捜査能力に自信がなく、犯人逮捕に失敗した場合のことを考えてすべての情報を伏せていたのだろうか。偽装は村上世彰や福井日銀総裁、あるいはホリエモンだけの特許ではなく、日本の警察の特許ともなっている。やりかねないことではあるが、今回の場合はトントン拍子に捜査は進展していただろうから、そんなことはあるまい。
犯人逮捕のすべては有力な目撃情報を鍵としていたが、そのキッカケを簡単に許したのは犯人側の間の抜けた計画が原因となっている。白昼20歳代の女性を強引に車に連れ込む誘拐を計画するなら、不特定人物に目撃される可能性を予定表に組み込まなければならないし、今の時代、どこに監視カメラが設置されているかも分からないから、その備えもしなければならない。ところが犯人側は借りるとき面識を持つことになるレンタカーを使用して犯行に及んでいる。重大な犯罪を決行するというのに、レンタカー会社から提示した免許証と目撃によって人物・人相が割れる可能性を考慮していなかった上にレンタカーをいつまでも乗り回していた間抜けさである。
緻密な計画を立てるとしたら、盗んだ車を使用すべきであるし、それでも念を入れてナンバープレートに細工して、パトロール中の警察車両に不用意な職務質問を受けないよう用心する。誘拐に成功し、被害者を一定の場所に監禁した後は盗んだ車を関係ない場所に放置し、後の行動は自分の車で行う。どこで検問に引っかかっても、免許証の提示・車検証の提示を不審を持たれずに行えるようにするためである。自己所有の車がなければ、サラ金から20万30万借りて、中古車の1台も用意することをしなければならない。
但し、身代金の受け取りは再び別の車を盗んで、その車を使用する。それくらいの念入りさは必要であろう。そういったことが危機管理というものである。
客観的・公平に見るならば、目撃という偶然と(時間帯、場所柄からいって確率の高い偶然であったはずである)目撃される可能性を考慮に入れておかなかった犯人たちの間抜けさ加減に助けられたスピード逮捕であり、「日本の」とわざわざ頭に断りをいれる程に警察捜査が優れていたことからの事件解決というわけでは決してない。
母親が目撃情報があったことを含めて捜査の一部始終の情報を聞かされていて娘の顔を見るまでの経緯を様々な情景をも含めて記憶していただろうことと、日本の警察が検挙率や職務姿勢といった点で優秀でも何でもないことが世間一般の評価情報となっていることを考え併せると、いくら娘の身の安全に心を痛めていて、その反動と合わさった無事保護の喜びからの感謝の気持があったとしても、「日本の警察に感謝します」という言葉が口を突いて出たと言うことは、もしそれが皮肉でなければ、母親自身がそれぞれの情報を公平・的確に分析するだけの客観的認識能力に元々欠けていたと受け取るしかないのではないだろうか。
テレビに出演して、自分の資産家として築いた豪邸やリッチな収入、所有している馬鹿にならない値段の宝石類を自己宣伝し、それが情報として全国に流される。同じテレビが難病に苦しむ人間や本人の努力に関わらず貧しい生活を余儀なくされている人間の情報も流している。地震や津波、あるいは大雨による洪水で生命や財産を失う者が多くいることを我々は情報によっていやでも知らされる。警察の捜査怠慢で死ななくても済んだ人間が死ぬ羽目に追いやられていることも情報は教えている。
テレビを通した私生活に関わる自己宣伝行為自体が他の様々な生活や人生に関わる世間から得ていたであろう情報を自己自身の情報と比較対照して〝相対化〟するだけの力を持ち得ていないからこそできることで、そのとき既に本人の社会に対する客観的認識能力の欠如を証明していたと言える。
日本の警察が母親の「日本の警察に感謝します」という最大限の能力評価を真に受けて日本の警察は優秀なのだと思い込んだとしたら、日本の警察自体も客観的認識能力をクスリにしたくてもまるきり持ち合わせていないことを暴露することになるだろう。