「ユルスナールの靴」から

2006年05月28日 18時29分30秒 | 日本文学作品から
須賀敦子さんが亡くなってすでに十年近くがたつ。長らくイタリア詩の翻訳を彼の地されていたが、後年日本に帰ってから、エッセイをいくつか出された。夏目漱石を昭和によみがえらせて女にすれば、こんな文章を書くのだろうかと思わせるものがあったほどの、名文家であった。

次は、標題の作品の出だしである。

 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

I'll try then:

Only if I had a pair of shoes firmly suitable for my feet, I would be able to walk to any place I like to do.Continuing thinking so somewhere in my mind,I feel like having lived my life while complaining about my misfortunes that I have not encountered a best-fit shoes.I think :the reason I have not gone to the place I wanted to do,and not all the places I should have to do,or I have given up wanting to go to such a place, is all because I have not had such a close-fitting shoes for my feet.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語の眺め方

2006年05月25日 16時16分58秒 | 日本文学作品から
日本語と英語が似ているか、どうか?似てると考えるほうが、英語はうまくいくんではないでしょうか。順番は違います、特に動詞の位置が。けれどまず私が、注目するのは、接続詞なんです。あるいははじめの言葉。
たとえば、安岡章太郎の「春のホタル」は、次の通り、言葉が現れてきます。
私は、これはすでに以前にも話したことがあるが、ところで、もっとも、いや、母は元来、それはそうとして、ところで私は、繰り返して言えば、昔、そして、村の一番奥まったあたりに、などなど。
英語なら、I, As I have said this before,?By the way,now?Of course?
However,My mothe always,So as it may be-接続詞asの文章で補語を前に出すと、譲歩、・・だけれどの意味になる。その譲歩ではmayをよく使うのです。By the way, I,Repeating it,At hat time, And, In the deepest place in the village なのだろうかなどど考えてゆくと、結構頭を使うものです。
次に注目すべきは動詞とおもうのです。一つのパラグラフに、たとえば、
、と思われる、答えようがない、わからない、たいしたことではない、と動詞的言葉が続いている。
I think, there is no ansewring ,you will naot be able to answer, be unaware , not be seriousなどと考えるのは、これまた思考訓練となる。

私は、生まれつき落ち着きのない性分だが、これには胎教の影響が多分にあると思われるー。(安岡章太郎、「春のホタル」の出だしの文章)

I have a restless nature from my birth, and I think for this there are a lot of influences in my unborn baby.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

from a Kaikoh Takeshi's work

2006年05月24日 19時00分35秒 | 日本文学作品から
 この酒場にどんな常連客がついていて、何時頃にあらわれて、どんな話をして出ていくのか、まったく関心がなかったし、知ろうとも思わなかった。朝から明滅しつづけてあぶりたてる青い火は一杯のマーティニで消えるものではなく、むしろ、いよいよ深く沈んで炎のない熾火(おきび)のようにどこか手のとどかないところでくすぶりつづける。けれど、それはそうだとしても、最初の一杯の冷え切った滴がひとつ、ふたつころがり落ちていくうちに、あくまで見せかけとはわかっていながらもなかなかの出来と感じられる中和がじわじわとひろがって、無為の苦痛をやわらげてくれる。遠くの貨物駅で突放作業をやっているらしく一台の貨物の連結器がぶつかってしかり食いこむと、つぎからつぎへつながれた古鉄の箱が身ぶるいして響きをたてる。それが正確に一台ずつ小さくなっていくのを聞きながら、レモンの淡い香りのたつジンの冷えきった一滴一滴をすするのは、いことだった。(開高健、当人の遺作となった「珠玉」三編中の「掌(て)のなかの海」から)

開高は躁鬱をもっていた。鬱の時の事を書いているから、わからないことがあっても、それはそれでいいことかも。無為の苦痛とは、従って、鬱の際の苦しみである。突放作業は、ツッパナシ作業と発音するのだろうか。開高健は、文章は形容詞から腐ってくるといった作家である。見てのとおり、豊穣な形容詞群を操れる作家であったから、自戒の気持ちがあったと見える。箱が身震いして、その音が次第に小さくなってゆくさまなどは、なんともいえないところだと思う。

However, I saw it was so, but,while at the first sip, sharply cold a drop or another drop falling down my throat, a neutralization considered rather good spread throuh me and alleviated my pain of idleness although I realized it was nothing but superficial.Train-releasing works seemed to be lasting at a freight train station far away,and when a train joiner crashed into another and firmly conected with each other, old iron boxes ,connected to each other one after another, shuddered and sounded.
Hearing the sounds which were gradually declining one train after train with a high accuracy ,I thought it was good sipping a cold gin slightly flovored with lemon a bit and a bit.

65点位は取れているかな。勘でやってるところが多くて、英文の正確さは保証しかねます。だけどこういうレベルの日本語を訳せるようになりたいと思うのだ。恥をかかなきゃ成長しない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

from a phrase in a Japanese literary work

2006年05月24日 17時52分52秒 | 日本文学作品から
この頃アメリカでは、何かあると日本がヤリ玉に上げられることが多くて、まるで真珠湾だという人もいる。(安岡章太郎、「伯父の墓地」から、その出だしの文章)

Recently in America, Japan is often harshly criticized, and some say it's as if "the Parl Habor".

(後からの挿入)Recentlyはまずいのでしょうね。現在形ではつかわないから。ここは、These days なのでしょうね。

注:あまり私の英語は信用しないで頂きたい。自分では一生懸命なのですが、自信がないのです。かなり間違うことでしょう。けれども、ただ笑ってやり過ごし、見ていただければ幸いかと、思う。数年前に英語をやりたいと思ったとき、私の思ったことは、自分の日本語がもし十なら英語だってほぼ十になるはずだ言うことだった。つい最近、何の拍子か私は見る気も読む気もしなくなった、日本文学に眼が行き始めたのである。自分のまずい日本語に我慢がならなくなったことがきっかけで、そのほかの優れた文章も一切見たくなくなった。それで英語を開始したという事情もあったわけである。井伏鱒二の「へんろう宿」という高知の寂れた漁師町の短い短編が今よくわかる。そのむかし、この数年前には、わからなかった。というか、感じれなかった。これはどうしたことだろう。いま私は年甲斐もなく、興奮の中にいるとも言える。興奮が過ぎて英語に至らない。英語に行く前に日本文に眼が吸い寄せられる。昨晩も、深沢七郎の「楢山節考」を読んだ。出てくる言葉はやさしいのに、すごい文章を書くものだと、恐れ入った。時々、毎日になればいいのだが、from today's Nikkei
に加えて、from a Japanese literary work I favor
を、スタートしてみたいと思う。
続けばいいのだが。
笑っていただいて結構である。信用しないで頂きたい。それだと気が楽になる。一年続けば、どうなるだろう。slow but steady.
何か、興奮が冷めやらない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする