花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

受験システムの落とし穴

2019-02-13 05:05:10 | Weblog


世の中には、、、いじめ、、、という事が報じられて久しくなる。

虐めも理論も愛も道徳も、、、

人間性も、、動物以下の「戦争時代」。。

軍隊映画の上官が、部下の兵隊をいじめる映画など

面白おかしく、、、嘘八百でシナリオ化された現実が

バンジュン!、、、これって俳優の愛称ですが、

アチャコ、、、とかが、、、

白黒映画で、、、笑いの中の

日本の戦争を風刺した喜劇の映画が思い出されます。

将校には食事があっても、、、

兵隊は、、、鍋で、、、靴を煮ている、、、。

本当に靴を切って革にして戻して、、、煮て、、、食ったんだぞ!!!

戦後、我が家に合流して住んでいたシベリア帰りの叔父さんが

目を吊り上げて、、、私に言いました。


日大の理工学部の学生のころ、


戦争に出兵したため中退!。

出陣の時の軍歌を教えてくれたりしたことが有った。



こんな、、、勇ましい経歴の叔父さんでも、

帰還してからは、

「大学受験はもう、、、たくさん。」


復活の為の家屋づくりには、

叔父さんは引っ張りだこだった。

ステンレスの板から、流しや、洗面台をつくったり

庭にセットした丸型のこぎりが付いた機械で

自分が住む住宅部分は、

我が家の空き地のど真ん中に建てたりしていた。

婦人科医だと言えば、戦地に行かなくてすんだのでしょうか?

外科の医師は、真っ先に国にご奉仕です。

戦陣外科を、日赤の看護師さんたちと体験してきた父は

顕微鏡だけはいつも大切にしていた。

叔父さんは、父の為に、

顕微鏡の円い台を創った。

三段の円いヘリの段差があり、

木目が正目の見事に芸術的な出来栄えだった。

理工学部に在籍していただけあって、

父のレントゲンの技師さんもびっくりの

鉛をはめ込んだ、部屋を完成させたりして

戦後の、どさくさの物資のない時代を

魔法使いのように、いろいろな工具を使って生み出していた。

    

受験は、研究者だけ、厳しく受ければよいかもしれないと、、、

大学中退の叔父さんの生き方に

小学生だった私は尊敬の念を抱いていた。

大概の事はつくりあげてしまう器用な腕前には

学問をする人とは、又、、違う一念の伝わってくるものが有った。

この叔父さんには、学歴は必要なかったのかもしれません。



もう一人の、叔父さんは、

学徒出陣で、大学に入学する前に戦場に行った。

早稲田中学を卒業していたせいなのか?

理由はわからない。未来ある学生が戦場に行ったのでした、

終戦の後で、大勢の兵隊さんに交じって、

帰還してから、父の家に合流していた。

「兄さん!僕は大学に行きたい!」

28歳で受験に挑み、

見事に早稲田の理工学部に合格した。


疎開先に居た父は、生き残りの3人の息子や娘の育児の他に

戦争を知らない、、、新しい時代の男の子が産まれてくれた。

あたらしい時代の、新しい教育をさせるのだと

末っ子を見ていると

希望が湧いたと言っていた。

やがては、

教育の為に

疎開先から、

生まれ故郷の東京に

帰る日が来ることは、、、避けられないだろう、

その為にも、

生まれ故郷の東京で、早稲田に通う弟を

親代わりになって、

授業料、生活費を送り続けた。

卒業したときには、学芸大学を卒業したという

小学校の先生を、お嫁さんにと、、、連れて帰ってきた。



疎開先の、診療所の二階の広間で

叔父さん夫婦の結婚式を挙げました。


まだ少女にもなり切らない子供の私は

叔母さんの花嫁姿がまぶしかった。


赤い花の模様の着物を着て、私はおばさんのアクセサリーのように

大人に言われるままに、お酒を運んだりした記憶がよみがえる。

戦争が終わって、日本に帰還した父の弟、、、叔父さん!

28歳で受験をすると聞いたとき、

びっくりしたが、、、

「合格したら、応援する」、、、、と、約束した父は

「まさか、、、本当に合格するとはね、、、」と。

母は、たくさんの居候を抱えて、

勤務医だった父の開業に際して

音楽の知識だけでは、、、手に負えないと察知していた、、

青山師範(現代の筑波大学)を卒業後、

渡米して、多くの事を学んで帰ってきた母の父に協力を求め

開業のノウハウを任せっきりにしていた。

開業の事務に通じた人たちの協力を得て、

忙しい日々を送っていた。


疎開先では、父は「神様のような先生」といわれていた。


村にとっては、居なくてはならない、、、

たった一軒の医療施設だった。

そして、、、13年が過ぎたとき、

私たちの兄弟は受験戦争に突入した。




あのまま、、、疎開先で、医師をすることだけに専念していたら

父は54歳で過労死することはなかったかもしれない。


戦争で、八人兄弟姉妹のうち4人を喪っている、

男3人、、、女性一人、、、爆撃の時、、流産が一人、

富国強兵で、日本は植民地にはならないぞ!、、、という時代。

産めよ増やせよ、、、兵隊さんの候補生を、、、という、、時代。

東京の真ん中で東京タワーの見える芝公園。

当時は、

宮内庁の方々のかかられる病院だったと聞いています。、

慈恵会医科大学を卒業した父は、

娘の私から見ても、

眩しいような、優しさと強さと品が感じられた。

疎開先では、医師は一人しかいない。

私の、子供の頃の友人は、

父の東京言葉を真似ては、、、

先生がお父さんやなんて、、、あんたはほんまに、、、ええな~~~!



友人は、私を見て、いつも父の事を言った。

私の事には興味を持ってくれることはなかった。


無医村での、

奉仕の心で

昼夜働く父という神様に守られて、

よそ者の私は、、、最小限の仲間外れで済んだと理解している。

誰も自転車に乗っていないときに

昭和25年ごろ、、、私はワインレッドのママチャリを持っていた。

㋖自転車という会社の自転車だったと記憶している。

校庭に置きっぱなしで、

乗りたい人は、誰でも乗れる自転車になっていた。

私が乗りたいというと、すぐに自転車は交代してくれた。

キンモクセイと、ヤマモモの大きな木のある診療所では

お寺さんのような広い縁側があり、

キンモクセイの香りの中で、昼寝をしたものだった。

こんな素晴らしい環境なのに、、、

8歳年上の兄の受験が始まるからと、、、

母と子供たちは、

戦後のドサクサの、東京に、一足先に転向したのでした。

子供の受験。。。両親は、命がけで、



あたらしい戦後の教育を受けさせるために

地域医療に備えて

未経験の開業に向かって、

後戻りはできない、、、

父の故郷がえりでした、

「個人開業の入院室のある医療施設の経営を始めたのでした。」

父の家は市ヶ谷の旧家で、御爺ちゃんは宮内庁に勤務していた。

しかし、戦後の市ヶ谷は、帰れるところではなくなっていました。

慣れ親しんだ市ヶ谷とは、

又一味違う下町で

家族と息子とともに

下町のお寺だった跡地を世話してくださる医療人が居て

疎開先から、母と子供だけで、

上京した。

疎開先の村には、戦後合流した母の弟家族が残り

父は、生き生きと診療の後は趣味の時間に没頭していたと

従妹の義姉が、笑っていた。

「叔母ちゃんが、一足先に東京に行ってからは

叔父様は生き返ったように、診療所を、開放して

村の人がいつも、、、たまっていたのよ。

叔母さまから禁止されていた、囲碁も

麻雀も、解禁されて、

叔父様は診療の後、疲れて寝ていても、

村の人たちが、入れ替わりたちかわり、、、

叔父様を起こしに来て、

にぎやかな集会場になっていたわよ。

彼女は、、、その後、父が杉野ドレメの大学を卒業させて

医師と結婚し、イタリアンレストランを経営しながら

ゴルフはシングルという腕前で

一族の中では、堅苦しくならないで

医師のメンバーの集会するレストランになっていたようだった。

私は、美人系の彼女が苦手で、

彼女のレストランには一度も言ったことが無かった。

当時、レデースゴルフクラブというのが

芝の打ちっぱなしのゴルフ場で募集しており、

5万円ぐらいであったと記憶していますが

兄と、姉と、従妹たちが、私の名前も登録しており、

本人がアクションしないまま、会員になっていたことが有った。

そういうわけで、兄夫婦に、無理やり打ちっぱなしに同行することになった。

なんのことはありません、、、

内科医の兄は、初めだけ同行したものの、

後は奥さんのステッキガールとして、

私を同行させるのに会員にしたというわけで、

父が亡くなって、兄夫婦の政権下で

大学に通っている手前、

義姉の御遊び同行お供も仕事だと割り切って

会では、御つきの腰元のようにオトナシクしていたものでした。

あたらしい世を生きるための、

これも勉強だと割り切って、心は東京へ帰ってきたのでした。



戦前は、市ヶ谷に実家のあった父からは、

文人道りに住んでいた、学識のある著名人の人生を

聞きながら、私は、本屋でその人たちの著書を探した。

本屋では買わずに、図書館通いが再燃した。

父のさりげないよもやま話から

学問は大切らしいとは、、、気が付いていた、

医師になるつもりで、勉強には気を抜かないで過ごしていても、

居候や従業員を抱えた父の頑張りを見ていると、

男の子3人の大学が、最優先するのは仕方のない現実だった。

長男は私に逢う度に

「お前は、嫁に出てゆく人間だから、、、な。」

九官鳥の、、、馬鹿の一つ覚えのように

すれ違うたびに、わざわざ立ち止まって、私に言い続けた。

短期大学や女子大の受験願書を、ミカン箱一杯取り寄せて、

「大学は、この中から選べ!」、、、と言って
部屋に投げ込んでいった。

東京大学を受験すると言って頑張っていた兄は

別人になってしまっていた。

あの頃は、正座して、父母に「おやすみなさい」と言っていた。

映画に誘われても、、まともなものが多かった。

モーゼの十戒、、、眼下の敵、、、クモの巣城、、隠し砦の三悪人

椿三十郎、、、ナバロンの要塞、、、

「詰襟が似合っていて、夢にあふれていた。

見る映画も緊張感のあるものだった。

東京大学が不合格になると、

父と一緒に診療所をする医師になるんだから、

学問よりも、臨床力だから、

いろいろな疾患の患者さんに出逢って

実際の医療を体験しなくては、、、

怖くて、命を前に、、、何もできない、、、。

悩みが顔に出るようになった。

ある日、、久しぶりに映画を観に行こうといった。

名誉と栄光の為ではなく、、、という

よくわからない映画だった。

その後、、、「たが為に鐘は鳴る」を見てからは

彼女が出来たみたいであった。

そして、、、学生結婚!


愛する人の膝の上でうずくまる、、、カットの漫画。

このカットは、手塚治虫さんの漫画本を集めていた時

気に入ったワンカットです、。

手塚治虫さんに、フアンレターを書きましたら、

葉書でお返事くださいました。

北海道に行くからとも、、、書いてありました。

小学校に入学する前から、

ロック冒険記、月世界旅行、、、、タンカイという難しい漢字の表紙の

分厚い雑誌に、連載していました。

何度か、お手紙を書きました。

吹き出しに、自筆で、手塚だな?!とか、、、

自分の名前を書くのはどうしてですか?、、、とか、、、

手塚漫画は読まない物はないというほど、、、はまっていました。

兄が、、、東大を落ちてから、、、生き方が変わったね?!と言ったら、

家にあった漫画から、このカットを拡大コピーして

「お兄ちゃんの気持ちは、、、この漫画の絵と一緒だよ、、、」

渡されたカットを、、、しばらく壁に貼っていましたが、

手塚治虫先生の、海より深い心のカットを、簡単に使っては

申し訳ないでしょう!と、、、言いましたら、

「東大に入学した自分の姿しか考えたことが無かったのに

東大から、、、君は要らないと言われてみろ、、、安住の安らぎは

この漫画が代弁してくれているよ、、、」

手塚治虫さんのはがきと、この絵の事は、本人から、、、、ちょっと違うかな?

受験に失敗した時の、安住の憩いの場所なんて、、、N,,,,???

あの、お返事は、おいておけばよかったと。



手塚治虫さんが、、、兄さんだったら、、、きっと私も

漫画を描いて、いたかもしれない。

アンナ、、、あ兄さんが居たら、、、いいな~~~。


実際の、優しかった兄は、東大入学に桜散ってから

別人になってしまいました。

屋敷も、お金も、女性も、名誉も、地位も、。。。

生きるために必要になったみたいでした。

本来は、ぢんな人だったのでしょうか?

目的にしていたものが、、、無くなった、、、

仏教に「四苦八苦」とありますが、、、

喪失感に耐えるには、、、奥さんの膝が逃げ場だったのでしょうか?

東大ばかりが、、、大学ではないのに、、、

こだわり、、、執着。。。欲望、、、人は、もっと

大河の一滴になって、、、

流れのままに、次の出会いを、、、大切にしてほしいと思いました。

やがて、、、医師免許を取得して、

新しい人生観に出逢ったのでしょうか?



急に妹が邪魔になったみたいでした。

私にしては、義姉が出来るのはうれしいことのはずなのに、

まだ、高校生だった私にとっては

兄や兄嫁と付き合っている暇は無くなっていた。

東京大学という、、、自分の研究したい何かに向かって

夢を追いかけていた兄が、

私立の医科大学に進学して、父の後を継ぐ人生を決めたとたん。。。

結婚!!!、、、私には

短絡に思えたが、

出会いは時を選べないから、

なるようになって、、、私は最も邪魔な

小姑の座に鎮座する、、、目障りな存在となってしまった。

父は、優しかった、

近くのお寺の松を見に行こうよ、、、と

診療時間の休憩の時間に父と二人で

松を観に行った。

「御覧よ、、、松は、たくさんの支え棒で

美しく立っているが、、、松の木だけでは、枝は皆折れてしまう。」

父は、、、兄夫婦の横暴なやり方を、

支えてやらねば、、、あの夫婦は、、、立てない、、、と

言いたかったのかもしれません。

それからは、私は吹き流しのように、

全てを聞き流しながら、、、

松のつっかえ棒にもなれる条件で

自分で生きて行ける資格のとれる大学を絞り込んだ。

高校の先生は、千葉大学の薬学科を勧めてくれた。

受験番号125番

一番に来い!、、、良い番号であった。

前の日に千葉大の近くの旅館二泊まるからと家族に伝えた。

兄は、早朝、国道を行けばすぐだ、、、泊まらなくっても
お兄ちゃんが送ってやるから、、、と、

約束した。

しかし、、、早朝、

兄は起きてこなかった。

自分の事は、全て自分の責任で受験するべきだった。

舞い上がって喜んだ縁起の良い受験番号125番は

受験前の準備段階の甘さで、、、欠席という

予期せぬ出来事に、、、私は茫然となった。

それまでに、私立をいくつか受験してあった。

本命の千葉大受験の時に

心が平常心のまま受験に臨めるようにと

あえて、年子の一つ違いの兄が受験する大学は

お供のつもりで受験していた。

いくつか合格していたおかげで

浪人はしなくて済んだけれど、、、

その時以来、、、兄は嫁さんのご主人であって、

かっての、優しかったあのではないことに気が付いた。

大きなリスクはあったが、
大学院までは、望めない環境であることも

その後気が付いた。

医学部に居た兄には、

戦争で、ボロボロになった父は、短命だと気が付いていたのだった。

千葉大の合格すると、、、下宿になる。

家から最短距離の25分で通える日大が最高の大学だと

兄は言った。

なんのことはない、、、

兄が医学部で、妹が日大の後輩になるという

兄は、初めから、女性一人下宿に出すことを

阻んだだけであった。

千葉大の医学部に行きたくて

旺文社の電話帳を10年分研究して

数学は、出るだろう順番も推測がついた。
理科は物理と科学を選んだ。

国語は地震が有った。

ありおりはべり、、、いまそがり、、、

理科は日本史と、、、現代社会、、世界史はやめておこう、、、

推敲に推敲を重ねた原稿用紙のように

答えを書く順番まで決めた。

そのころ、、、兄は、進学するなら短大にするか、

女子大にして、卒業と同時に嫁に行け!と言い出した。

4年生の大学なら、、、行ける!

千葉大学は薬学も素晴らしいと思った。

園芸部があるから、薬草の研究もできる。

医学部に拘らずとも

薬学部には、薬理や生化学や、生体の宇宙の研究もできる、、、

私は、現役のうちは薬学の方が入学しやすいと考えて、

医学部は、中止して、もし、浪人するなら、医学部に願書をと考えた。

迷い迷い、、、確実なところをと思い

薬学部に願書を提出した。

私にとったら、、、本命だった。

前の日に、旅館に泊まり、アクシデントを避けるべきであったと

自分の甘さに、、、愛想が尽きた。

兄を恨む気持ちにはならなかった。

自分が、国立を受ける資格は無かったと反省した。

国立を受験して、研究者になるという基本が無かった。

自分の甘さに愛想が尽きた。

日大理工学部は付属高校の試験が済んでからの

少数応募の闘いだけに

実質は30倍以上の激戦になっていた時代である。

大學の指名した代表幹事に任命されて

クラスメートと教授の間の事務をさせていただきながら

学力はともかくとして、

多才なクラスメートの生き方に

影響を受け始めてからは

世の中は、いろいろだと思い始めました

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父の話を思い出すと

学問だけではなくて、

いろいろな生き方を

これから学ぶことの大切に気が付いた時期でした。

思うようにはなっていたかもしれません。

はたのあきこ、、、という美形の雑誌の原稿を集める人が

借家に住んでいた有島文学の担当で、

べレ^棒をかぶって、モダンなスタイルの美人だったと言っていました。
ある日、、、文学者にありがちな

恋の道行で、心中してしまったのが、ショックだったとか、、、

父は、晩年ぽつりぽつりと、、、幼いころのことを話し乍ら、、、

子供たち皆を信じてるから、、、と、言っていた。




ちなみに父の言葉から聞いた著名人の本は

たしかに、、、素晴らしい作品ばかりです。

番町文人道りは、

父の青春時代の足跡が感じられる街でした。

父から聞いた著名人の日常の話は、

貴重な記憶の日記帳です。

ちなみに、、、今の若い人は知らないかもしれない

当時の著名人の事を

父と母は、楽しそうに話しながら、、、

その、作品の印象に残った言葉などを話してくれましたっけ。。。!!

島崎藤村、、、破壊やリンゴの出てくる詩。

藤田嗣二、、、画家の数奇な運命。

有島武郎、、一房のブドウ(ひとふさのぶどう)

  生馬

菊池寛。。。山国川をさかのぼって、、、恩讐のかなたに

そのほかにも

中村吉右衛門

市川歌右衛門、、、ご存じ!!殺陣の華ある面白さで一世風靡

         私は、お子様の欣也さんの銭形平次に目下夢中です。

串田孫一、、、皆の方がご存知でしょう。
網の菊
川喜多半泥子
直木三十五
里見、、、
武田麟太郎
里見惇だったか?弓へんだったか。。。?

そうそう、、、与謝野晶子の、

弟よ、、、君,、死にたまうことなかれ、、、

この詩は、父が暗記していて、

終わりまで、きかせてくれましたっけ、、、!!

当時は知らないと、、、潜りだったそうな、、、

有名な人だったと思います。

おまけに、いつも遠くからとはいえ、

父の若き日に歩いた道には

ローマ法王庁の大使館がありますよね、、、

戦前は、借家を持っていたという父の実家も

戦後は、帰るどころではありません。

国の命令だったとはいえ、

戦場の傷や、弾痕傷や、外科の出番の多い中で

大陸の現地人の医学は役に立たないことがほとんどだったそうです。

イギリス医学を学んだ父が、

軍隊の、質問に対して、「外科です」と答えたことが

戦地近くの現地の大学の教官として、

現地の外科医の指導の命令が有ったとのことですが、、、聞いた話です。

現地の医局には、

外科の医局が無かったような、

有っても、、衛生観念が未発達で

役に立たなかったらしいです。

日本からの日赤の看護婦さんは

素晴らしい精神力を発揮していたそうでした。

父も戦場ではイエス様の立ち姿を見たと言っていました。

戦場は砂漠以上の精神の枯渇だったことでしょう。

イエス様のお姿が、枯渇した心に。。

心に一杯の水を下されたのかもしれませんね。

敵も味方も区別なく、助かる見込みのある兵隊は

国に巻き込まれて戦っているのだから、

敵味方なく手当てをして、心も身もボロボロに働いたそうです。


提灯袖で、

コックさんのような帽子をかぶった看護婦さんに囲まれて

真ん中で、

白衣を着たひげもじゃの医師が、、、

父だそうです。

なるほど、、、眼が二重で、、父の瞳に間違いありません。

その写真は日の丸の旗と、海軍の朝日のような日の丸の旗に囲まれ

戦争の緊張感が漂っているのが伝わってきました。

父の後を継いだ長男の院長室に

額に入れて飾られていましたが

私は、財産等は一円もいただきませんでしたが、、、

大学時代にお世話になったのが、、、遺留分と心得て

兄のすることには、、、ご無理ごもっとも、、、と

蚊帳の外に控えていた妹でしたが、

兄きの方からの侵略はしばしば、で

妹は、兄嫁の、部屋付き腰元のような扱いで

一日も早く、、、独立するか

父に代わる、外科医と結婚して、

兄と対等に、経営の両輪になるかだと

厳しく要求を突き付けられながらも、

一人娘、、、三人の男兄弟、、、

長男命のような母。

腰元の扱いの娘。

私の前の、バリケードとなった叔父さんの娘の三姉妹。

私が、母に用事があって、母を呼んでも、

三姉妹が、間に入り、

母は、娘より、姪っ子が可愛いのか、、、

ドレメに通わせていた長女は

特にお気に入りで、二人して生地を選びに

銀座のマギーや、

戸越銀座までも出かけていた。

この三姉妹は、

戦後に合流した母の弟の華族であったが、

皆、セレブになっている。

母の趣味と合ううと言えばよいのか、、、

理科系の、もっさりした娘はお呼びではなかった。

大学というのは、

どこどこ大学というよりは

専攻した科が、、、心をつなぐ出会いがあるのかもしれません。

早稲田、慶応も有名ですが、

同級生は、高校時代から「高分子化学の研究をしたいと言っていた。」

横浜市立大学の医学部と、北大の理類に現役合格して

念願の高分子の研究のできる北大に進学した。

姉さんが専修大学に行っていたこともあり

両親は姉が見れる実力と信じて

故郷の東京を離れて、札幌入りしたにだろうと

私は、、、彼の生き方も、ビジョンがあっていいなーと思っていた。


兄は東大に受かると信じていた時代が有った。

私に一緒に東大の中を見学しようと言って

三四郎池に行ったことが有った。

しかし、開業医の長男の兄は両親の盾でもあったから、

東大に入りさえすれば

開業医の息子として、後を継がなくてもいいと思っていたようである。

研究をする、自分を想像して、

妹の前で、此処に入りさえすれば、、、世界への門が開かれる、、、

誇大妄想の夢を語っていた。

しかし、、、入学合格所の代わりに

「桜散る、、、」の知らせが来た。

兄は布団から、一日中出てこなかった。

結局、私立大学の医学部を卒業したが、

がんセンターに通いながら

胃カメラの指導医になり、大病院に勤務医として出発した。

兄の時代に、実家は売られて、閉院してしまったので、

私が実家にたどり着いた時には

ブルによってひっくり返された、土に、

父母が大切にしていた、、、

正月だけみんなで囲んだ

柿右衛門の、、、父の御自慢の皿が

割れて、、、土に刺さっていました。

言葉も出ませんでした。

受験で東京大学に敗北した兄は

研究志向の人間だっただけに

臨床の開業が、、、不向きな性格をしていたのでしょうね。

開業しながら、医師を頼んで、

自分は国立がんセンターに研修に通い

胃カメラの指導医の資格を戴いて

せっかくの父の残した医療施設は売ってしまいました。

税金が95パーセントになったと言いますから、

親から譲られた医療施設は、法人にして、

兄弟に、医療施設のまま譲れば、、、

実家は残ったのかもしれませんが、

私たちほかの兄弟には相談が無かったので、

どうなってしまったのか、、、寂しい限りです。

後で、、、聞いたことですが、、、

旧い建物の維持は、

買うより高いから、処分したと言っていました。

東大を狙う!

東大を落ちる!

せっかく、臨床医としては

日本一になれる私立医大に合格したのに、、、

若き日の、自分の夢が忘れらずに、、、

医学部の学閥や、医師会や、学会

そして、研究部門の大学の医学部、、、

開業の父母を背負って、

主婦が、社会で、仕事をするような

中途半端な位置で

父の残した財産を燃やしながらのステータスの維持にも

泉が尽きる如く、、、

家を売らねば、嫁さんを守れないという

嫁さんの痴呆の始まりの現象が見えたとき

痴呆はいかに、、、周りのエネルギーを食うかという事が

女房がなってから、、、わが身の処し方に困惑したのだろう、、、

実家は売られてしまいました。

私が、、、主人とともに、実家を経営していたのなら

法人にして、地域に根差して、要介護のできる病棟も作り

母も兄も、姉も、主人側の兄も、義妹も、

長逗留できる、、、サザエさんの家のような病院をつくり

父の残した、240坪の東京都の土地は、地域の老人の不安を無くす

ゆりかごから、ご臨終まで、かかりつけ病院医師☜として、

私はそこで、雑用事務も一手に処理できる薬局を対面に創り

そこで、父と一緒に居るつもりで、

実家の大切な外郭の一人として

薬局長になっていたかもしれません。

国立大学に合格できなかったとしても、

生き方ははいろいろありますから、

横光利一の「蠅」という作品を、

サイド読み返してくだされば、

一度しかない人生を喜劇と思って

じっくりと、、人間を味わえる時間をつくるのは、、、

実に、、、生きてる、、、証拠だと思うんだけど、、、

兄にとって、東大がすべてだったという

刷り込まれた心の貧乏は、

父の残した240坪の東京都の土地が燃料になっても

俺は、、、俺は、、、と自分を持て余している姿が哀しい。

兄は81歳にして英検一級をとりました。

東大に入学するためには

15歳で、英検1級でも、、、どうでしょうか?

私は十代の時英検二級を合格していますが

その後は、英語を勉強していません。

オードリーの映画なら、英語のまま聞き取れます。

英語ニュースも、語彙には苦労していますが

英語のまま聞き取れます。

もう,自然に任せて活きることにしています。

東大にこだわり続けて、「道化」をさせられたような人生には

悲しみしか、感じませんね、、、。

受験は、大学にこだわらずに、、、

自分の成長に合わせて、柔軟に

数多ある道を楽しみながら、、、

細い道でも、原野でも、、「気づき!!」が大切ではないかと、、、

私自身、こだわった欲望は、一切捨てて、

その時々に、最高と思える努力をしながら、

孤独に強くなることを、意識しながら、

大学という、、、マジックの世界に

落とし穴が見える年になりました。

受験生に、孤独を与えないシステムに切り替えて、

受験は人を育てるマジックになってほしいものですね。




いろいろなことが、

津軽海峡を隔てて過ぎてゆきました。

主人が札幌に住むと決まった時点で

外科医を連れてくるはずの私は

ミイラ取りがミイラになってしまいました。

学閥というのは、生活が懸かるだけに

主人は「必ず二人で東京に帰りますから、、、」と

母の了承で、私は実家継続と、母の為に、結婚したことが

若さの無知から、、、

医学部の学閥を認識できていませんでした。



北大の臨床医の舞台は北海道だったのです。

さもなくば、、、超優秀で、ハーバードぐらいに留学して

日本全土に通じる医師にならなければ

津軽海峡は海よりも深く広いという事でした。


七年間も、家賃の半分を稼げるのがやっとの

大学院生活が中退の後、終了となったのは
博士号が取得できたときでした。

主人がが博士号を取得すると、
大学にきちんと居場所が出来て


医局長、講師、、、そして、
北大医学部の卒業生の創立した病院へ

研修病院の指導者として、医局人事によって

北海道にはなくてはならないドクターヘリの飛来する救急病院の

外科のスタッフとして、4人で頑張る運命が来ました。

外科四人で、、、全科そろった五〇〇勝以上の救急当番のある

患者さんを受けてゆくのですから、、、

創生期間もなくといえど、、、開業医さんに頼っていただくためにも

主人は、、、住処は、、、病院のような毎日でした。




家内も、子供も、、、お父さんは居ても、留守ばかりという

父の存在だけで、守られてはいても、

実態は母子家庭に類似した生活でした。

母にとって、私にとって、

一般の人にわかりやすく伝えるとすれば

学閥というのは、地域第一の医療の病院を守るのに、

出来上がった外科医を、東京に行って、即戦力にするという事が

出来ないという事でした。


主人は言いました。

僕の生きる仕事場が、医師の家庭であって、

医師以外の時間の家庭が、、、、

私と子供の居る華族の家庭であると。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

私は割り切りました。

主人は社会からは評価さっる慕われる医師だとは思いますが

医者バカであると、、、私は主人を医者バカの棚に分類して

医師をすることのサポート以外には

興味を持たないことにした。

国会道内では一番の国立大学を卒業した以上

主人は、北海道という地域の所有とみなすのも

ストレスからの回避になった。



もともと、契約結婚のような事務的な動機の結婚だっただけに、

私の仕事は、実家の立て直しから、、、

大きく進路変更になりました。

夜中に帰り、早朝出かけたり、

4人で守る巨大病院の外科は、

土日に帰ってくればよい方だった。

長男の作文には、、、こんなことが書いてありました。

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お父さんは居る。

でも、、、お父さんは居ない。

お父さんはめったに会わないが

家を守っている神様だ。。。

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連れてくる友人は、片親だけの子供がほとんどでした。

私は、2階の主人が居るはずの部屋を開放して、

おにぎりをつくっては、、、子供たちと

その友達たちと、話をしたり、

笑ったり、胸がこみ上げてきたりしました。

多いときは十四~~五人の学生のコンパの部屋でした。

手塚漫画で部屋は子供の部屋と見間違う漫画を集めていました。




家庭で、独りぼっちの育児は、知恵の足りない、

困ることの多い手探りの母親役でした。


子供の成長期に、理解できない反抗期もありました。


100時間の、カウンセラー養成の講習にも出ましたが

卒業の論文は受け取っていただけませんでした。

5万円で、100時間は格安の講習会だと思いました。

習ったことは、びっしりとノートに書いてあるし、

ロジャースの本も暗記するだけ勉強したし、、、

視点が広くなりましたが、

どういうわけか、、、私の卒業論文は、講師の先生には

却下、されました。

理科系の視点では、カウンセラーには向いていないという事が

解っただけでも、、、

子供たちの心を理解しようとした試みは失敗に終わりました。

「心」  心、、、こころ、、、

夏目漱石の「心」を買ってきて読みふけりました。


文系の視点が、理系の私とは、違う事にも気が付きました。

それからは、カウンセリングよりも、

精神医学の本を読むようになりました。

主人の大学の教科書だった諏訪先生の「精神医学」の教科書を

何度も何度も、読みました。

ビリーミリガンの本も、心を知るには役に立ちました。

人の心は、、、本当に難しい、

仏教に、四苦八苦というのがあるが

兄のように、、、東大に悲願という?

理解できないコダワリノお化けもいますし、

東大の受験で敗れた心も、、、その一つであろう。

受験に敗れて、

「基礎の常識」の「学門以前の問題」で落第して

希望の学門に門前払いされるというのが

現代の日本の、

公立大学の受験生の心であろうと、、、想像している。



「苦」を体験した人間が、どこか違う場所に行って
「苦」を吐き出すか、、、

他の人間に「苦」を与えるという

アイデンテティの確認をするという、、、

人間の弱さがあるのではなかろうか?




戦後の貧困の中で、主人の母が、向ヶ丘公園に行って

普段、、、食べられない御馳走を、

3人の兄弟と妹にふるまったとき

主人は、子供ながらに、

普通ではない空気を感じて

母に言ったそうである。


「母ちゃん、、、僕は医者になって、母ちゃんに楽させるからな、、」


お母さんは、涙を流したそうである、、、


主人も、私の弟も

国立の医学部に合格できたのは、

ハングリー精神のおかげかもしれませんね。

私の弟も、受験前に父親を亡くし、

ハングリー精神で、
末っ子だけが国立一期校の医学部を卒業しました。

上の三人は私立大学です。


その証拠にはならないかもしれませんが

父親が、留守同様でも、

ハングリーとまではならない健在ですから

息子は二人とも、私立大学の卒業ですよ。

受験とは、、、ハングリー精神。


受験とは。自然体で、知識や学問に興味があり、

ご飯のように勉強が好き。

見栄や、競争心のかけらがあっても、、、

国立大学はむつかしいですよね。

親に言われたり、強制されたり

知識の詰込みでは、、、やっぱり受験は突破しにくい。


広い巨視眼と、自分なりのたしかな「ヴィジョン!」

健康を守れる日常の心身のバランスのとり方の習慣

やっぱり、、、

ハングリー精神に負けないで

第一希望に命がけで挑む。

それには、TVも、ラジオも、小説も、音楽も

、、、、フウテイに相当する、、、と思うから、

知識の津波に流されない高台に立てるだけの

日本の大学の要求する模様が

山の上から見えるまで、

鳥瞰図的に、問題の座標が見えるまで、

リラックスした見方も必要に思ったりしています。


大学に合格したらおめでとう。。。

落ちたからと言って、

居場所を見失わないで

自分探しをしながらも、、、体造りを欠かさないで

結構な精神をもって、来年は

滑り止めもしっかりと用意してください。


斬鉄剣というサイトが、ずーと昔ありました、

その中に、「浪人時代の思い出」という

コミカルな二浪時代の受験への目覚めのような

晩稲の青年の体験随筆がありました、

作者が、

最後まで〉大切にしていた言葉が思い出されます。

「合格した奴は、、、すべからく、、努力をしている。」
「至誠天に通ず、、、という、、、故人の言葉!」

そして忘れてならないのが、、、、健康維持の

1時間ごとの、体操です。

ドリフターズの名言に、

「歯」を磨けよー!

受験生の皆、、、とりわけ、、、わが孫よ!

風邪ひかないよーに!

   婆ちゃんの、思い出話を、、、、5月過ぎたら読んでね!





いつの間にか、、、話がそれてしまいました、

孫が受験です。

頭のハンドルが、、、気が付くと、

受験の柱の前でエンストです。

心の不思議の書かれた本は、

私は中学時代に、

一番先に探し始めた本たちでした。

人工知能の時代に

心の在る学生を合格させてくださいね!

日本の未来が、みずみずしさを保ち続けるためにも

アナログの細胞のある合格者を期待している。

主人は世間から見ると、ご期待に応えられた医者バカですが

舞台裏の相棒の家内から見ると、

日本の受験時代の洗脳が年老いても効いているのでは?、、と

「医者をすることだけが人生の道と思ったまま、、、

他の面には無関心な、、、不思議な世界に生きています。


一流大学に入ることも道かもしれませんが、、、

自分のビジョンを持って

大学にこだわらずに、

行きたい道に通じている先生のいらっしゃる大学を目指すのも

おっとりした人格になれるのではないでしょうか?
一度しかない人生を幸せな心で楽しんで頑張るようにしてね!

茶の間の婆ちゃんでした。

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