えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

うごいてる!

2011-03-31 | 日記
 帰宅途中、陽も落ちた薄暗がりで電車がゆっくりと「うごいている」のを見た。

「動いてる!」

ただ、それだけで感動してしまった。
そういえば、明日から常磐線の普通列車のみだけれど、上野ー勝田まで再開と聞いている。

よかった・・・

日常へ近づいて行くことへの安堵感のような、そんな気持ちを抱いた・・・。

未知への挑戦

2011-03-31 | 日記
     


今日で職業人としての制約が解かれ、明日からはすべてが自己管理、自分の責任でという生活に入る。

それなのに・・・今、少し戸惑いの中にいる。

本当は・・・
布川判決があって、その渦中でのんびり考える間もなくこの3月31日を迎え、4月、5月もその流れの中で・・・
と考えてきたのが、やっぱり計算どおりに行かないのが人生らしい。
判決が5月に延期となり、予定されていたものが一時白紙に戻ったように、私自身の思いもリセットして
再スタートとなった。
よく考えれば、ゆっくりと自分のこれまでを振り返ることもできるし、じっくりと夫の44年の闘いの最終局面である
判決日を迎える準備ができる。
「思いの実現」に向かって歩き出すこともできる。

だけど・・・
明日から時間制約がなくなる生活に入ると思うと・・・
う~ん・・・
「大丈夫か?おい、keiko!」って自分に問いたくなる。

夫が、私にも「やるべきことがいっぱいある」と言ってくれているけれど、私には明日からの生活がまったく未知への挑戦気分・・・。

まあ、夫との出会いそのものが「未知との遭遇」みたいなものでしたが・・・

「人間好きに」

2011-03-31 | 日記
「・・・
 ユネスコの15歳の子どもに対する幸福度調査によると、日本の子どもたちの不幸せ感がとび抜けて高いのです。
 子どもが一番嫌いなことは、あら捜しをされること、もっとも嬉しいのは、よいところを見つけてもらうことです。
 そして教育の目標はただ一つ、子どもを『人間好き』にさせることです。・・・」三上満氏

   3/30号 婦民新聞 対談 平和・文化・そして人間 (三上満さん×川田忠明さん)より


大人が「人間好き」にならなくっちゃ・・・


緊急地震速報

2011-03-27 | 日記
今回の地震で、
「緊急地震速報」なるものが、テレビや携帯電話を通じてたびたび通知されてきた。
そのシステムを理解するまで(旧い携帯を持っていたときには経験したことが無かった)私自身、少しの時間を要したが、これが、マナーモードでもドライブモードでもいきなり音がなる(それでなくては意味がないのは分かるけれど)。
病院という特殊性で、院内の使用が制限されていることから、ほとんど勤務中に携帯を手にすることは無いのだが、あの恐ろしい揺れの中で患者さんの誘導避難を経験した今回ばかりは、その後何度も何度もバッグに入れてある携帯がけたたましく「緊急地震速報」を通知して来るたび、身構え、緊張を繰り返した。

 ところが、先日、これに関する新聞記事が目に入った。
今回の地震の影響で、大地震発生前6割近かった信頼度が3割台に落ちてしまった。
しかし、それでもこのシステムをやめるわけにはいかない。
あたりはずれがあっても、心構えはその都度もって対処して貰いたい。
それが被害を最小限に抑える手段の一つだから・・・と。

 余震に怯える私たちが、その「あたりはずれ」を体験し続ける中で、
「緊急地震速報」が鳴っても、「あれだけのものは来ないだろう」という気持ちになりつつある。
まさに「オオカミが来た」状態だ・・・。
幸い、我が家も、本箱や食器戸棚が倒れるのを防止するための金具を夫がつけてくれ、
それなりの対策ができて不安感は減った。
団地の4階にある住まいでも、やっと眠れる生活になりつつある・・・。
病院の中も、「余震慣れ」の雰囲気が出始めている。
それでいいのかという不安と、それでなくては前に進めないという現実が混在しながら・・・。

 大阪に行っている夫が、
NHKの地震速報を見て電話をくれた。
「大丈夫か?」と。
「大丈夫!でも、怖かった!・・・」

「こっちはまったく心配ない。安心して夜も休めているよ。」


いつまでこの余震が続くのだろう・・・。
水戸市内は、半壊状態の家が、全壊になってしまったと思われる家も目に付く。
「緊急地震速報」を要するまでにはなっていないが、今現在も余震で体が揺られている・・・。

水戸で、こんな状態なのだから、避難所で暮らしている方々ややむなく集団移転をされる方々、やむなく危険な自宅に残られている方々の不安はいかばかりかと胸が痛む・・・。

実は・・・

2011-03-27 | 日記
判決日が「5月24日」と確定した日・・・

夫から私に連絡が無かった


「22日には確定する」と週末に言われ、その通り22日、昼、夫からメールが入った。「判決日は5月24日」と。
だけど、夜になって「確定ではない。裁判所の都合で変更になるかも知れない」と連絡が入った。
「明日には分かる」と。

23日、仕事をしながら何度かメールを確認したが、新しい情報は入ってこなかった。


夜、夫は、食事の間中もメールをしていた。

「あと、誰かな?連絡をしなくてはいけない人は・・・」とか言っている。

「?!・・・決まったの?」

帰宅したとき、顔を見るなり私が先に確認すればよかったのだけれど・・・。

「えっー!私、聞いてない!メール、待ってたのに・・・」


  ・・・・・びみょう~なくうき・・・・


そりゃ、分かるよ、私だって。夫が、どれだけの人にお世話になっているか・・・。
でもね・・・
私、ワスレラレチャッタンダ・・・


 
 結局、夜、九時過ぎてから「あと、連絡をしてない人は誰?」と聞いて、私もあちこちにメールで連絡を入れた。
何故なら、「24日、変更になるかもしれません。決まったら、連絡します」としておいた方が何人かいたからだ。
翌日、新聞に出れば分かること、で済むことではない。
不器用な私は、救援会水戸支部の事務局員や、職場の仲間などメールを打ちながら親しい友人のところは10時過ぎまでかかってしまった。

 ところが、先に寝た夫が
「まだやってんの?」・・・?

それってないよね~

誰もが主人公・・・

2011-03-26 | 日記
当たり前のことだけど、

「誰もが主人公」で、自分で考え、自分で判断し、自分で歩いていきます。

もちろんそこに豊かな愛と温かな支えがあることが前提ですが・・・。

被災地、避難先で子どもたちの卒業式が行われたことが報道されています。
困難な状況のなかで、戸惑いながらも子どもたちの瞳が輝いています。

卒業式、入学式は子どもたち一人ひとりが主人公です。
記念の日、節目の日。
新しい世界へ飛び出していく一歩となる日です。


子どもたちの未来が、希望へとつながっていくものであり、力強く歩んでいけますように・・・。


映画パンフレット

2011-03-26 | 日記
映画「ショージとタカオ」のパンフレットが、上映実行委員会の皆さんの手で作成されました。

読み応えがありました。

映画の案内に、見終わった後さらに振り返っていただくために、私からもお勧めしたいパンフレットです。

 内容:イントロダクション(映像の一部が写真で掲載)
   :ストーリー
   :井手監督のコメント
   :ショージとタカオ 六十年の人生双六
   :「布川事件早わかり」
   :著名人の推薦のことば(映画監督・周防正行氏、女優・劇作家・渡辺えり氏、ジャーナリスト・大谷昭宏氏、
               作家・えっせいすと・翻訳家・池田香代子氏、弁護士・エッセイスト・木村晋介氏)
   :レビュー       横山隆晴氏(フジテレビ・ゼネラルプロデューサー)
   :インタビュー     桜井昌司×杉山卓男
   :
   :弁護団からのメッセージ 布川事件・30年におよぶ再審を支えた共同の闘い(山本裕夫弁護士)








親族・・・

2011-03-22 | 日記
ほとんど面識も無いまま、両親の代理ということで参列した告別式・・・。

代理とはいえ、自分の立場を思ったら、後ろのほうで・・・という気持ちだった。
でも、案内されたのは親族席。
本当にいいのかとあまり知る人のいないなかで座っていたら、神式で行われること、その作法の説明とあわせ
「ご親族様はそれぞれお名前をお呼びいたしますから、順に・・・」とのこと。

えーっ????? どうしよう・・・。

見渡すと、なんと大勢の方がいらっしているか・・・。
故人は大正10年生まれの方だから90歳になられた方だ。
なのに、この参列者の多さはどれほどの方だったのかと、本当に何も知らず参列している自分が、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
父の名前を言って本当に親族でいいのかと、再度担当の方に確かめたら、やっぱりいいとのこと。
すると、前の席に座っていらしたご婦人が私たちの会話が耳に入ったらしく、振り向いて、
「○○さんの娘さん?」とたずねて来た。
「はい。父と母の代理で参りました」と私・・・。

自分が知らないだけで、父も母も現在もちゃんとお付き合いのある方だったことを改めて考え、幼いころの記憶を式の間中考えていた・・・。

順番が来て、父の名前を呼ばれ、玉串奉奠も無事済んで着席したら、私の従妹の姿が目に入った。
そうか・・・

おぼろげながら記憶がよみがえって来た。

私が幼かったころ、そう、祖母が元気だったころの話だけれど、確かにお盆やお正月に必ず帰って来ていた「おばちゃん」の姿がよみがえって来た。私はよくかわいがってもらい、その「おばちゃん」が好きだったことも・・・。

でも、でも、でも・・・
その方の息子さんが90歳で亡くなられたのだ。
どう考えを廻らせても、あまりに長い時の流れがそこにはある。
私の祖母も46年前に亡くなっている。
いとこ同士の付き合いが私の両親にあったとしても、なかなか私の代まではつながってこないのも止むを得ないこと。
それでも、私は「親族」ってこんな風に繋がって来てるんだ・・・と不思議な感動を覚えた。

帰宅して、
「行ってきたよ。指名焼香でびっくりしちゃった」と言ったら、
「順番、早いほうで呼ばれたろう?」と当然のように言う。

そうだよね。
長命ということは、いとこでも元気で残っている人は、血縁は濃いほうになるんでしょうね・・・


(故人はいろいろと役職を務め、信望が厚い人だったらしい。私の職場の大先輩(10年以上前に定年で辞められている)もみえていて、
「若いころお世話になったんですよ」と言っていた・・・)