えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

父の関心

2009-10-25 | 日記
ベッドの上にいる父の楽しみは

 テレビを見ること
 新聞を読むこと
 本を読むこと・・・
 それでも、もうすっかり飽きてしまっているのだが、

21日には、足利事件の再審公判の報道を見ながら、
「布川も早く何とかならないのかな・・・」と言ってくれた。

「今日も新聞に出ていたぞ」
と、昨日も名古屋での集会の様子が茨城新聞に写真入りで出て
父のほうから話題にしてきてくれた。

 私は、毎朝、父の読みたいという読売、茨城、スポーツ報知を届けている・・・。

父のことで 3

2009-10-25 | 日記
 いつも少し離れたところに行くには、父の車に乗って用を足していた母が、父の急な入院で年金を下ろしに行くのに自転車で郵便局まで行って来た、と聞いた。
郵便局までどれくらい距離があるだろうか・・・
途中、交通量も多く、84歳になる母にとってどんなだっただろう。
「途中、狭いところもあって怖かったけど、旧道に回ったりして行って来たよ」と言う。
でも、必死だったことが想像できた。
何だか
「やっぱり私の母だ・・・」と思った。
先日、朝、電話して出なかったので、
「もしかしたら父の入院を悲観して・・・なんて急に心配になり、少し時間を置いて掛けたら元気な声が聞けてほっとした」
と夫に話したら、
「大丈夫だよ!おばあちゃんはそんな心配はいらないよ。心配性だな、あんたも」と夫に笑われたけど
本当にその通りかもしれない。

「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てる?」と言う私の言葉に
「大丈夫。ちゃんと食べてるし、寝てるよ。お風呂も沸かして入っているよ」と母。
お風呂当番は父の役割で、我が家は温水が出るようになってはいるが、薪を使って沸かすのが通常だった。
でも、気持ちがあっても、気力と体力。いつまでもこのままというわけにも行かない。
夫が、これからのことを考えてあげなくては・・・と言ってくれた。

 最高裁、早くいい決定を出して欲しいな・・・

父のことで 2

2009-10-25 | 日記
・・・・・
 木曜日までの4日間、いろんな検査が行われた。
父は「あれは上手くいかなかった。あそこは前からおかしかったんだ・・・」「今日の検査は問題なかったようだ」「今日も上手に出来て褒められたぞ」など
日々の検査名を記録しながら受けていた。

そして、
「ご家族に先に検査結果をお話したいのですが・・・」と主治医から言われ、東京に住む兄に同席してもらうことで連絡をした。
その日、土曜日、夫は名古屋に行く予定が入っていた。

 Dr.の説明は、私たちの予想をはるかに超えて深刻だった。
前立腺がんとは全く別にできた新たな癌であること。すでに転移がいくつも見られ、今後どのような治療方法があるか、本人への告知の問題・・・など、時間をしっかり取って、先生は私たちに説明し、疑問に答えてくださった。
「食が進まなくなったこと」「体重が減り始めたこと」など、前から聞いていたのに積極的に検査を受けるよう促さなかった後悔だけが私の中で渦巻いていた・・・。

 私と兄は、父の外泊許可をとって、外に連れ出した。
父と母が丹精込めて作った観賞用の菊も、今が最高の見頃で実家の玄関先を飾っているから見させてあげたかった。今はまだまだ、食べることも、歩き回ることも、それこそ普段の農業も体力に合わせて十分出来る状態なのだから・・・。

 お昼は3人で「城里産のそば粉」を使ったお蕎麦を食べさせてくれるというお店に入って一緒にした。
(父は、お蕎麦ではなくうどんだったが・・・)
聞けば、「家のそば粉も使ってるんだぞ」という。
城里町のソバ組合に入っていて、実家で作った蕎麦は収穫後組合を通じてこのお店に届けられるとのこと。
「総会は、何時もこのお店でやるんだ」・・・と。
初めて聞く話だった。

 そういえば、この夏の終わりに、夫が蒔いたソバも今収穫の時期となり、組合の人が刈ってくれ、母は父のいない生活の中で一人その作業をしたことをつい先日聞かされたばかりだった。




 この1週間、ずっと父のことで頭がいっぱいになっていました。
週末は、利根町に行く予定だったのですが・・・ゴメンナサイ・・・です。
名古屋から今朝帰り、11時には、夫にとって待ちに待った初めての同窓会(小学校)参加の予定です。
「布川事件」などという忌まわしい事件が起こるずっとずっと前の、楽しかった思い出話できっと盛り上がることでしょう。

 外泊した父は、今夜病院に戻り、あすDr.から直接説明を聞くことになっています・・・。
私も兄も一緒に・・・。



父のことで 1

2009-10-25 | 日記
「一日も早く、墓前で夫の両親に「再審無罪」の報告をしたいです。
そして、
私たちの結婚に猛反対だった私の両親も、夫の一生懸命生きる姿勢や支援してくださる人たちの熱心さなどに触れ、今では一番の理解者になってくれています。
すでに80代も半ばになり、そんな両親にも早くいい結果を得て、安心してもらいたいです。」

10月15日、最高裁要請で、私はそんな訴えをしてきた。

 その夜、自宅に帰ると母から電話が入った。
「お父さんが癌らしいんだよ。精密検査をすぐにするようにって、診療所の先生に言われたんだ」・・・と。

 いつまでも元気でいられる保障なんてどこにもないことぐらい覚悟はしていたものの、母の電話はやっぱり私を慌てさせた。
 翌日、私は紹介状を持ってくるという父の受診のことを担当スタッフに相談し、月曜日に予約を入れてもらい、お世話になっている診療所へも母に代わって電話をいれ、その旨を伝えた。

 月曜日、夫は数少ない仕事の日だったが、勤務先に無理を言って休みをもらい、父を病院まで連れてきてくれた。
長く前立腺がんで治療を続けてきて、ずっと「異常ありません。順調です」と言われていたこと、診療所にだって高血圧の治療で毎月行っていたではないか・・・。食が進まず体重が減ってきていることは聞いていた。そのことにきちんと対処しなかった悔いが私にはあった。
 でも、私は、対応してくださるDr.や看護師の真剣な表情を見ても「ことの深刻さ」をまだ本当には認識できないでいた。

 父は、外来で受診後、そのまま「検査目的」といことで入院となった。
私は、午後から休みをもらい、昼食抜きで付き添ってくれていた夫と交代した。
実家に戻り入院に必要なものを母から預かり、病室に揃えた。
病棟のスタッフもみな私にとっては顔見知り。でも、父への対応が私から見たら異常に丁寧だし、細やかな配慮があり、それが何か「深刻さ」を語っているようで私の不安が膨れ上がっていった。

・・・・・・・

松川事件60周年記念集会に

2009-10-18 | 日記
 松川事件60周年記念集会が福島大学を会場に行われ、
救援会水戸支部と茨城県本部共催で、松川ツアーを計画し28名で参加してきた。
昨年、水戸支部で同様に企画し、福島県本部、元被告の鈴木信さん、阿部市次さん、地元の会の皆さん、伊部先生に大変お世話になり、私自身は松川事件について「もっと知りたい」という強い思いになっての参加だった。

 参加して、昨年とはまた違った大きな感動を覚えた。
事件から60年経っても、主催者の予想をはるかに超える1200名余の人たちが熱い思いで全国から集まってきている光景は、正に

「風化させないで、語り継がれていくべき事件、運動、教訓」

なのだということ、その引き継がれたものが布川の運動にも大きく生かされているのだと実感できた。
夫は「訴えと歌」の時間を15分、それも2会場でいただいた。

弁護団の三浦先生の事件の概要と現状のお話のあと、夫は

「布川事件も勝ちます。勝って、今も獄中で闘っている仲間のためにも歴史にのこる闘いを続けます」

と挨拶をし、自作の「帰ろ、帰ろ」を歌った。

 私は、赤間さんの「嘘の自白から、裁判で真実を証言するまでの経過」の報告に胸が熱くなった(写真)
終始うつむき加減だった赤間さんに阿部さんが「赤間君が真実を述べてくれて、大きく裁判の方向が動き勝利へ向かっていった」とフォローされる姿に、
昨年、同じように鈴木さんから「赤間君も権力によって自白させられた同じ苦しみを持つ仲間として団結してみんなが闘いぬくこと」に力を注いだ、と
お聞きしたときの感動がよみがえってきた。
布川事件にも重なる部分があるから、赤間さんを思う松川の皆さんの教訓が私の胸を熱くしたのだろう。

 松川資料室の存続も希望がみえたようなお話があり、私まで嬉しくなった。
やはり、これも松川に寄せる全国のみなさんの熱い思いが福島大学学長さんに届いたのだろう。
また、ゆっくりと伺わせて頂く機会が欲しい、そう思った。


 実行委員長の大学一先生が、事故の犠牲者となった遺族のお宅を訪問され、集会のお話をされたら「行ってみます」と言ってくださったというお話、
地元では中学生が「松川の塔」の見学、周辺の草取りをしているという報告、どれもが胸を熱くするものだった。

 事件から60年、元被告とされた方の多くがすでに他界されているとのこと。
鈴木さん、阿部さんほかみなさん、いつまでもお元気で、と祈りつつ集会参加に大きな充実感を持って帰水した。

お百度参りじゃない・・・

2009-10-15 | 日記
 最高裁の決定がいつ出るか・・・
夏ごろから、今日か、明日かの思いで日々を重ねてきた。
7月も、8月も、9月もこれが最後の要請であって欲しい。次回要請日までには決定が出て、最高裁に行く必要がなくなるかも知れない。そう願いつつ、この1ヶ月間も最高裁の動きが全く分からないまま、今日の要請日を迎え、私は東京行きの高速バスに乗った。

今日の要請で何を訴えようか・・・
今日こそ最後の要請になるのだろうか・・・
私の頭の中はそのことでいっぱいだった。

 昨年7月、東京高裁は、05年9月の水戸地裁土浦支部の「再審開始決定」を維持し、水戸地検の即時抗告を棄却した。引き続いての夫たちの勝利決定だった。
いよいよ夫たちの願い通り「裁判のやり直しが始まる」、と喜びに湧いたのも束の間、東京高検は無慈悲にも特別抗告という手段でまたも開きかけた再審の扉の前から夫たちを引き摺り下ろしてしまった。
こんな検察のやり方を最高裁が認めてしまうのか、それとも夫たちの42年に及ぶ無実の叫びに応えるものとなるのか・・・。
人間の尊厳をかけたこれまでの闘いが、「特別抗告棄却」という勝利を導くものであることを願いながら、この1年3ヶ月、毎月要請が続けられた。
01年12月、水戸地裁土浦支部に再審申立をしてからすでに8年10ヶ月である。
守る会を中心としたこの裁判所要請行動は、どれだけの回数を重ねてきたのだろう。
毎月、毎月、毎月・・・。その積み重ねの力は間違いなく裁判所に「真実と正義を求める声」として届けられた。
しかし、なぜ、こんなに時間を必要とするのだろうか・・・。あと何回足を運べばいいのだろうか・・・そんなことを考えていたら

「お百度参りじゃない!」

そんな言葉が口から出てきてしまった・・・。

。。。。。

最高裁16度目の要請・・・
今日も、16名がそれぞれに思いを訴えた。
誰もが、「今回の要請が最後になることを願って」
    「一日も早く、一時間でも早く」の思いを持って.
    


柿の木に上って

2009-10-15 | 日記
夫は、本当に『柿』が大好きだ。
『好きなものには目がない』とはこういうことか、と夫を見ていて、本当にそう思う。

私の実家には、古い大きな柿の木が何本かある。先日も、「柿取りに行こう」と出かけて行った。予告なしに行ったこともあり、父も母も庭に出て仕事をしていたのだが、母は私たちのために直ぐに家に入り、リンゴを剥いて、お茶の用意をしてくれた。残り物だけれど、と栗の入ったお赤飯も出してくれた。
 それなのに、夫は直ぐに柿の木の下に行って割りバサミで柿取りを始めていた。私も一緒にやろうとしたが、夫は高いところに届かないと言って、脚立を持って来て、それから柿の木に上ってしまった。
下から見ている私はハラハラドキドキ!

高いところからいくつも手で捥ぎ取っては、下に落とし、私にちゃんと拾い集めて置くように、それも、見落としの無いようにと言う・・・。
「一個や二個ぐらい、いいじゃん。こんなに取ったんだから・・・」と私は小さくヒトリゴト・・・。

 我が家の柿は、甘いが「ちっちゃい」。私は子どものころから、これを食べて育ったから柿ってこんなものと思うのだが、夫には、それが物足りないようだ。それを察した母がまた気を遣って?、別の場所にある少し大きな『百目柿』を取ってきて持ち帰る中に加えてくれた。

そういえば、夫は「柿は自分で剥く」と以前に私に言ったことがある。
「あんたは、皮を厚く剥きすぎるから・・・」と。ほかの果物では、絶対言わないのに・・・。それに、私の剥き方は「フツー」だと思うのだが・・・。
それだけ「本当に柿が好き」ということのようだ・・・。
今年、夫の家にある柿の木の柿は、先日の台風18号の風で全部落ちてしまったと、とても落胆していたことを思い出した・・・。

柿の木から、無事下りてきて何事も無く済んでほっとした。今、大事なときだけに、こんなことで怪我などしているわけには行かないのだ・・・。

夫は、それから、
父に、蛍光灯の交換、台風で傷んだビニールハウスの修理を頼まれて手伝ってくれた。ちょっと顔を出すだけでも、何かやってあげられる事があるんだな、と改めて思う一日だった。

※写真は、柿の木に上っている夫ですが・・・柿の葉っぱの中に隠れてしまって分からないですね

悲しみを乗り越えて・・・

2009-10-11 | 日記
茨城県第20回解放戦士合葬祭が行われた。
これは
 日本の進歩と革新、平和と民主主義を守るたたかいの途上で亡くなられた茨城県にゆかりのある人々を、解放戦士の碑に合葬し、遺族と共に個人の業績を讃え、その意思を受け継いでともに歩むことを誓う行事です。

 今年で20回目という。私は、まだ2回目の参加だが、今回新たに23名の方が合葬され、中に、私たちがお世話になった中田直人先生、Wさんもおられた。

 昨年の合葬祭には実行委員長をしておられた中田先生。
Wさんも、いしずえ会の事務局長として中心になってその任務に当たられていた。
なのに、中田先生は今年2月に、Wさんはその1月後の3月に逝ってしまわれた・・・。

悲しい別れが続いた今年の前半だった。

 今回、個人の遺族、縁のある方たちが一同に会し、個人の生前の活躍やエピソードがたくさん紹介された。
涙を誘われる場面が何度もあったが、どなたの話も心温まるお話がたくさんあり、また、「私たちが少しでも個人の意思を継いで頑張っていきます」と話を結ばれるたびに胸を打たれた。

「まだ、父が亡くなったことを現実として受け止められずにいます」と挨拶するWさんのお嬢さん。
中学生のとき、お母さんを病気で亡くし、以来父と娘二人で頑張ってきただけにWさんの突然の他界は彼女に深い、深い悲しみを負わせてしまった。でも、彼女に寄り添う青年H君が、
「彼女を支えて一緒に歩んで行きます」と参列者の前で宣言されたときには、大きな温かな拍手が起こり、悲しみを超えて前に歩き出す若い二人を祝福する想いで会場の雰囲気がひとつになった。

文字通り、悲しみを超えて、故人の意思を継いで生きていくことを誓う、本当に「いい会だな」と私は思った。





ひなたぼっこ

2009-10-04 | 日記
gonです

watasiの仕事は
 
 食べることと
 水を飲むことと
   おしっこをすることと
   うんちをすることと
     よく寝ることです

そして、時々ノミを取るためにシャワーを浴びて、いつも体をきれいにしておくことです。

だから、
syoujiさんとkeikoさんがいてくれないと、自分だけでは生きていけないのです。

なのに、なのに・・・
この頃は、日向ぼっこが好きで、すぐにベランダに寝てしまい、体を汚してしまい、ノミにも好かれてしまうようです・・・。

こまった、こまった

小さなボーイフレンドと

2009-10-04 | 日記
 初めて東京ドームに行った。
勤務先の親睦会で、「東京ドーム最終戦・巨人広島戦観戦ツアー」があり参加したのだ。
同行者は10歳の男の子。Rくん、4年生。

 実は、同じ部署から何人かは行くだろう、その仲間と行こう、と考えていたら、どういうわけか一人もいない。
声をかけても「野球?興味ないよ」と言われ、親睦会に参加したいという人も、もうひとつのコース、「よしもと」に集中しているのだ。
「よしもとに変えなよ」と言われたけれど、
私の気持ちは何といわれても「東京ドーム」。

 「同行者」がいないといくら他部署の人たちを知らない仲ではないといえ、やっぱり参加し難い。
そうこうして相棒探しをしているときに、偶然にある食事会で、夫と一緒に巨人の1軍の選手はもちろん2軍の選手の一人ひとりまでよく知っていて、楽しそうに話しているR君の姿を目の当たりにして、
「この子と一緒に行こう!」とひらめいてしまったのだ。
夫も、「それはいい!」と賛成してくれた。
「俺も行ったことないんだけどな。でも、その日は東京都本部大会だから残念だな」といいながら・・・。

 R君は少年野球をやっていて、巨人ファン。ご両親には私たち夫婦がお世話になっている。突然の私の申し出に、ご両親は驚いたことと思うが
「本人が行きたいと言っているので、よろしくお願いします」という返事をいただいた。

 そんないきさつがあっての今回の「ドーム観戦」
R君としっかり話すのは実は今回が初めて。夫を信頼してくれていることが功を奏した言えるかもしれない。

 当日は勤務先の職員が、親子、家族、夫婦、仲間同士などで参加する39名。
Rくんも初めて会う人たちに、はじめは緊張していたが、年齢の近い子どもたちがいることや大人の言葉かけに答えながらすぐになれていった。

 ところで、肝腎の「巨人広島戦」。すでにリーグ優勝は決まっているから安心して観ていられた。
初めての私は、やっぱり、行ってみなければ感じることの出来なかっただろう、あの臨場感。
なかなか応援のタイミングやリズムに乗れず、初めのうちはちぐはぐな自分に、自分でも笑ってしまったけれど、少しずつ慣れて行き、みんなと楽しみながら観戦できた。
 宇宙飛行士の若田さんの始球式も格好良かったし、阿部選手のホームランも見られたし、ライトの谷選手も間近に見えた。
両チームの守備のナイスプレーも何度もあった。
何より、このドーム最終戦を巨人軍の勝利で終えることも出来、原監督の挨拶、選手の行進もあった。

 もう一度来てもいいかな・・・
今度は夫も一緒かな?でも、夫は知りすぎているだけにきっと辛口評価で、ぶつぶつ大きな“ひとりごと”が出るんだろうな・・・
そんなことを思ったりもした・・・。

 わたしのボーイフレンドR君は、ファールボールがスタンドに入って来ないか、とグローブを手に一生懸命観戦していたがそのチャンスが無く、ちょっとガッカリしていた。
でも、「楽しかった!」と言ってくれた。

そう、そう!
Rくんが、後楽園遊園地のジェットコースターに乗りたい、それも私と一緒にと言った。
えーっ!!そんな!何十年と乗ってないよー!と言いながら・・・

・・・でも、彼のために意を決して、乗った!乗りました!楽しかったー!
次に、観覧車にも乗った。これは、彼が私の希望に付き合ってくれた。

そう!彼に、「球場の中は食べるものは高いから、マックで食べてから入ろう!」と、球場の近くのマクドナルドに誘われた。

やっぱり10歳の少年との「おでかけ」は一味違った楽しい一日となった・・・。