善人であっても、叩けばホコリが出る。
村上世彰が善人だというのではない。あくまでも譬えであって、まるっきりの善人など存在しないということである。
一つの仕事に就くとき、大まかに分類すると、善人から出発する場合と、最初から悪人として出発する場合、それに悪人、善人どちらでもなく出発する三つの場合があるだろう。村上世彰が通産官僚を辞し、株の世界に身を投じるに当たって善人から出発したのかどうかは知らない。善人から出発したと仮定してみよう。巨額の資金を取り扱う機会に恵まれて、その機会を無駄にせずに取り扱った巨額の資金に見合う利益を獲得することによって名声と才能を認められて、再び巨額の資金を取り扱うチャンスを与えられる立場にいる人間が、法律に触れることになると知りながら、チョット操作すれば一獲千金の利益を得ることができると分かっていて、その誘惑に負けない人間がどれ程いるだろうか。一度ならず首を振って誘惑を退け、一獲千金の利益を棒に振った人間なら、あのとき法を犯してでも手に入れていたならと後悔したとしたら、次の誘惑に対する抵抗力を相当に弱めるに違いない。
例えば、100万円のカネを拾って、バカッ正直に警察に届ける。落し主が現れて、法律下限の5%の5万円を謝礼として手に入れる。もし届けなかったなら、拾った100万円を丸々自分のカネとして自由に使えたのにと届けたことを後悔した人間は、次にカネを拾ったら、果たしてネコババの誘惑に勝てるだろうか。
村上世彰が利益のためには少しくらい法律に触れても構わないという姿勢で最初から出発したとしたら、もはや論外である。今回のインサイダー取引の疑いも、自己の姿勢のストレートな具体化に過ぎなかったことになる。
国会議員の場合を考えてみる。多くの人間がこの国を良くしようと理想に燃えて政治の世界に身を投じるに違いない。だが活動を維持するのも、議員という身分を維持するのも、カネなしに満足に任せることはできない。派閥の領袖や派閥幹部に議員活動を支援して貰うにしても、顔や名前もさることながら、カネのバックアップなしには有効に機能せず、カネの力がモノを言う世界だと思い知る。当然誰の支援もなしの自分ひとりの活動では、その幅を広げるのも頻度を上げるのもカネの力が必要で、カネへの渇望が高まる。
派閥の会合を高級料亭や高級ホテルで時には高級料理、女付きで開くのも、カネをかけることに意義があるからだろう。カネの力で新人や下っ端にはマネのできないことをして感じ入らせて派閥に感謝させ、恩を着せることができるからだ。派閥の力を自分の力だと錯覚させることもできる。
自分一人で飲み食いに行くにしても、カネの使いようで先生、先生と持てはやされもする。みみっちく飲み食いしていたら、国会議員のくせにと軽蔑されるだけである。誰か同僚を連れてなら、なおさらにカネ次第で相手にさすがはと思わせ、店にも受けをよくすることができる。結果として恩を着るのも着せるのもカネ次第だと学ぶ。
カネの力が自分の能力に取って代わることすらある。自分の能力では解決できないことをカネが簡単に解決してくれる。解決だけではなく、相手に感謝されて頭を下げさせることすらできる。
かくして資金が潤沢であることに越したことはないということになる。いくら有り余っても、有り余ることはないことを知る。カネが十分にあれば、若いうちから大学や官僚、企業の中から同じ世代の有能な人材を見つけ出して仲間とし、飲み食いを含めた会合に関わる資金をすべて自分持ちとし、謝礼まで出して情報交換したり、議論を闘わせて政策知識を深めることもできる。いわば派閥に所属していたなら、派閥の親分に従属する子分の身であっても、カネがありさえすれば、それなりのグループをつくって親分の地位に納まることもできる。カネに恵まれなければ、余程政策的に優れているなら話は別だが、ずっと子分の身でいなければならないだろう。
そのようなカネを親の遺産もなく自分の才覚一つで稼がなければならないとなったら、自分の才能にプラスアルファも2アルファもつけるためにも、政治献金が潤沢に集まらない若手のうちは支持者を介した有利な株の取引や自分でできる口利き――地元の市会議員や県会議員を通した国会議員という肩書きにモノを言わせる便宜供与で謝礼を得るといった資金集めに時間と力を注いで、歳費以外にも稼ぐといったことをしなければならなくなる。そのうちインサイダー取引だって辞さなくなるだろうし、地元での口利きが談合や情報の漏洩に当たることになっても、自分の政治を実現させ、世のため・国のために尽くすという口実の元、実際はカネのために魂を売ることにもなる。
閣僚でございます、党役員でございます、派閥会長でございます、総理総裁でございますと、さも有能で立派な政治家ですといった顔を曝していたとしても、完璧にウラのない人間は存在しないし、まるきり善人で通した政治家も存在しないだろう。
そういった政治家たちが自分たちのいかがわしさを隠して学校教育で生徒に〝愛国心〟教育をすべきだと主張する。学校の生徒は〝愛国心〟教育を導入した政治家たちが実際はウラにいかがわしさを隠しているとは気づきもしないだろう。国を愛しなさい、日本の歴史・伝統・文化はこんなにも素晴しいという教示はそれぞれのいかがわしさを隠す隠れ蓑の役目も果たす。
そういえば村上世彰に関しても、「株主価値を高める」という立派な目標を掲げ、盛んに口にしていた顔からはウラに不法行為を隠しているとは誰も気づかなかったに違いない。