えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

どうしても・・・

2011-10-23 | 日記
 金木犀のこと・・・

夫が逮捕されたのは10月10日の夜
その時の記憶に、金木犀の花の香りがあった、と聞いた。

それ以来、私は、実家の庭で毎年咲く大きな金木犀が、
いつか、必ず『悲しみの記憶』から、喜びの記憶へと変わるように・・・。
毎年、実家の金木犀が夫の癒しの花になってくれるように・・・と願い続けた。

 ところが、私が「夫とともに歩んでいきたい」と両親に告げたその直後に、実家の金木犀の木がその姿をとどめることもなく、
二メートぐらいの幹だけを残して切られてしまったのだ。
結婚を許さない、という父の感情がそこまで行動させたのかと思ったら、その真相をただすこともできず私はひとりその事実を受け止めるしかなかった。
両親の理解を得られないことに併せ、私の子どもころから大好きだった金木犀まで切ってしまわせたのかと、それほどこの結婚は両親を悲しみのどん底に落としてしまったのか・・・と。

 この話は、実は、今となってはまったくの笑い話であって・・・
本当は
「虫が喰って、どうする事も出来なくて切ったんだ」・・・と、後に弟から聞いた。

二年後、両親の理解も得られ再び夫と実家を訪れるようになった時には、見事に若い枝をたくさん増やし、姿は小ぶりでも見事に花をつけ、あの懐かしい香りで私たちを迎えてくれた。

 10月10日、今年、その日は守る会(解散)総会となった。(実際には、残務があるため解散は来年春まで存続されることになった)
長い闘いを支えてくださった「守る会」があったからこそ、のたたかい。
そして43年7か月目の「無罪判決」
無罪確定して初めて迎えるこの秋・・・。
その少し前から、住宅街のどこからともなく香ってくる金木犀の香りに、夫は、

「あっ、金木犀の香りだ!」

と、誰よりも早くその季節の到来を口にしていた・・・。

・・・・・・・・

 夫にとって「特別の秋」
今年、私は、実家の金木犀の枝をいつもより大ぶりに切って、玄関に挿した・・・。


 そんな、私たちにとって大切な金木犀。
今、花を落としたその姿はあまりにかわいそうな姿で、どうしても元気にさせてやりたい。
ながく、ながくこの家の家族を見守ってくれてきた木だけに、その前に立ってなす術もなく途方に暮れる両親の姿を見ながらそんなことを考えている…。



生き延びて

2011-10-22 | 日記
実家には、古いキンモクセイの木がある。
母によると、母が子供の頃から有ったという。
今、この木がこのまま生きられるか、枯渇寸前の状態にある。

実は、13年前、虫がついてしまい、地上から2メートル位を残し、幹を思いきって切ってしまった。
そのせいだと父も言う。

そうだろうか?
それからまもなく新しく枝を出し、少し小振りになったけれど、毎年花をつけて、秋には、変わらないあの懐かしい香りで私たちを包んでくれた。
それは今年も変わらなかった。
だけど、幹の姿は余りにも無惨で涙が出てしまうほど可哀想なのだ。

何の知識もないけれど、何とか助けられないものかと真剣に考え始めている…。

写真は、今年も見事に花をつけてくれたキンモクセイ。

来年もコメを作りたい・・・

2011-10-22 | 日記
父が言った。

「せめて、家で食べるだけでも、来年、コメを作りたんだがなぁ・・・。
 お前らが手伝ってくれれば、できないことはないんだが、ばあちゃんが『もう、やだっていうんだ。無理だって』。
 供出はしなくても、自分らで食べるくらいは、な・・・」と。


今年は、福島の原発事故が原因で、
「放射能汚染で、作っても食べられないかもしれない」(実際、お茶の摘み取りは行政からストップがかかった)
そう言いながら、実家では父と母のコメ作りが行われた。
田植えも稲刈りも、兄や私の息子が手伝った。
幸い、「汚染米」とならなかったことで、安堵しながら収穫の時期を迎え、みんなで新米を味わった。
だけど、父のがん闘病に加え、今年の5月からは母もがんを患い大きな手術も受けた。
もう、両親ともに体力の限界で、私たちの「手伝うから」の言葉だけでは、どうにもならないところにまで来てしまった。

今年の収穫を最後に、
「来年はコメ作りをやめる」と宣言した父と母。
そんなに広い田があるわけではないが、作ってくれる人がいるかどうか、農協に頼んでみる、と母も言った。

そして、今・・・
父は、もう、痛み止めが切れると座っていることも、寝ていることも辛いらしい。
そんな父が、薬の効いているとき、苦痛の少ないときは車も運転するし、私と一緒に買い物にも行く。
痛みに襲われるたびに
「あとどれくらい生きられるのか」と自問自答しているはずなのに、その父が言う

「来年もコメを作りたい」の言葉・・・。

それが、父の生きる希望になるのなら、来年の収穫を見られないこともありうると思いながらも、
父の思うようにしてあげたくて、私は、
「手伝うことは何でもないよ」と答えてしまった。

「田植え機も、コンバインも、乾燥機ももったいないよな・・・あるんだもんな。」と父の言葉は続く。

でも、それは、やはり父の願望でしかなく、母との共同作業がなければ無理なこと・・・。
母に三度の食事作りに加え、これ以上のことを要求するのはあまりにも酷なこと・・・。
弟が亡くなり、子どもである兄も私も同居が叶わない現実のなか、来るべきして来た選択の時期なのだ。

母には伝えずに、父と二人だけの会話で終わらせた。
一緒に住めない思いもからんで、いろんな思いが私の心の中で渦巻いていた。

隣の家でも作る人がいなくなり、田んぼも畑も雑草に覆われているのを見ながら、言いようのない寂しさに襲われた・・・。



犬?ねこ?

2011-10-22 | 日記
夫が「犬を飼おう」と時々つぶやく。
最近、お世話になっている方の家で、どうもそのお宅の犬と濃密な?時間を過ごし、すっかり「犬、大好き!」になったらしい。
でも、出歩くことの多い夫の生活で、まだ、あまり現実味はないと私は聞き流しているが、先日は
忠誠心の強いことを強調しながらも、

「世話をするのはアンタ。毎日の散歩もアンタ。アンタの健康のために飼うんだ。オレは、毎日の散歩は無理だから」と、のたまう。

ふ~ん、
きっとそうなると、その犬は、夫ではなく、私に忠誠心を示す「私の犬」になってしまうだろうな・・・

そんなことを私は心の中でつぶやく。

私だって、犬が嫌いなわけではない。
子どもの頃から、家には犬も猫も、おまけにウサギも小鳥も、鶏もいた。
そんな世話を兄弟で分担してやってきたのだ。
飼い始めたら、私だって本気でかわいがってしまうだろう。
ただ、忙しい生活で放っておくことが多い現実を思うと、私には「ねこ」がお似合いだな、と思うのだ。
「ごん」だって、捨てられていたから拾ってしまったのだ。
以後、20年をこえる付き合いをしてくれた「ごん」からは、いろんなことを学んだ。
しっかりと「ねこの『ごん』の忠誠心」も感じることができた。


私がどちらかというと「ねこ派」であることを承知しての夫の言葉。

出歩くことが多い私たちの生活が続く間は、「絶対ダメ!」という頑強な夫の反対と、今は、団地住まいであること、
それと、夫の猫上皮アレルギー(医師曰く、抵抗力をつけてもらうことで可能)が私の願望を抑えているのだが、
もし、条件が揃ったら
「犬、飼おう」の夫の希望も、
「ねこ、飼おう」の私の希望も

両方実現しちゃおうかな・・・?

きっと、どっちも私に忠誠心を示してくれるような・・・
そんな気がして来た・・・。

なぜなら、餌をやるのも、面倒みるのも「私」だから・・・。


実家でも、父が野良猫の親子の餌付けを毎日しているらしい・・・。
猫を飼うことに
「いやだよ。お父さんは、結局自分で面倒みないんだから」と反対していた母も、今は一緒に野良猫観察を続けているようだ。
老いた両親の楽しみの一つがそこにあるようだが、
私たち夫婦の間では、まだまだそこまではいかない。

もうしばらく、夫のつぶやきを聞き続けることになるだろう・・・。

救援会八千代支部で

2011-10-22 | 日記
判決報告会がありました。
それも、夫が先約で予定が入っていたため、代理で私が報告するかたちで・・・。

数日前に送られて来たチラシには、




こんな内容で話をするんだ…と、相変わらずボーっとした受け止め方しかできていなかった私は、
その日、まず、八千代市勝田台の駅を降りて、まっすぐに向かったが、会場近くの交差点で長くお世話になった守る会の荒川さんの奥さまの出迎えをいただいた。

えっー?!

「何とか行けると思いますので、迎えはお気遣いなく」と連絡してあったので、途中常磐線のトラブルで15分遅れたのだが、それでもまだ時間には余裕があるからと連絡せずに出向いたことを後悔した。

冷たい風が吹く中、奥さまはその遅れた時間だけ会場近くの交差点で私を待ち続けてくださったのだ。
交差点の反対側で信号待ちしている私に、
「櫻井さんですね」と声をかけてくださった。
「会場の入口が分かりにくいものですから」・・・と。
なんと、なんと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
奥様とお会いするのは初めて。
なのに・・・
「新婦人新聞でお顔は・・・」とのこと。
そして
「今日は、新婦人の会員さんも参加されていますから・・・」と。

ああ、そうだった・・・



新婦人新聞の取材を受けて、記事掲載となってから、私が考えている以上に
「新聞読みましたよ。いい記事でしたね」と声をかけていただいた。
記事を書いてくださったのは、新婦人の素敵な(私の心情をとてもよく理解してくださった)記者さんのお蔭なのだが、
それだけ、身近な所に新婦人の会員さんがいて、夫たちの闘いを見守っていてくださったんだと改めて感謝する思いになっていたのだ。
それが、この八千代市でも・・・と、嬉しいような気恥しいような・・・。

会場に着くと、見知った方は数名・・・
もちろん荒川さんのご主人がいて下さり、千葉県本部の岸田さんもいらして、ちょっと安心したが、やっぱりこんな時緊張する。
はじめに、新婦人の支部の皆さんからと、アレンジのお花をいただいた。



そして、会場には会員さんが準備してくださったというもう一つのアレンジの花が・・・。なんでも、「アレンジのお花つくり」の子組みで活動されている方で、何度も、布川の現地調査にもきてくださったという。
そんな温かな歓迎を受けた上でのお話となった。

・・・さあ、実はレジュメをと考えていたのに、準備できなかった。

タイトルと女性の方を意識した自分がそこにいて・・・

事件の概要、裁判の経過は荒川さんがお話ししてくださったので、

・・・・・・

結局、話の内容が、夫の抱えてきたものの重さ、後遺症を持って裁判を闘いながらもその克服も含めた生活だったことなど、シリアスなものになってしまった。
でも、なんとか、皆さんに伝わったかな・・・
時間を気にしながら、精一杯話させていただいた。

考えたら男性の方もたくさんおられて、あとから、あれも、これもと漏れてしまったこと、不十分だったことに思い至ったが自分の反省として持ち帰った。

帰りの電車は、いただいたお花を持っての乗車。
でも、自分がこんな機会をいただいたこと、また、新しい出会いがそこにうまれたことに感謝しつつの帰途となった。

八千代支部の皆さん、お世話になりました。
ありがとうございました。


ソバ畑

2011-10-19 | 日記


白いソバの花畑がもうすぐ収穫時期が来ることを伝えるように一面その色を変えていた・・・。

ここは私のふるさと。
私が幼い時代を過ごした場所。

今年、私の両親は高齢であること、病でめっきり体力を落としてしまったことを理由に、ソバ作りをやめた。

ほかの家で作ったソバ畑を前にして、

「ああ、今年の大みそかは、家のそば粉を使った父の手作りの年越しそばを食べることができないんだ…」と、

そんなことを思った・・・。


船橋にて

2011-10-19 | 日記
水戸から千葉県八千代市へ。
乗り換えながら、今、船橋駅。
一人昼食をとりながら、今年亡くなられた守る会事務局員の、Oさんを思い出す。
お元気だったら、必ずご一緒してくださったろう。

船橋駅で、布川支援を訴える守る会員の「チラシ」を見て、支援運動に関わってくださるようになったと、ご本人から後に聞いた。

間違ったことの大嫌いなOさん。
無罪確定後の夫たちと、もう少し、愉しい時間を一緒に過ごして欲しかった…。
船橋駅で、一人、そんなことを考えている…。

「Oさん、八千代支部の皆さんの前で、夫の代わりに『無罪判決報告』をしてきます!行って来ます。」

またまた最優秀賞です!

2011-10-14 | 日記
現在授賞式が進行中です・・・

何の?って・・・

釜山国際映画祭に「ショージとタカオ」の作品を持って、映画祭に挑戦した井手監督。

今度は、「アジア部門・最優秀賞ドキュメンタリー賞」です!!


(画像は日本TVさんから拝借!)



実は、昨日まで現地にいた私。
上映されたのは、7日と、11日の2回。
どちらも、監督が思ったようには観客は多くなかったので、実は監督も私たちも元気をなくしていたのです(今だから言えること・・・)
ツイッターも正直できませんでした。
でも、観てくれた人たちに確かに何かが伝わっている、という事は実感できたのですが、やはりほかの会場と比べると寂しい状況でした。
ドキュメンタリーというのは、関心を持ってもらわなければ人は観てくれません。
その意味では、宣伝不足が大きな原因だったのかな、と思いました・・・。
監督も「サブタイトル」が必要だったな・・・と。

それでも、昨日、優秀な10作品に選ばれたと言う情報は得ていました。
それだけでも、すごい!と思いましたが、
受賞できたらいいな・・・と、思いながら私は昨日皆さんより一足先に帰国の途につきました。

そしたら!
何と、何と最優秀賞ですって!!

ヤッター!

すごいことですよね。

現地での授賞式、記念パーティは今も盛大に、華やかに続いていると思います・・・。

井手監督、おめでとうございます!!

皆さん、見逃した方、これからでも機会がありましたらぜひ、ぜひ観てください。お願いします。



釜山国際映画祭2

2011-10-14 | 日記
→つづき







上映時間は2時間半を超す。
午後7時に開始して、上映だけでも9時半を過ぎてしまう。
その後の「Q&A」にどれだけの方が残ってくれるのだろうか・・・?

そんな不安を持ちながら映画の進行を見守る。

日本で必ず「笑いが出るところ」で、同じように笑ってくださっていることにホッとしたり、静まり返った空気に
「何を感じて下さっているのだろうか」と一喜一憂しながら見守る・・・。

会場に足を運んでくださった人数を見たら、決して多くない。
一人も途中で帰らずに最後まで観ていただきたい、祈るような思いが私の中にあった・・・。

上映が終わり、静まり返る会場。
マイクを持った方(Q&Aの進行担当者・・・大学でドキュメンタリーの講義をしている方だとあとで紹介を受けた)が、流暢な韓国語で会場に残った方に語りかけ、質問を促した(実際には解説とご自身の感想を述べられていた。それだけ、この方の関心をひきつけていたことが窺い知れた)
会場から、井手監督に、
「どんな目的でこの映画を作ったのか?」
「15年追い続けた原動力は?」
「政治や司法への訴えの形になっていないのは?」
私たちには、
「なぜ、こんなに長い間支援を続けられたのか?」
「撮り続けられることに抵抗はなかったか?」
などの質問があり、そして、

「この人たちは、日本の優しい人たちに支えられ、無実を晴らすことができて本当によかった」(日本人はそんなに優しい人ばかりなのか?)

という感想もあった。

「感動しました」と、井手監督と名刺交換されて、長く話されている人もいた・・・。

(Q&Aの前半は、日本語通訳がされず、ほとんど理解できないまま進み、正直、正確な内容は把握しきれていません・・・すみません)

でも、でも、でも・・・
熱心に質問する人、聞いて下さる人・・・
会場に残った約30人の方は、席をはずすことなく午後10時半、時計を見て「この辺で・・・」と言うまで、熱心に質疑応答に参加してくださった。

会場を出ると、ほかのドキュメンタリー部門はすでに終了していて、静かな夜の会場を私たちは後にした。

進行を担当された女性が、井手監督に何やら話しかけていた。
自己紹介と映画への感想、共通のドキュメンタリー映画の話題だった・・とか後で聞いたが、その時の彼女の
「ウエスタン」「パーティ」などの英語が耳に入った。
どうやら、映画祭関係者の「今日の打ち上げパーティが10時半からやっているのでに参加しないか?」ということらしい。
私たちは、用意された車で会場まで案内され、その場に合流。

時間は11時を過ぎていた。
海辺に面した確かにウエスタン風のデッキに、各国の人たちが思い思いに参加、交流。
料理、アルコール、音楽、夜景を楽しむ「映画祭の一夜」が繰り広げられていた。

・・・・・・・・

私が触れた映画祭は、ほんの一部だったが、国が、釜山市が、街全体が映画祭を盛り上げていることを感じた。
映画祭を運営する人たちは約50人。この人たちが、通年、開催のための仕事をし、映画祭期間中は約500人のボランティアが活躍しているという。
若い人たちが、通訳、会場担当、シャトルバス、公式送迎車の運転手などなどなど、生き生きと映画祭を支えていることが、いたるところで見受けられた。

・・・・・・・・・・・・・

井手監督のおかげで、不思議な?貴重な時間を過ごさせていただいたことに感謝を申し上げます。
そして、少々とんちんかんの私をフォローし、同行してくださった山川さん、現地でお世話になったMさん、Nさん、
本当にお世話になりました。

現地で撮っていただいた写真を見て、夫が言いました。

「釜山の空気があんたには合ってたのかな。いい写真だね」と。

本当に、釜山、好きになりました。
空いた時間は、Mさんの案内でいろんな所まで地下鉄で移動し、釜山の街中などいろんな場所を案内していただきました。
地理感覚も、少し養われ?ました。

もう一度ゆっくり行きたい場所のひとつになりました。
                      (2011.10.22記)




釜山国際映画祭

2011-10-14 | 日記


釜山国際映画祭で「ショージとタカオ」が出品、上映されると聞いて守る会の山川さんと行って来ました。
この映画とともに、井手監督はどんどん前に歩いて行く。
新たな活躍の場所を切り開いていく、そんなことを実感した今回の釜山行きでした。

映画祭で上映されたのは2回。
一度目の上映が7日に済んで、監督は釜山滞在中だったが、東京で布川守る会(解散)総会があるからと、一時帰国された。
そして、2度目の上映は総会翌日の11日の夜、ということで再び釜山に戻る井手監督に私たちが同行するという形をとらせていただいた。

何の心の準備もないまま「ついて行けばなんとかなる」と思って出発した私は、やっぱりお二人に依存度100%状態・・・。
出国直前に、語学留学のため釜山在住のMさんを札幌弁護士会のO先生にご紹介いただいたことで、それも私の緊張を解いてくれる大きな要因でもあった。

でも、でも、今だから話せること・・・。

井手監督が最初に連れて行ってくれたところ、現地でMさんと待ち合わせていた場所が映画祭のメイン会場だったことを帰国日の朝に私が口にしたことで、大笑いになった。


(これは、リーフレットに紹介されていたメイン会場の夜景。昼に、この下を歩いたからってわかりません・・・よね)

それくらい、私は、初日、何を目的に、どこを歩いていたのか、まるでちんぷんかんぷんだったということだ。
そして、それはそれくらい建物自体が大きなものだったということなのだ(目的意識の薄かった証拠ですが・・・)

午後に釜山に入り、まず空港からリムジンバスで移動。
韓国の最南端?で、海に面した位置に建つ海南台のホテルに入り、その後、監督に案内されるままについて行って・・・。

Mさんとその友人が待っていてくれた。
お願いしていた韓国語に翻訳した「布川事件とは」のチラシを、いただき、
「食事を軽くしてしまいましょうか」となった。
聞くと、上映開始時間は午後七時、とのこと。
Mさんたちの案内で、おすすめの「チジミ」を食べながら、自己紹介。
Mさんも友人のNさんも「とってもいいひと」の印象・・・。

ドキュメンタリーの上映は、メイン会場とは別に、デパートのフロアーにある大きなシネマコンボックスのようなところ。
それぞれの会場で、それぞれの作品が同時に上映される。
観たい人はその会場へそれぞれ入って観るということらしい。

少し早めに会場に向かったが、関係者のはずの私たちも係員の指示で直前まで入ることができず、観客と一緒に並んで開場を待った。セキュリティが厳しく、私と山川さんはどこまでも「井手監督のスタッフ」ということで行動。
どれくらいの人が来てくれるのか?と列を振り返りながら待つ状態・・・。
そこに、偶然MさんとNさんが通っている学校の先生(韓国の方。日本語もできるすてきな女性教師)を彼女たちが見つけて大はしゃぎ。
こちらも元気を頂くきっかけとなった。
そこで、みんなで記念撮影!

会場に入ったら、さっそく私と山川さんは、準備していただいた英語と韓国語に訳した「布川事件とは」のチラシを来場者に配った。
井手監督が
「サブタイトルが必要だった。『ショージ』『タカオ』と言っても、人名なのか何を意味するのか、タイトルだけでは外国人には関心を高めてもらえない」
と言っていたのが心に引っ掛かっていて、少しでも映画の内容、意図するものを解っていただきたいと、一人ももらさずチラシを配りたいと思いながら・・・。

                         → つづく