えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

来年もコメを作りたい・・・

2011-10-22 | 日記
父が言った。

「せめて、家で食べるだけでも、来年、コメを作りたんだがなぁ・・・。
 お前らが手伝ってくれれば、できないことはないんだが、ばあちゃんが『もう、やだっていうんだ。無理だって』。
 供出はしなくても、自分らで食べるくらいは、な・・・」と。


今年は、福島の原発事故が原因で、
「放射能汚染で、作っても食べられないかもしれない」(実際、お茶の摘み取りは行政からストップがかかった)
そう言いながら、実家では父と母のコメ作りが行われた。
田植えも稲刈りも、兄や私の息子が手伝った。
幸い、「汚染米」とならなかったことで、安堵しながら収穫の時期を迎え、みんなで新米を味わった。
だけど、父のがん闘病に加え、今年の5月からは母もがんを患い大きな手術も受けた。
もう、両親ともに体力の限界で、私たちの「手伝うから」の言葉だけでは、どうにもならないところにまで来てしまった。

今年の収穫を最後に、
「来年はコメ作りをやめる」と宣言した父と母。
そんなに広い田があるわけではないが、作ってくれる人がいるかどうか、農協に頼んでみる、と母も言った。

そして、今・・・
父は、もう、痛み止めが切れると座っていることも、寝ていることも辛いらしい。
そんな父が、薬の効いているとき、苦痛の少ないときは車も運転するし、私と一緒に買い物にも行く。
痛みに襲われるたびに
「あとどれくらい生きられるのか」と自問自答しているはずなのに、その父が言う

「来年もコメを作りたい」の言葉・・・。

それが、父の生きる希望になるのなら、来年の収穫を見られないこともありうると思いながらも、
父の思うようにしてあげたくて、私は、
「手伝うことは何でもないよ」と答えてしまった。

「田植え機も、コンバインも、乾燥機ももったいないよな・・・あるんだもんな。」と父の言葉は続く。

でも、それは、やはり父の願望でしかなく、母との共同作業がなければ無理なこと・・・。
母に三度の食事作りに加え、これ以上のことを要求するのはあまりにも酷なこと・・・。
弟が亡くなり、子どもである兄も私も同居が叶わない現実のなか、来るべきして来た選択の時期なのだ。

母には伝えずに、父と二人だけの会話で終わらせた。
一緒に住めない思いもからんで、いろんな思いが私の心の中で渦巻いていた。

隣の家でも作る人がいなくなり、田んぼも畑も雑草に覆われているのを見ながら、言いようのない寂しさに襲われた・・・。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿