誰でも、、、思い出はあると思います。
早すぎた出会い!
学生時代には、華やかな出会いがあるのは、、、若さの力!
香しい時代に、
自分を仕上げなければならないのが日本の若者事情でしょうね。
中仙道の江戸時代をそのまま見るような、、、
不思議な自治体の力、***そして世界遺産への道へ***歴史は残ってゆく。
首都とはなったが、
江戸は
ビルのコンクリートジャングルに変貌。
世界の最先端の人工頭脳をスパコンでコントロールしながら、
いつしか人工頭脳の設計に沿って
人工都市として集約してゆくのではなかろうか?
私は小学校から大学まで、
未来の人工都市東京で過ごし、世界に目覚めてゆく日本を感じながら
とりあえず、英語で考える合理差的な考えを目指していました。
本来は、
小説を読んだり、日舞に没頭したり、花を育てたり、絵をかいたり
普通の日常の中に、感性のレセプターを働かせていると
時間が足りないと思うような、空気が愛しくて、
何もしないでいる時間が性分に合っていました。
朝顔が咲いて、ヒルガオが咲いて、夕顔が咲く時間に
家族が集まり、団らんする、、、。
全て戦争が日本人を変えました。
男の子3人兄弟の中に
、女の子が一人、、、、
戦争の生き残りの4人兄弟姉妹という、
せちがらい生存魂の潜む、、、復活に向かって切磋琢磨の世代です。
戦後の団塊の世代でした。
「働かざる者喰うべからず」の一徹で、
世の中は頑張る人ばかりでした。
昭和38年、運のよいことに、学業だけはスムースに覚えられる性分でした。
お茶大附属高校か、教育大付属高校を受験して
女医になろうと思った時期がありました。
希望が大きいと、馬鹿力が出るもので、
中学校の先生は、受験を許可してくれました、
蛍雪時代から、
未来の夢を語る座談会に、学校の代表に出席を求めてきました。
中学校の担任は、私に出席をするように言ってくださり、
各学校の代表との座談会に参加させていただき、
インタビューに答えてゆくのですが、、、
さすがに、皆、頭脳明晰で、すごい、、、と感じました。
あの生徒たちを敵に回して受験をするのは、恐ろしいとも感じました。
しばらくして、家に帰ってから、
教育大付属の受験用紙に、必要事項を書き込んでいると、
兄貴がやってきて、、、「何をしている?」と問いかけてくるので
中学で、アチーブテストを800点越えした生徒に
担任が、「附属高校を受けてみる価値あるよ、、、」と
願書をくれたから、、、
受かるかどうかわからないけど
やるだけやってみようかと、、、
願書に記入してるのよ、、、」
兄貴は、書きかけの願書を取り上げると、
「教育大付属は遠いんだぞ!、毎日毎日、東京横断の交通費かけて、
時間かけて、未来は人の奥さんになるお前が、、、
なんで余分な時間と金かけて、、、野心に燃えてるんだよ!
女らしく生きられないのか!、、、こんなもの!、、、
隣に都立小松川高校我あるだろう、、、
そこで、一番とって見ろよ!、、、なわばり違いの、、越境だぞ!」
人がせっかく、、、
試しに受けようと書きかけた願書を
びりびりに破いてしまいました。
戦争中の昭和11年に生まれた富国強兵時代に、
叩き込まれた精神は、、、女性は銃後で貢献せよ!でした。
学徒出陣した叔父さんが、28歳で早稲田大学の理工学部に再入学して
東京都の公立の教諭を経由して、女子大の教授になっていました。
大学受験のころは、ミカン箱いっぱいの女子大学の
しかも、、、
短大部の受験資料を持ってきた兄は、言いました。
「良いか!女性は、白百合大学、とか、ぽん女、とん女、とか、跡見とか、、
嫁の貰い手のあるような大学に行くもんだ!、、、」
たしかに、、、ミカン箱には推薦状で行けそうな、、、
良妻賢母の品の良い奥様になりそうな
女性が第一志望にするような
女性の名門大学のパンフレットがぎっしり詰まっていました。
ズックにソックスをはいて、制服一着で過ごす妹が
むさくるしい、、、ブスに見えたのでしょうね!。
兄の気持ちもわかりますが、、、私には、、右手にやけどの傷がありました。
家族は、、、気にしないのhわかりますが、、、
結婚を目標に生きるよりは、
右手の火傷を、、、、かくも見事に治癒させた医術のすごさに魅せられていました、
Zカットのむった傷跡はよく見ないとわからないほど自然に見えました。
3歳の時の右手の団子を覚えているだけに、
ピアノが弾ける右手に復活させた、父の外科医の腕が
自分も医師になって、ベストな状態で人が生きられるように
役に立つ人間になれたらいいな~~~と思いながら、
ペンも右手で持てるようになったときから、
お嫁さんになりたいとは思わなくなった。
しかし、、、兄は8歳まで大陸で過ごしている。
なぜなら、、、医学部で英国医学の外科を取得していた父が
軍医として、外科総合病院の院長という立場で
戦争の為に倒れた傷病を治癒させられる西洋医学の指導にと
戦地に近い大陸で8年間も滞在していたからであった。
待遇は良かったものの、戦争中の外国の暮らしは大変だったと思うのです。
弟妹や父母にも、過剰なぐらい長男として役割を果たさねばと、、、
責任過剰に育っていたように、
妹の私からは、、、自意識過剰に思えて、うっとうしかった。
しかし、、、当時は
長男がダントツに家の中では権力も、信頼もすべて独り占めの時代だった。
妹にも、弟にも、、、おせっかいが過ぎていた。
「真っ白な、リボンのついた白いハイヒールを履いたら、似合うよ!」
本当に、、、買ってきて、それを履いて、
兄嫁に銀座で服を選んでもらってきなさいと、、、言った。
ハイヒールは、歩きにくいし、嫌いだったけれど、
兄と、兄嫁には逆らえないので、、、仕方なく、銀座に出かけました。
学生結婚していた兄夫婦は、
学校祭のダンスパーティなどにも
夫婦で参加しては炎上していたから、、、
兄嫁は、、、
セレブの趣味に偏重していたので、
私は、
気が付かないふりはしていたが、、、常日頃から、、、
趣味が違っていた、
ことさらに、女性であることを強調した洋服も帽子も、眼中になかった。
何かを任されて、私でなければ出来ない、、、と
必要とされる居場所を求めていたような記憶がある。
勝気とは異質のもので、、、人に命令されたくないと思っていた。
大学の薬理の教授が、勧めてくれて、
国際人の集まる東京大学への就職が決まったとき
東京大学受験に、2年も続けて失敗した兄は、
猛反対をしたが、、、「中側から、、、観てくるだけだから、、」と、
円満に説得をして、大人同士の時代へと主張を通した私でした。
スパコンを操る学生の集積。東大に勤務した、
父が大学に在学中のとき早逝した後、
兄は、、、パニックになりながらも、、、外見は普通に装って
未亡人になった母や弟妹や、地域に貢献していた医療施設を一気に引き受ける羽目になった。
大学卒業直前から、縁談を持ってくる兄に、私は閉口していた。
独立しよう!!、、、ひたすら、障害物の兄を避けるようになった。
大学は卒業した、、、、が嫁には行きたくないと思った。
国家免許も取得した、
しかし東大では、薬剤師の免許証書は不要であった、
大学を卒業の時、
薬剤師免許に付随して取得できる
もう一つの国家免許の「衛生検査技師」のスキルが役立つ職場だった。
大学院や他科の臨床部門からの出張研究の先生方の分析データーの実験の助っ人?
教授の研究の単調な手間暇ばかりかかり、だれがやっても同じようなデーターの測定を
ガラスケースの中で鼻息をも、、、邪魔になるミクロの検体を測り表にしたり。
炎色反応を利用したコンマ4桁以下の元素の分析と計算。、、、だとか。
犬やハムスターや、
ヌードマウスに薬物を投与した後
各臓器のスライスを水浸して析出した元素を分析するために
10倍から100倍、時には1000倍の希釈液を作り
フレームの炎色反応を使って
「分析することで、動物に与えた薬物の分布を濃度別に作成するというようなじっけん。」
使った実験動物は、地下の動物小屋で、
メイトサセテ、、増やすという合理的なサイクルを請け負っていた。
今から考えると、、、精密分析器のない時代の、
人間機器分析機械の仕事だった。
30歳半ばまでひたすら実験室で
機器分析機械の代行をしていた先輩薬剤師が
見合い結婚することになり、
急きょ空席で、データーをとれる薬剤師で
即戦力になれる新卒の求人が要ると、
大学の薬物学教室の教授に求められてきた。
大学時代に父親を亡くして、
すでに奥さんの居た兄貴のパワハラで、結婚しろと脅迫されるよりは、
一日も早く就職しようと勤務先を検索していた卒業まじかに、
卒業旅行の計画があり、
家庭教師のアルバイト等もしてはいたモノの、、、
卒業期には物入りで、兄にお金を貸してほしいと申し込んだら、
卒業旅行は行く必要がないだろう、、、、と言われて、
借りだしは失敗に終わり、
断腸の思いで、
ひとりだけ???かな、、、参加しなかった思い出が、今も悔しい。
実験室に飛び込んで、一人実験をつづけた、
所属していた薬理学部活の教室で、
成長ホルモンが血糖値に何らかの影響を与えるのではないかと思い
牛の脳みそをホモジナイズして
成長ホルモンを抽出して、
大きめのラットに投与していたら、
担当の教授がやってきて、
「面白そうな実験をしてるね、たぶん、成長ホルモンは血糖値を動かすよ、、、、。」
教授は指導してくれたあと、東大に、結婚退職する技官が居て、欠員ができるから
就職が決まってないのだったら、東大の実験室を体験しておくのは勉強になるよ、、、」と
肩ひじ張らずに、気楽に「どう?、、、」と。再度、、、進めてくださった。
実家の兄は、私の顔を見るたびに、
「嫁に行け!」とパワハラだ、!!
二つ返事で、
「勤務してみます。私ごときが通用するかどうかわかりませんが、、、
実験のデーターをつくり、自分なりに考察を書くのが好きですから、行ってみます。」
そして、
研究の怪物の住む東京大学の薬理学教室に、、、勤め始めた。
身分は技官。
公務員であった。
月給は臨床薬剤師の三分の一ぐらいで、
学会前などは、
データーが出来上がるまで勤務するので、
暇なときは暇、、、暇、、があり、
自己研鑽の学門まがいのコダワリノ自習時間がオイシク思えた。
なるほど、、、気が付くと
30歳半ばになりそうな職場に思えるほど、
相対時間を感じさせる何物もなく、技官に対しては
先生方は空気のように刺激をしない物腰の柔らかさで
、実験を任せてくださった。
実験室の片隅では、コケだらけのガラスケースの中に
オレンジ色の金魚が現れては、
重そうに、、、腰を振ってコケの中に消えてゆくのだった。
3か月目!!!寿退職のはずの、、、
辞めるはずの先輩が、、、、破談!
「22歳の私に、
「再就職は極めて困難な自分に代わって、私の方に辞めてほしい、、!」
30歳過ぎた薬剤師が再就職したくない気持ちはよくわかる。
毎日、、、
「お願い、、、」と言われているうちに、
いきなりだと、先生方に悪いから、
あと、半年!、
今やっている「酵素」の腎臓内分布のデーターが出来上がったら、
基礎実験は一段落なので、
薬局という本を出している大学の模範薬局に
研修生として、半年、
臨床薬剤師のノウハウを身に着けてから、
臨床に移るから、
半年間、ここに居て、まずは先生に言わなくっちゃ、、、。
11月になるころ、
私は大学病院の薬剤科の無給研修生として
地下の製剤業務の、
蒸留水を再度蒸留して
院内の輸液をつくる無菌操作から始まった。
実験室に居たことが役に立って、
研修はどんどん進み
運の良いことに、
一か月過ぎると正職員に成れて、月給がもらえた。
この時は、久々に、、、
うれしい!日であった。
同僚と労音に加入しては、演奏会に行くのが楽しい週末で会った。
30歳前後になって、
一人前の薬剤師になれた頃、
主任さんあたりの身分を嫁入り道具にしてで、
結婚してゆく人が、、、いましたよネ。
結婚は、、、薬剤師を辞めて、
子育ての人生が始まりますから、、、
技術を取得してから、再就職できる腕前になってから、結婚するという計画です、
腕に自信のつく30歳前後までは、
ほとんどの薬剤師は、独身だったように記憶している。
一歩間違えると、婚期は40歳前後となり、タイミングが難しかったようである、
再就職した大学病院の臨床薬剤師の仲間の一人は
小松川高校の同じ学年の薬剤師も勤務しており、
薬局内の男性薬剤師のエースとゴールインして、
ちょっぴり、、、羨ましいお似合いだった。
研究室よりは、はるかに、刺激の多い環境でした。
私の場合、、、
兄貴のお嫁さんが、すでに、我が家に同居しており、
名門短大を花嫁道具に、自分にしか興味のない女性に思えたから、
義姉とは、接点がなくて、喧嘩することもなかった。
会うたびに、、、出て行け、、結婚しろ、、、と、兄貴は焦っていた。
毎日のパワハラで、30までは結婚しないと誓った心も、
兄貴の持ってくるお見合いには閉口してしまいました。
義姉とは恋愛結婚なのだろう、、、たぶん、、、
学生結婚反対する父母を押し切って、二十歳の短大生は、、、私の部屋を取り上げた、
ともかく、、、
24歳の薬学イケイケ時代なのに、激流に居た無給医の病気にかかわったために
天は、一過性の彼の難儀を知らぬ顔して通り過ぎることを
私には許さないという、、、成り行きの激流につきどらしてでも
結婚という運命に逆らえない状況を与えてきた。
戦うことに、恐れを知らなかった南国生まれの私の戦場は
冬の留萌から始まった、
結婚とは、、、生きるための戦いであると思った。
無給医で、国家試験ボイコット時代の、、、ホームレスと紙一重の
悩める、、、手の打ちようのない、、、サバイバルの中の病人と出会ってしまった。
恋を選んだ同級生が外科医と結婚するから
友人代表で挨拶をしてほしいと、、、
再三、電話が着て、
東京で勤務中の私には札幌に行くのは無理だからと、、、断った。
最後には、旦那様になるという外科医から電話が入り
それでも、ゆけないものは行けないと断ったが、
お母さんを電話に出してほしいというから、
母と代わったら、、、札幌には後輩の護衛をつけるから
ヒコーキ代も、宿泊所もすでに支払い済みで予約してあるからと、、、
母が説得されてしまった。
勤務先には、有給休暇を申請して
幼馴染の、、、やがては30歳過ぎたら、、、結婚しようと話し合って
恋人未満ではあったが
家族ぐるみの知人で、母も家族も認めていた、、兄より、、、兄と思っていた人が
仕事の調剤を作り置きするからって、真夜中のオーロラ便で
札幌に行くなんて、、、むちゃくちゃだと、
真夜中の2時まで、空港に見送りに来てから、、、言った。
お土産はいらないから、、、挨拶が終わったら、とんぼ返りしておいで、、、と。
しかし、会場で、隣の席にいた、新郎の後輩の外科医の卵が
式の後、病気で、
かかわらないわけにはゆかない状況になり、
大学病院前の共同住宅に送ってゆき、病気の看病をする羽目になった。
その年の夏休みに上京してきたその男性は、
私の頭ごなしに、母と会いたいと言って、
父の亡き後の、内科医だけの診療所には
外科医が必要でしょうと、母を説得した。
母は、、、早逝した父が若返って、家に戻ってきてくれると
喜んだ。
博士号を取得したら、私も父母の為に
東京に帰らねばと思っています。。。。
殺し文句で会った。
診療所に外科医を雇用することはむつかしすぎる。
向こうから、、、我が家に入ってくれるというのだから、
母も、兄も、彼を向かい入れたのでした。
東京から、北海道の、家なし、車なし、車の免許もなし、
奨学金返済のてんこ盛りの負債付きの次男の外科医と結婚することになった。
兄貴ばかりが「大はしゃぎでス!!!」
兄嫁も、歯をむき出して、、、おめでとう!!!」
私が津軽海峡を越えて、
遠くに行くことが嬉しすぎるようでした。
小姑って、、、
喧嘩の一つもしたことないのに、
存在だけで、厄介者に見えるのですね?
多くの人は「高島田」のお嫁さんの意匠でとつぎたいでしょう?
私は、、、「家を、出てゆけばいいのでしょう、、、!」と。。。
薬剤師の免許があれば、どこに居ても、何とかなるだろうと、、、
大学卒業の時の振袖を着まして、頭は自分でアップにまとめて、
簡単に、自前のウエデイングドレスで済ませました。
友人も高校からの友人2人と職場の薬剤師仲間と
処方箋をいつも問い合わせていた友人ント婚約者の内科医、
何度もプロポーズしてくれたけど、血縁なので
恋人には発展しなかった従妹。、、、10人ぐらいの知人だけに知らせて来ていただき、
津軽海峡冬景色、、、の、
石川さゆりの歌の聴こえる連絡船で
実家に別れを告げました。
結婚は、冷たい空気に吸い込まれてゆくような、、、
知人をすべて無くすような、、、寂しさがありました。
主人の方も、、、病気で、、国家試験ボイコットの無給時代のあおりで
きわめて、体調を崩しており、
一人暮らしの心細さが、
医師の過程で育ち、医師の兄とピアニストの母の娘である私が
薬剤師の免許で働いている医療人であると認識したとき、
生涯の、片思いの恋人に振られた直後の心が、、、寂しすぎて
看病をしてくれた私を、藁と思ってつかんで、
初恋の人との別れ、、、卒業したのに、クラス全員の国家試験のボイコット、、、
そして、、、無給。
目の前には30歳という年齢。
彼は、、、身近に流れてきた藁をつかんだのだと思った。
そうしなければ、、、孤独に耐えらえない身分なき無給医時代が
恐ろしかったのかもしれませんね。
結婚、、、結婚の動機なんて、、、
甘いものではありません、、、
究極の行き詰まった状況で、、、
清水の舞台から飛び降りる、、、不思議な、、、思いっきりがあります。
しいて言えば、、、父が早く逝きすぎたことが、
何らかのブラックホールを引き寄せてしまい
白鳥は飛べなくなったように
天命の配置でした。
清尉と、努力と、工夫と、勤勉さが天性だったわたしの性格は
気が付いた時は74歳に、、、。
父が54歳で早逝したとき、
高校生の弟は「医師になりたい学生」だった。
長男は、内科医一年目で、外科医の院長だった父を喪い、
怪獣並みにスケールの大きい音楽家の未亡人の母を引き受けて、
ノー天気に自分のことだけ考えながら、東大の実験室に通っている妹が
独りよがりのオールドミス候補一位の妹に見えたのでしょうね。
私自身は、男の子のような性格ですが、
父が亡くなったとき、
大学時代の部活の男子学生が40人も来てくれたのですから、
男子は、そのうち大人になるから、
そのうち、、、ほ~ておいてくれれば、、、
来る時が来て、
結婚する気になれば、出てゆくから、、と言っても、
「今年中に出て行け、、、お見合いしろ、、、まだいたのか、、、」
兄貴のパワハラには閉口した。
結局、、付き合う時間もなかった
時間貧乏の外科医の卵と、
考える暇もなかった薬剤師が、
免許のある二人なら、、、
何とかなるだろうと、、、
二間と物置の3畳の10坪の木賃アパートから、
銭湯に通う貧乏暮らしから、、、
とりあえず出発しました。
博士号を取得するまでは、
3か月ごとに移動する勤務であり、
夫という、
相棒は、そのお金で、
本を買い、
医局費用を支払い、
博士号取得のための実験動物を購入して
余ったお金は奨学金返済と
授業料をし送ってくれた母へと
夫は「台所でも治してください」と。
生活費はほとんど入れないで、
博士号取得に全力をかけていました。
5年後に博士号が取得できると
留学やら、札幌での仕事やら、、、
医局は居場所をくれたようだった。
まともに給料が入るようになって、
はじめての給料日は、
当直を忘れて帰宅して、
満面の笑みで、興奮していました。
このころ、結婚すれば、外科医と結婚しても、
内科医と結婚しても、
普通の幸せな結婚生活になると思いますよ。
とにかく90万円ほど残っていた奨学金を、
何が何でも、後輩の奨学生に回すことが先決なので、
1年間は、家計に入る収入はありませんでした。
風呂のなかった木賃アパートに、
出てゆくときには置いてゆきますのでと、、、交渉して
ほくさんバスオールという
軽量な移動風呂を設置しました。
医師も35~6歳になると
結婚できる実力が備わってきます。
この時期に、留学していたり、病院を巡回して腕を磨いていると
医師は、40歳になり、
気持ちばかり若いですが、
おじさんになって独身という事になります。
我が家の次男は43歳で、やっと
借金もほどほど返済して、
結婚準備に入っております。
医師という職業柄、お世話をしてくださる人々に巡り合えて、
もったいないようなお嬢様が、
お見合いにと紹介されてお会いしています。
永住したいのが伊豆の国市なので、
息子を気に入ってくださるお嬢様も、
伊豆に永住なら、
行きたくないという都会ジェンヌばかりで、
困っております、
伊豆の国市の地元の若いお母さんが
娘さんにくっついてきて
結婚生活の娘の為にと、生活の、ノウハウ教えてくれて
家事も育児もやってくれそうな、おばあちゃんになれそうな
お母さんがいたらいいですね、
44歳になる前に、必ず、
神様は息子の人生の相棒を連れてきて下さると信じています。
医療に生きて、時間貧乏なだけですから、
世の中に貢献できている旦那に、
良い仕事をしているんだと、、、
満足してくださるお嫁さんなら、
毎日、かつ丼や、ビーフカレーぐらいは保証できる月給は
家に入れてくれるはずだと、、、信じてください。
健康で、愛はすべてを乗り越えると信じています。
親から見ると,
良い息子なのですが、、、
医師という仕事を親元離れてするというのは
結婚する相手を見つける暇がなかったのでしょうね、、、。
質素ですが、仕事は設備の整った仕事場であるという事が良いですね。
認めてくれる質素な健康な、自分に自信のある女性が
息子をリードして、よい家庭の作り方を
魅せてください、
運命を待つしかできない年になりましたが
男の43は、男盛りだと思うのですが、
結婚してから、二人の好きな家を買いたいと、、、
巣を創って待つタイプでは無いことが、、、時間貧乏の哀しいところですね、
現れるような気がする初夏です、