大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

あなたの描くイメージこそ、あなたの生命(魂・霊)そのもの

2011-02-06 11:50:04 | 奇跡の人々(人物辞典)
 20世紀の最も偉大な心理学者は、いったい誰か? 僕は、それはフロイトでもユングでもなく、ヴィクトール・フランクルだと思っている。彼ほど、数え切れないほどのリアルな「死」に直面し、また正面から向き合った心理学者は、他にいない。
 ユダヤ人の医師だったフランクルは、ナチスによって悪名高き強制収容所に送られ、幾多の偶然に助けられたこともあって、奇跡的に生還した。その体験を不朽の名著『夜と霧』で全世界に発表し、また『実存分析精神療法』を創始したことでも知られている。
 その研究は、生と死の本質を、どんな研究よりも深く掘り下げていることで定評があり、戦争の生々しい痛みを引きずる全世界から絶賛された。フランクルに生きる力を与えられた人々は、数限りない。
 フランクルの体験談は、全人類が襟を正して語り継がねばならない、至高の遺産だろう。



 その前にまず、ホロコーストの狂気が、どのような時代背景において醸造されていったかを検証せねばなるまい。

 それは、まず科学の隠蓑をまとって広がっていった。19世紀末、ダーウィンのいとこに当たるフランシス・ゴルトンは、「優生学」なる擬似科学を提唱する。ゴルトンは、
「望ましくない遺伝子を持つ集団の繁殖を抑えなければ、人間全体の遺伝子が劣化する」
 などといった説を繰り返した。もっとも、何を以て望ましくない遺伝子を判断するのかといったら、
「黒人は白人より頭が小さいので、知能に劣っているはず」
 といった程度の基準でしかなかった(ネアンデルタール人の脳は、現代人より大きかった)。こうした擬似科学は、抑圧されていたユダヤ人の間にさえ広がっていった。

 差別や偏見は、必ず科学的合理的(に聞こえる)理由付けと共に広がっていく。僕が、このカテゴリー『奇跡の人々』で、社会的に劣等と考えられている人々の偉大な軌跡を広く紹介してきたのは、そうした偏見との闘いのために他ならない。
 歳を取りすぎたから、若すぎるから、学歴がないから、貧乏人だから、人気がないから、病人だから、障がい者だから、あなたには何もできない。

 そんなバカな話があってたまるか! 

 どんなにもっともらしい理屈をつけられても、だまされてはいけない。ここまでずっと紹介してきた奇跡の人々が、真実を証明しているではないか! あなたにはできるのだ!

 やがて、異常なインフレの混乱に乗じて政権を握ったヒトラーは、
「アーリア人と他の劣等集団との混血を放置すれば、最も優秀なアーリア人の純血は絶えてしまう」
 繰り返しそう喧伝した。ユングが述べているように、人間の無意識は、環境の影響に逆らえない。つまり、意識のレベルでは、
「そんなバカな話があるかよ」
 そう思っていても、何度も何度も繰り返しひとつの思想を無理矢理聞かされていると、気付かないうちにその暗示が無意識を支配し、感情や行動に影響を与えるようになる。魔術を研究していたヒトラーは、成功法則の力を悪用したのだ。
 やがて、アーリア人とユダヤ人の性行為を禁じる「血統保護法」が成立。さらにヒトラーは、「最終解決」の道として、
「障がい者、同性愛者、社会主義者、ユダヤ人らの血統を地上から抹殺する」
 ことを提唱した。こうして、ゲルマン民族はエセ科学を信じ込まされ、あの忌まわしきホロコーストが実行に移されたのだった。

 ちなみに、現在でも優生学者の活動は盛んであり、決してそれとの闘いを怠ってはならない。



 収容所に到着し、かろうじて最初の「死の選別」を免れると、「幸運な」フランクルら被収容者たちは、「2分以内に全ての所持品を放棄する」ことを命じられた。下着はもちろんのこと、眼鏡や結婚指輪に至るまで。
 さらに、全身の体毛という体毛を剃り落とされ、名前は単なる番号と化した。個性という個性は、極限まで消去された。
 それまでの、何十年という人生を生きてきた証が、突如として全てリセットされ、生身の肉体と記憶しか残らない。これは、本当に自分がこの世からいなくなり、亡者となったような、生まれて初めてのショッキングな体験だったという。仏経において、奪衣婆が亡者の衣服を剥ぎ取る説話にも似ている。被収容者たちは、はからずも最初の段階で、死を擬似体験したのだった。
 この状態で、彼らの心に突如として湧き起こってきたのは、ニヒルなユーモアと好奇心だった。人生の重大な問題はひとまず忘れ、皮相的な現象への興味に集中することで、かろうじて発狂から逃れようと、無意識が判断したのだった。彼らはまさに、歴史に参加する存在としては、ここで死んだのだ。
 こうした傍観的好奇心は、収容生活を通じて支配的だったという。どことなく、現代人にも共通する態度である。
 地位や財産や名誉などに強く依存して生きてきた人々は、こうした初期のショック状態が長く続き、死を全く恐れなくなったという。なぜなら、もはや彼らにとって人生はすでに過去のものであり、全ての所持品と名前さえ奪われた時点で、すでに終わっていると感じられているからだ。彼らの目には、ガス室は単に自殺の手間を省いてくれるものとしか写らなかった。
 ここでかろうじて正気を保っていられたのは、自らの人生を魂に刻みつけてきた人々だけだった。


 収容所で与えられる食事は、1日一切れのパンと、水のような具のないスープだけだった。場所によっては、先に倒れた仲間の肉片がスープに入っていることさえあった。食事に、家畜の飼料以上の意味はなかった。スープ用の容器が、そのまま便器として代用されることさえあった。しかも、必要なカロリーや栄養素に全く至っていないので、フランクルらはたちまち骨と皮だけにやせ衰えた。
 当然、フランクルらの関心は、食欲に集中した。驚くべきというか当然というか、性欲は消失した。同性ばかりの雑居生活にあっても、同性愛は皆無だったという。肉体的にも、すでに半分以上死んでいるに等しかった。
 慢性的な飢餓に加えて、不潔なために大量発生したシラミによる睡眠不足が、被収容者たちの精神をさらに苛んだ。これは、慢性的ないらだちを招き、仲間同士の乱闘騒ぎはしょっちゅうだったという。


 収容生活が始まり、初期のショックが収まると、次は「アパシー」と呼ばれる感情消滅現象が生じたという。家族に会いたいという身を切るような感情でさえ、まもなく消失するというのだ。
 収容所では、仲間や自分自身が何の理由もなく殴られ、痛がり、ガス室に送られ、病に倒れ、苦しみ、死んでいく光景が、日常茶飯事だった。
 当初こそ、それらを目の当たりにして、怒りや同情、苦痛や恐怖の感情が沸き上がってくるが、それはあまりにも毎日、当たり前に繰り返されるため、「X回目」には、何も感じない瞬間が訪れる。もちろん、慣れだけでなく、肉体的な疲弊も関係しているのだが。
 するともはや、苦しみ、死んでいく人間の姿が、ただの風景以上の意味を持たなくなってしまうという。自分自身が殴られることにさえ。
 後に運良く開放された人々も、当初は、「嬉しい」という実感が湧かないのだという。「嬉しい」という感情を何年も使用してこなかったので、それがどんな気持ちか、忘れてしまったのだ。目の前の現実が、夢のようにしか感じられない。彼は、まだこの世に帰ってきていないのだ。
 肉体はまだ動いているが、感情はすでに死んでいる。しかし、これは現代人にとっても、他人事ではないだろう。少年時代のみずみずしい感受性を保ち続ける人は稀だ。だいたい、中学生くらいになると、著しい感受性の枯渇が訪れる。生きながら、大事なものが死んでしまっている。これは、現代文明の巨大な欠陥を物語る事実ではなかろうか。


 いつSSの気まぐれで殴られ、ガス室に送られるか分からない状況では、個性的で目立つことは即危険を意味した。被収容者たちは、できるだけ目立たず、平均的な被収容者であるよう努力した。集団の歯車のひとつになり切ることが、生き延びるために必要だった。
 自己主張はできるだけ避ける。質問されたらおおむね事実を答え、訪ねられたこと以外は黙っている。残念ながら、こうした処世術は現代人にも多く見られるものである。
 本来、人間はそのままで十分に個性的な存在だ。だが日本においては、作為的に個性を削り、標準に近づくことをよしとする風潮が強い。収容所列島といわれても、あながち否定できない現実がある。
 被収容者たちにとって最大のプレッシャーは、この地獄がいつ終わるのか、全く分からないことだった。こうした状況においては、1日はいつ果てるともなく長く感じられるが、1週間や1カ月は無気味なほど速やかに過ぎ去っていくという。これは、長期入院患者の心理とも共通している。
 収容所生活が長引くと、彼らにとって、収容所の外は現実としての実感を持てない、もはや存在していない世界であるかのように思えてくる。まるで、死者にとってこの世が過去のものであり、もはや永久に戻れない世界であるように。
 こうした極度の離人症に支配された人々の精神生活は、過去を振り返ることに終始するようになる。彼らは慰めさえ拒み、
「将来に何の希望も持てない」
 と、まるで失恋直後の乙女のような絶望に打ちひしがれるのだった。

 こうした人々は、最終的には、生きながら自己を放棄してしまう。

 ある朝、彼は突然動くことを止める。どんなに泣きつこうが、脅そうが、殴ろうが、横たわったまま、びくとも動かない。ついに、動く気力が尽きてしまったのである。
 食事も取らない。絶望が食欲さえ奪ってしまったのだ。病気であれば、治療も拒否する。自らの糞尿にまみれたまま、肉体が力尽きる瞬間を、ただ待つだけだった。彼は、自らの肉体を、人生を、放棄したのだ。
 人間の生命活動には、物理的分析だけでは説明のつかない謎が秘められている。今日でも、これといった原因が不明な突然死はよくあることで、ひとくくりに心不全として処理されているが、人間は絶対的な絶望にとらわれたとき、自らの意志で生命活動を停止することさえあるのではなかろうか? 自殺志願者の重体は、事故による重体より蘇生が難しいともいわれる。
 人間は、希望なくして生きることはできないのだ。希望こそ生命力の源であり、それが失われたとき、肉体は生存最低限の活動さえ放棄してしまう。
 人間とは、ただの動くデクでは在りえない。まさに精神的存在なのである。


 食欲に関心が集中する生活の中でも、たったふたつだけ、例外的に被収容者らの興味を集める事柄があった。それは、戦況への関心と、信仰だった。
 彼らの信仰心は、極めて純粋だった。なにしろ、家畜扱いの中で学術や芸術を通じて自己実現する可能性さえ奪われ、ただ意味もなく苦しんだ末に犬死にすることが確実なので、「この無意味な余生に、いかにして意味を与えるか」が、この上なく大きな関心事だったという。
 ある人は、天に向かってこう祈った。
「自分がどうしても苦しんで死ななければならないのであれば、せめて、それと引き換えに、愛する人が同じ運命を辿ることだけは避けさせてほしい」
 彼にとっては、どんな絶望も苦痛も、「愛のための犠牲」という美しい意義を持っていたのだ。この不幸な男の健気な祈りに、宇宙が動かないことなどあるだろうか? 
 独り善がりかもしれない。しかし、このように死を正面から見つめる態度こそ、現代の文明に最も欠けているものであろう。
 たとえ100歳まで20歳の健康体で生きることができても、死ぬときは必ずやってくる。最後は誰もが「死を待つだけ」という絶望の中で生涯を終えねばならない。この真実に目を閉ざし、ただ生を賛美するだけでは、真に人生に向き合うことにはならない。死を含めて、人生なのだから。
 そう、僕たちは間違いなく、いつかは死ぬ。これ以上確実な未来はない。子孫に何かを残すのもいいが、人類もいつかは絶滅するだろう。この地球も、宇宙でさえ、おそらくいつかは滅びてしまう。永久であるものは、何ひとつとして存在しない。
 この虚しい我が人生、虚しい人類の運命、虚しい世界の存在に、いかにして意味を与えるのか? それは、僕たち自身の手に委ねられている。


 もうひとつ、驚くべきことに、被収容者たちは芸術や自然に対する強烈な感受性を抱いていた。たまに美しい夕焼けが見えると、彼らは食事さえ忘れ、いつまでも西の空を眺めていたという。
 収容所では、即席の演芸会が開かれることもあった。貴重な食事を放棄してさえ、演芸会に駆けつける者もいたという。歌の上手い者は、「比較的」マシな待遇を受けることができた。それほどまでに、彼らは美と感動に飢えていた。
 芸術は、決して余興などではない。それは人間の生に必要不可欠なものであり、人生の目的であるとさえいえるのではなかろうか。


 感情消滅が徹底した後でさえ、時には憤怒の情をもよおす場合があったという。それは、肉体的な苦痛を与えられたときではなく、むしろ「言葉によって嘲られた場合」だった。言葉の暴力が、時として真の暴力以上の苦痛を与えることを、フランクルは我が身で体験した。
 あらゆる感情が死に絶えたと思われる場合でさえ、人は、不当に「誇り」を傷つけられることだけは、我慢ならない存在なのだ! 誇りだけは、いかなる環境においても、奪うことができないものなのだ。生命の本質そのものといっても、過言ではないだろう。
 歴史上、どんなに強大な暴力や権力でも、決して人間を真に支配しきれなかった理由は、ここにある。人は決して家畜ではない。生まれながらにして、何物にも侵すことのできない誇りを持っている。それを守るために、人々は死を賭して闘ってきた。人間にとっては、誇りこそ、あらゆる肉体的な欲望にもまして必要なものなのだ。


 こうした極限の環境で生き延びたのは、外向的で粗野な人々ではなく、むしろ繊細で内向的な、感受性が豊かな人々だった。彼らは、異常な現実から逃避して内面に目を向けることで、かろうじて精神のバランスを保っていられたのだ。
 中には、このあらゆる意味で極限の環境においてさえ、人間らしい自然な感情を失わない人々もいた。それはせいぜい、仲間に慰めの言葉をかけ、パンの欠片を分け与える程度でしか表現できなかったが、収容所においては、彼らが「かつて」人間だった記憶を思い出させてくれる、数少ない瞬間だった。
 性欲の消失後も、愛情への渇望は、激しいほどに高まったという。フランクルには、生死不明の妻がいた。しかし、再開が絶望的な今、妻の生死は、もはや問題ではなかった。それは、彼が妻の面影を思い描き、愛する上では、何の関係もなかった。
 愛が、性欲とは全く別のステージで成立していることを、フランクルは極限の中で悟ったのだった。
 愛する心こそは、有限で虚しい存在である人間を、完全に満たしうる唯一の力なのだ。
 愛されることではなく、愛することこそ幸福である。フランクルは、何もかも失ったことで、その言葉が全き真実であったことを悟った。


 シューペア軍需相が、ヒトラーの下した「焦土作戦」を密かに握り潰したことはよく知られているが、SSの中にさえ、この狂った場所で正気を保ち続けた人々がいた。
 ある所長は、極度に不足している医薬品をポケットマネーで入手し、密かに収容所に持ち込んでいた。この所長は、例外的に被収容者に暴力を振るうこともなかった。
 真に人間の誇りが問われるのは、抑圧されているときより、むしろ強い立場にあるときかもしれない。自らに大きな力が与えられたとき、それを乱用したいという欲望に打ち克てる人は、ほとんどいない。この所長こそ、その希有な人だった。
 解放後、フランクルらはこの所長をかばい、米軍に引き渡す際には「この所長には指一本触れない」と誓約させている。
 またあるときには、現場監督が、フランクルにそっと小さなパンを渡し、慰めの言葉をかけた。フランクルは、久しぶりに「家畜ではなく」人間として扱われたことに感激し、涙したという。
 SSの中にあってさえ、ホロコーストが巨大な過ちであることに気付き、それぞれの立場で精一杯の抵抗を試みていた人々がいた。一方で、カポー(被収容者の中から選ばれた管理者)の多くが、SS以上に残虐だったことにも、フランクルは触れている。
 これは決してナチズムの弁護ではないが、どんな集団にも、SSのような極端な集団にさえ、いい人間と悪い人間がいた。その個人差を無視して、集団にレッテルを貼るのは、とてつもない間違いだろう。


 奇跡的に解放された後、フランクルらは何をおいてもまず食べ始めたという。何時間も、何日も。人体は、栄養失調状態においては、信じられないほどの消化力を発揮するらしい。骨と皮だけになった体に、急速に筋肉が、脂肪が、戻っていった。
 また、開放直後には、何時間でも「脅迫的に」自分の身の上を語る現象が見られたことも知られている。人間は、苦悩を他人に打ち明けるだけで、その重圧をだいぶ減少させることができるのだ。カウンセリングの要諦は「話を聞く」ことにあるというが、それだけのことで、どれだけストレスを軽減させられることか。
 数日して、健康がある程度戻ってくると、突如として、何年も死んでいた感情が、一気に覚醒する! それは、まさに瞬間的なものだったという。フランクルはその場に膝を落とし、いつまでも「生」を噛み締めていた。そう、フランクルはこの瞬間、再びこの世に戻ってきたのだ。


 だが、フランクルの苦悩は、まだ終わっていなかった。彼はまもなく、両親も、妻も、子どもたちも、もはやこの世にいないことを知る。家族との再開を唯一の希望として生き延びてきた者は、ここで力尽きてしまうのだという。
 天涯孤独。自分の帰りを待つ人は、地球上のどこにもいない。人間にとって、これほど生きる気力を失う現実があるだろうか? 
 ある程度覚悟していたとはいえ、フランクルには、もうささやかで静かな幸せを実現する希望すら失われた。何もかも失ったこの余生に、いかに意味を与えろというのか? 

 それでも、かろうじてフランクルを生に留まらせたのは、心理学者として、人類に強制収容所で見た真実を語り残さねばならないという使命感だけだった。もはや彼は、1人の生還者であることを超え、人類の運命に対して責任を負う存在となったのだ。

 その後、彼はずっと戦後世界に巨大な感動と教導を与え続け、92歳の長寿を全うしている。



 フランクルは、あまりにも過酷すぎる収容所での現実に対処するため、あるトリックを用いていた。それは、収容所を生きて出た後、大ホールに集まった聴衆の前で、「強制収容所の心理学」について講義している自分を思い描くことだった。
 イメージの中では、今直面している苦悩は全て過去の記憶となっており、学術上の観察対象に過ぎなかった。つまり、「自分は、大ホールで過去の体験を語っているフランクルの記憶の中にいる」と思い込み続けたのだった。

 そして、このイメージは、後に全くその通りに実現される! 
 フランクルも、成功法則を無意識のうちに活用していたひとりだった。イメージの力で、自分ひとりが生き延びるだけに留まらず、世界さえ変えてしまった! 


 収容所では、未来像を失った人間は、次々と自己放棄していった。未来像のない人間には、今を生きることもできないのだ。フランクルは、将来の希望こそ生命力の源だと断言する。
 未来のイメージ。生きる上で、これほど必要なものはない。いや、強制収容所の真実に学ぶ限り、それこそが生命の本質であり、肉体は、その付属品に過ぎないのかも知れない。
 あなたの生命は、あなたの肉体に属しているのではない。肉体があなたの生命に属している。あなたの生命。それは、あなたが思い描くイメージに他ならない。

 あなたの描くイメージこそ、あなたの生命そのものなのだ。

 ジョン・レノンが『イマジン』で歌ったことは、全く真実なのである。
 イメージは、物質化する。
 祈りは、全て届くのだ。
 強制収容所から生還したのは、「何かが自分を待っている」そう思えた人々だった。それは家族であったり、仕事であったりと様々だが、外の世界において果たさねばならない責任を自覚できた人々だけが、最後まで破綻せずに生き延びたのである。
 要するに、彼らは「死ねない」立場にあった。死ねない理由があった。

 死ねない人は、死なないのだ。

 肉体とは、それをただ維持することに意味はない。肉体を用いて、未来像を実現することにこそ、生の意味がある。
 しかし動物には、言葉を操ることができない。悲観的なイメージの奴隷である。人間だけが言葉を操り、イメージの力を創造的な方向に導いていくことができる。
 はじめに、言葉ありき。言葉が生命力を創造する。この世界で人間だけが、生命に無限の価値を与えることができる。
 人間は、決して単なる遺伝子の乗物などではない。ただ肉体を維持し、子孫を残すだけの存在であることを超え、人間として何かを成すために生きている。

 だからあなたは、動物でも植物でもなく、人間に生まれてきたのだ。あなたにしか起こせない奇跡を成し遂げるために。

 フランクルは、何もかも、文字通り何もかもを奪われながらも、人生の意義を自ら創造した。生きる力を創造した。
 生の意味とは、生命力とは、誰かに与えられたり、奪われたりするものではない。自由に創造できるものなのだ。人間とは、あなたとは、それほど神的な存在なのである。




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