花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

11月になりました。

2019-11-01 06:22:24 | Weblog

今年の冬をどのように超すか?!

早朝7時から20時までは

休みであろうと、祝日であろうと

主人のオリジナルな自分の時間と結婚以来決めてあるから

 

この時間帯には主人は居ても居なくても、

関わらないようにして、

マイペースで家事をこなしてきた50年間だった。

南紀で生まれて、雪を知らないで13歳で東京の小学校6年生に転校した。

翌年あたりに30センチぐらいの雪が降った。

なんとなくうれしくて、

年子の次男の兄と、雪だるまをこしらえて、笑いあった。

24歳の5月まで、

東京の中学校、

都立小松川高校、

日大の理工学部の薬学と、

高校中学の教職課程を履修して、

薬理の教授の勧めで、

東京大学の医学部の薬理学教室に勤務。

30過ぎた薬剤師が寿退職するというので、大学のポストが空席になる後釜としてだった。

しかし、三か月後には退職するはずの30過ぎた薬剤師が

寿が流れてしまい、継続勤務を決めたという、ハプニングに出逢った。

大学の学生中に父の急逝の為、アルバイトしながら卒業したこともあり、

空席を待っている余裕はなかった。

急遽、臨床の調剤を覚えて、臨床力で

どこかの病院に固定する計画のもとに、

東京医大の薬剤科に

「無給研究員」として臨床勉強の為通うようになった。

 

所が、1か月後に正規職員として、働く道が、、、なぜか?開けた。

一通りの臨床力が身に付いたころ、

自宅から徒歩で行ける総合病院に、

東京医科大学の教授の紹介で移動しました。

その病院には当時、

食道がんの手術で

日本中に名前が知られていた

N先生が、

廊下を堂々と歩かれながらおっしゃいました。

「私が、、、食道がんでは第一人者と言われているN医師である!」と

ご自分でおっしゃられたのが、、、

50年以上過ぎた今も、、、

印象深く残っている。

その病院には、一生ここで働きたい、、、と思うような、

楽しい雰囲気がありました。

 

私の実家は内科、外科の個人経営の開業医でしたが

父が早逝してからは、兄が、アルバイトの先生を雇用しながら

内科だけを標榜していました。

このままでは、開業の時代は終わるからと、

国立がんセンターに

胃カメラの指導医になるべく通い続けていました。

大学病院の一人当直も任されるようになり

研究を体験してから、

臨床の薬剤師として勤務して、良かったと思う事が

多々ありました、

 

医学部にを卒業した息子の次男にも、

何処の科に入局しても

「病理学の基礎の教室」に通っておくことが大切だと、

内科医の兄は、(息子の卒業の挨拶に)実家に連れて行ったときに、

息子に教えてくれました。

同じ病院の「大先輩の医局の先生方」も、

「私の弟も、兄の内科医も」

口御揃えて言っていたことが、今更のように思い出されます。

 

11月は、、、私にとって

大きく、、、勤務先の変わった年でもありました。

普通に、、、

地域に貢献できる普通の病院薬剤師をしていることが

社会の多くの人と、無意識に接する機会が多いので

時の流れとともに

多くの知人と

,時代を流れながら、

いつの間にか年をトッテ、

幸せに家族親族の近くで行き来しながら、

豊かな日々を生きていたかもしれません。

しかし、11月15日、

清水の舞台から飛び降りる勇気で

北海道の、知人も、親戚も居ない発展途上の未来の都市に

我が家の実家の外科部門で働いてくれると

未亡人になった母に、約束してくれた若き外科医師を迎えに

11月、15日、札幌会館で、

北大卒業の医師と結婚することになりました。

お付き合いの暇は一日もありませんでした。

一開業医に、常勤の医師を迎えるのには

結婚以外に、母は思い当たらなかったのでしょうね。

せっかく、

総合病院に薬剤師として勤務している私の事を、

辞めさせてまで、外科、内科の看板を守りたかったのでしょうか?

それとも、54歳という若さで、

突然、、、前の日には患者さんの手術を成功させながら

疲労で、過労死した父の夭逝を、、、受け入れることは

母にとって難しいことだったのでしょうか?

ともかく、、弟も国立の医学部に在籍していたし

病院の復活が、かなうのであれば、

私にとっても、未亡人の母を支えることは、やぶさかではないと、

清水の舞台から飛び降りるつもりで、

退職して結婚に踏み切りました。

一方、若き外科医の卵だった主人は

医学部は卒業しても、たった一人だけが国家試験を受験したに過ぎないという

収入面からは、、、パニックの時代でした。

医師免許がないから、当直はすべて無給。

無給医局員の時代が過ぎて、

やっと、国家試験受験のあと、

合格しても、無給医で、医局費用や、研究費に頭を抱えていた時代でした。

実家からの仕送りは卒業と同時にストップしたそうです。

私は、父母とも、幼馴染の「医師と薬剤師」の組み合わせの御夫婦と

親戚のように長い年月お付き合いしてきたご家族がありました。

車も我が家にはセドリックの縦ライトと、小回りの利く三菱のクーペと

コロナがありました。

総合病院での給料も、それなりの文化生活に事欠きませんでした。

母も、国立音楽大学時代の友人たちに励まされて、

「よつ葉会という、音楽教室」を主宰しました。

短期間に、お弟子さんは50人を超えて、

公会堂や、劇場で

「コンサート」や「子供の発表会」を開催できるまでには

長い時間はかかりませんでした。

一方、主人の方は

戦後の、日本がオール貧乏人の時代から

医師が医師をするためには、、、多くの事を妥協して、

頑張らなければ

医師になった人も、博士課程に残れないという、

国家免許ボイコットとか、

青医連とか、、、医学部は混乱の時期でもありました。

北海道は、、、貧しい私たちより、、、

もっと貧しい、昭和40年時代でした、

札幌の北東は玉ねぎ畠でした。

平岸はリンゴ園でした。

豊平川の川の周りには、インスタント住居が並んでいました。

固定資産税の要らない事が原因???だったのでしょうか???

いつの間にか、、、豊平川は素敵な川となりましたが、、、。

こんな私たちでも、銭湯の中では、

「お医者さんの奥さんって、、、羨ましい、、、お金が有って、、、」

しばしば言われたものでした。

銭湯に行かねば風呂のない所に住んでいても、、、

医師は羨ましいと、、、言われた時代でした。

アパートの前は舗装がしてなくて、

馬が通るから、、、馬糞風、、、

 

土埃で、ガラス窓を一日2回は拭き掃除していました。

北海道では、、、医者は、、、金持ちなんだ、、、!

知的、インテリ、、、肉体労働者ではないのでした。

さすが、、、国立と公立しかない、、、

基礎系の医学者の織りなす当時は

医師と結婚することが、ねたまれるという、、、

とんでもない、、、

文化の違うところに根をおろしてしまいました。

そして、

学閥の有った当時の日本の医療事情を知ったのは

息子が4歳になって、

主人が、東京には帰る予定が無くなったときの事でした。、

医師になるという事は

その医師の卒業した大学に貢献するか?

地域の為に貢献するか?

どちらかを選ぶのが北大で、

医学博士の称号を戴いた

主人の生きる場所は

北海道しか考えられないという時代であることを知ったのは

主人は40歳になっていました。

故郷の実家に帰っても、

兄も兄の嫁さんも、

玄関のカギは開けてくれませんでした。

主人の実家も、

武蔵野の原生林の栗の木など、そのまま生えていた庭は伐採されて

横浜市の高台の根岸に引っ越していました。

北海道に帰ってきたとき、

もう、、、私のかえる所も、待っていてくれる人も居ないと

背筋が寒くなる思いがしたのは、40歳の頃でした。

翌年、

法事を弟が開いてくれて、

親族兄弟30人ほどが集まりましたが

玄関のカギを開けてはくれなかった兄は、

法事には来ていませんでした。

気立ての優しかった姪っ子が代表で来ておりました。

「開業医」を、

たった一人の医師が続けるには、

患者さん側のモンスターが増えて、

対応に、時間を奪われるので、

ストレスに耐え切れず

実家の開業は閉鎖していました。

お金に贅沢になっても、医師は使う暇はありません。

ストレス解消の、モンスターからの逃避旅行が重なるだけで

廻りからは、贅沢な旅行三昧と見えたでしょうね、、、きっと。

150人の患者さんが毎日来てくれていたのに、、、閉院したのです。

がんセンターで認可された胃カメラの指導医として、

千葉の亀田病院という

アメリカナイズされた、総合病院に勤務したので、

法事にはでられなかった訳が解りました。

実家のカギを開けれなかった理由が暗示されました。

この時を境に、

もう、、、故郷に帰らなくてはと、、、思わないことにしました。

東京で、開業をするという事は

時代の要求が無くなりつつあるのかもしれません。

東京のど真ん中にある、

著名な私立医科大学を卒業して

臨床一筋に生きている息子も、

救急病院でもある巨大病院のある科の責任者である以上

病院300メートル以内を離れないような、

仕事人間である。

46歳になろうというのに、、、

1Kの、狭い寮に入っている、

車を置く設備もないから、車もない。

こんな息子にも、今年は8人ぐらいの花嫁候補が紹介していただけた。

仲介に入ってくださる方が社会的にご立派な芸術家で、

その方の好意にそむけないからと、一度はお会いしてみるものの、

仕事着と、ジャージのような軽装で走り回って、髭を剃る暇もない仕事人間が

花嫁候補の、御気に入るわけはありません。

それでも、2回目の誘いがあっても、

東京の、一流ホテルのレストランに行くのは

救急の仕事とは両立しない。

「母さん、、、僕の孫はあきらめてくれ、、、僕は仕事を第一に考えるから

仮に、、、家族が出来ても、、、守り切れない、、、、、、、

この世で、自分を愛してくれたのは母さんだけで十分だよ、、、長生きしてくれ。」

「もう、、、

結婚の相手を紹介してくれなくていいから、、、」と

伝えてくれ、、、と言って

電話は切れた。

時間貧乏で、可哀想である。

「母さん、、、僕は、、、医師をするという日常だけで、、、セイイパイなんだ。」

結婚相手は、医師と知っただけで、

お金も暇もある、

高級車に乗った邸宅から出てくる、ダンディな紳士をイメージするだろう。

全部、、、無い。

 

在るのは医師免許と、専門医の称号と、博士号と、柔道の黒帯だけである。

高校時代までは、音楽が好きで、仲間の音楽クラブの学生と

ホールでライブなども開いていた。

中学卒業の時は、合奏の指揮者もやって、

リクエストに、アルトサクソホンのソロを吹奏して拍手を帯びていた。

 

息子が東京の大学に行って以来、

一度だけ正月に来るというので

ありったけの、御馳走を用意したが、

飛行機は4時間も、北海道を旋回した挙句

もとの羽田に着陸、、、

もうこりごり。。。だったのであろう。

 

20年近く里帰りはしていない。

 

部屋は、息子の物がそのまま保存されていて

断捨離する気にもならない。

津軽海峡は深く、北海道は遠い。

もともとが、

先祖は東京出身であるから、

きっと先祖が読んでくれたのかもしれません。

息子が普通の家庭を持てて、

奥さんに見送られて勤務先に向かい

シッカリした奥さんが、子供を育てながら

1日の家に、、、

かつ丼が食べられたら、幸せなのよ、、、と

子供たちに話せるような、

質素堅実な女性だったら、

息子と言えども、

家庭位は望んでも贅沢とは言えないのではないでしょうか?

大學を卒業後は、新幹線で附属病院勤務をこなし、

新幹線で東京の本院に帰り

卒後3年間の交通費用や、住宅費用は、大変な額になりますが

研修期間の5年間は、一般サラリーマンの大学でと同じです。

46歳になっても、、、貯金のない息子からは、

「結婚する気は当分、、、ない。」

「もう、、、相手を探さないでくれ、、、自分はIKの仕事場がきらくだ。」という。

「君の幸せを願って、医師の大学に入ったときはうれしかったのに、、、。」

独身の息子を残して死ぬのは、あまりにも寂しかろうと思うと、、、

社会の谷間で、仕事だけが生きがいの息子には、いったい何が障害物なのか???

世間一般のように、

医師の免許さえ取得させれば

親の役目は終わり、息子は幸せになると信じていた。

「母さん、、、僕は、、幸せだよ。、、、」

「好きな仕事に従事していて、、、素晴らしい技師さんたちとチームワークも良く

楽しく充実して、働いているんだよ。」

ただ、、、時間が無くて、、、苦しくなる時がある。

働きかた改革をすることも大切ですが、

命の救急の前には、法律道理行かないことが多いのですよね。

時間を、お金で買っているという、、、

昭和30年ごろは、医師の税制優遇がありました。

救急の為には、自家用車も、患者家庭の前に駐車できるワッペンが貼られていました。

北海道の自宅の前には、年がら年中一般車両の駐車が有って、

車庫から右には出れません。

必ず、左のう回路から大道理に出る日々が30年以上続いています。

一度、、、除雪車が通過できなくて、町内の誰かが、通報したのでしょうか?

お巡りさんが注意しに来ました。

その時は、真向いの私が通報したのだろうと、大した剣幕で聴かれました。

裏で、除雪車が通れなくなり。

冬期間の除雪の為の駐車をしないようにとの回覧が回ってから、

前の叔父さんのご機嫌が直り、、、ほっとしました。

我が家の自家用車は、急な出動が出来ないほど、

50歳半ばまでは、目前の両家が路上駐車するので

タクシーで通う事になりました。

そのうち、若き医師の診断のテェックが出来る認定医になってからは

勤務先が、タクシー券を月給の昇給の代わりに配布するようになり

駐車は車庫入れの時だけ、どかしてもらっています。

郊外の暮らしは、硬いことを言うと、近所の付き合いがうまくいかないのですよね。

東京で24まで過ごした私にとっては、

路上駐車なんて、、、考えられない世界でしたが、

そのようなことを言っていたら、、、村八分になるのが関の山です。

何を、、書いたのか解らなくなりました。

これは日記帳です。

弟、親戚、義兄さん。いとこ、甥やだけが、、、連絡がわりに読んでくれているサイトです。

おやすみなさい、、、㋐、あ、あ、、、、朝だ!

私、、、呆けたかしら、、、眠れなかった。

沖縄の、思い出のお城が焼けて、、、ショックの為に、、、眠れなかった。

息子に、、、我が家はお金持ちの医師ではなかったけれど、

君にも、家も、車も、買ってあげれなかったけれど

お父さんは、真珠貝のように

誰も知らない海の底で、

研究と、貧乏と、臨床と、強すぎる仲間たちの必要な医師として

人知れず、、、良い実験をして、

世の中に認められ行く若い人たちの、

応援になる仕事をしたという事を、大いなる遺産と思って、

親は君を精いっぱい愛しても

こんなことしか出来なかったほど、、、

日本の,皆は日進月歩、進化している優秀な人ばかりです。

よそ見をしないで、医師であることだけに、、、

医師をすることだけを考えて、

社会の義務はしっかり果たし、大人として、

素晴らしい仲間たちと、地域の救急の為に貢献してください。

75歳になって、、、夜半に嵐が吹かぬかと、、、思いのたけを書いてしまった。

 

 


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