中途半端な国会質疑の源を探る

2006-06-16 11:59:36 | Weblog

福井日銀総裁の村上ファンド出資問題

 早朝の『日テレ24時間』テレビでもやっていたが、福井日銀総裁の村上ファンド出資問題での福井氏自身に対する質疑が昨日の参院予算委員会で行われた。民主党の平野議員は福井氏が解約を申し出たのが2月であることを福井氏自身に確認してから、日銀の量的緩和政策解除が3月に行われたことを指摘したあと、解除によって予想される株価下落に備えた「『(量的緩和解除前に)一種の売りぬけができる。インサイダー取引に問われても仕方がない』と詰め寄り、福井氏が『日銀の政策は合議制であり、私が独裁で決めているわけではない』と語気を強めて反論する場面があった」(『時時刻刻 福井総裁苦しい弁明』06.6.16.『朝日』朝刊)

 そこまで攻めていながら、追いつめることができず仕舞いでお開きと言うわけである。釣り上げ寸前のところまでもって行きながら、詰めの甘さから獲物を逃してしまう。こういった追及の尻切れトンボが国家質疑での決まりきったパターンとなっているはなぜなのだろう。

 これは相手の言葉尻を咄嗟に捕らえて、その言った事実を崩しにかかる方法で攻め込むのではなく、自分が用意した言葉、あるいは用意した資料でのみ攻め込もうとするから、そこから外れた場合、用意していなかったために対応しきれない事態に立ち入ってしまうことによって生じるパターンではないだろうか。

 福井氏の反論に対して、「合議制であり、独裁で決めているわけではなくても、あなたは日銀のトップであり、トップの意志がより大きく反映した解除決定ということもあり得るはずではないか。トップにはトップなりの意志決定権があるはずだ」となぜさらに詰め寄ることをしなかったのだろう。

 世の中には民主主義を体制としていても、民主主義の装いのもと、実質は〝独裁〟である例がいくらでもある。例えばトップの意志が強すぎて、周囲が押されてしまう状況にあり、結果としてイエスマン的な雰囲気が当たり前となって、合議とは名ばかりで、トップが決めたことを全会一致の形で承認するケースや、責任を取りたくない自己保身からトップやそれに準ずる力ある者の意見に追随する状況での合議を経た決定といった例である。派閥のトップが決定したことを反対でも、派閥従属によって成り立たせている自己利害を崩すわけにいかずに派閥一致の賛成の態度を取るといったこともあるはずである。

 小泉首相はその政治手法が独裁者になぞらえられが、民主義を体制としても、部分的には独裁はあり得ることを示すものだろう。

 勿論福井総裁は自分の意志が大きく反映して決まった量的緩和解除ではないと否定するだろうが、「あなたが否定していることで、実際のところは誰にも分からない。事実かどうか確かめるためには量的緩和政策解除決定メンバー全員の国会での証言が必要になる」と証人喚問を求める。

 追及が同じ不発に終わるにしても、問題を大きくして、その過程で相手の否定を繰返させ、失言を誘う手に出るか、それらの否定のなかで不審を与える主張が出てきたなら、その言葉尻を捉えてさらに追及する。

 あるいは「独裁」ではないとした反論が語気を強めた点を捕らえて、「人間はウソをついているときほど、語気を強める」と相手の神経を逆撫でする。相手が「私をウソつきだと言うのか」と反論したら、「一般論を述べたに過ぎない。馬鹿にムキになったようだが、冷静でいられないほど、疑われることになりますよ」とさらに神経を逆撫でする心理戦も必要だろう。

 自分が用意した質問の範囲にほぼ添ってしか質疑応答ができない習性の拠ってきたる原因を考えるとしたら(だからこそ国会質疑では質問者に質問趣意書を提出させ、応答する側は趣意書に添って想定問答集を作成して質疑の場に臨み、双方の〝用意〟の間のやり取りとする制度を当たり前としているのだろう)、学校教育が議論形式の授業となっていないためにこれといった議論の経験がなくて、そのことに代わって用意した授業内容を用意したままになぞらせる暗記形式となっているために、教師の質問が行われた授業の範囲内の事柄と決まっている既に用意できている状態にあり、そのことに対応する準備のみで生徒の答が果たせる機械的な教育習慣の積み重ねを遠因として培ったものだろう。

 尤もそういった機械的対応の素地は学校教育以前の子供の頃から親や周囲の人間から植え付けられることとなる日本人の基本的な行動様式が起因している。

 親に連れられた幼い子供が言葉を年齢相応に喋れるようになっていても、近所の人間に「おはよう」と声をかけられても何も答えることができずにいて、親に「おはようは?」と促されて初めて「おはよう」と言える、自分から言葉を用意するのではなく、親が用意した言葉に対応して同じ言葉を繰返す意志伝達に於ける反復的な反応性がそのまま学校教育にまで引き継がれてなお一層強固に刷り込まれ、さらに大人になってまで引き継いでいって、国会質疑の場面でも〝用意〟の範囲内といった現象が生じているのではないだろうか。

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