えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

2ヶ月が過ぎて

2012-04-30 | 日記
 ここに引っ越してきて2ヶ月が過ぎた。
何だか、もう、ずーっとここに住んでいるような、そんな気分に時々なる。
それは、静かに、家に籠って何かをしているときだが、実は、窓を開けていたり、近所の子どもたちや、住人の声、車の音などで、
「あっ、そうだ。ここ○○町だったんだ!」と我に返ったりしている。
毎日のように、隣の空き地(畑)には、雉が来て、「ここに来ているよ!」と言わんばかりにけたたましい鳴声も聞かせてくれている。
やっぱり、「若宮」とは違った住環境だ。

 この連休、どこかに出かけようと気を遣ってくれる夫と、敢えて混雑するときに、混雑するところへは・・・と、消極的な私・・・。
時間に拘束されて生活していたこれまでとは、違った心境が生まれてきている。
家で、草取りしていても楽しいし、片付けしていても楽しい。
小休止していた整理、片付け・・・
また、始めなくっちゃ・・・。
ニュース、写真、新聞記事、守る会資料など、など・・・
そうそう!
夫の衣替え?の準備も。

一月早く、夫は半袖を着始めました・・・。


ごめん!

2012-04-22 | 日記
夫からの電話。

「俺んとこに手紙来てる?」

いきなりの問いかけ。
明らかに急いでいる気配・・・。

「中味は分からないけど来てるよ」

「何で、俺に見せなかった!」

「だって、あなたが出かけてから届いたんだもの・・・」

「分かった。じゃ、仕方が無い。届いてるんだな!」

「開けてないから、その内容のものか分かんない」

「何で開けないの!あんたの名前なんだろう?あんたのところへ送った、と言ってる」

「私じゃない。あなたの名前だったから、開封してない」

「いい。届いているんなら。後で知らせて」

・・・・・・

確かに聞いていた。
「送りましたから、あとで、見てください」と。
それが届いた事もちゃんと認識している。
でも、夫宛だったし、私が聞いていたのは急ぎのものではなかったはず。
ところが、中には、私が聞いていたものと一緒に、明日予定されている企画の案内と会場の地図も同封されていたのだ。
そんなこと、分からないもん・・・
いきなり
「何で、俺に見せなかった?」と言われても・・・。

 でも、明日の事だから、まだ、間に合う。
今夜、夫は、熱海での全国裁判交流集会に参加するため、水戸にも北松戸にも帰らない。
明日、その会場に直行となる。

送られて来た内容を、メールで知らせた。
ところが、今度は送信してから、ドキッ!!!
午後2時!

あ~、失敗!
2時。
講演開始時間だった!・・・
タイミングが悪かった。
電話の向こうの「イライラ」が蘇ってきた・・・。

夫は、メールは後で見てもいいはずなのに、人と話している間にも着信に気付くとすぐ確認したがることを思い出した。

う~ん・・・

ごめん!と言うしかない・・・

光政さんのコンサート

2012-04-22 | 日記
    佐藤光政コンサート
   ♪古希・新たなる我が青春♪

 が、五反田文化センターホールで行われた。

 光政さんは夫の恩人とも言うべき人。
獄中での夫の作詞・作曲を導いて下さったばかりか、夫の作品を毎年「布川事件支援コンサート」と銘打って、「壁の歌コンサート」を開いて下さり、夫の作品を社会の皆さんに広めて下さり、えん罪・布川事件支援をして下さったのだ。
刑務所にも面会に行って下さったと聞いている。
仮釈放になってからは、夫の作品をCDにして下さり、また、守る会の代表世話人もお引き受けくださった。

 その光政さんが、今年、古希を迎えられるという。
今ももちろん現役のバリトン歌手。声楽家としてのお忙しい日々を過ごされている。

 昨日のコンサートは、「古希にしてますます美声輝く光政さん」のお姿だった。
二時間半、ステキな時間を過ごさせていただいた。
会場にいた夫の姿を見つけて、喜んで下さった。

 私にとっては、私が二十歳の頃、コンサートで知った光政さんのイメージが強く、どんなに親しく声を掛けていただいてもコチコチになってしまうような存在の光政さんだが、いつも夫ばかりでなく私も含め守る会の皆さんにも温かく細やかな心配りをいただいている。
昨日、コンサートの中でも救援会のこと、えん罪の事をマイクを持ってお話された。
だからファンの中にも布川事件への関心を持ってくださっている方が多く、会場では夫の姿を見つけて走り寄ってきて
「よかったですね。おめでとうございます」
と、何人もの方に声を掛けていただいた。

光政さん無くしては、夫の名曲も生まれなかった、そう思える・・・。
「母を歌う」の章では、
 「無縁坂」「ヨイトマケの唄」と一緒に、夫の作った「母ちゃん」も歌ってくださった。(この時点で、光政さんは夫が会場にいることをご存じなかった)
その「母ちゃん」の曲が流れている間、会場には目にハンカチを当てている方も多く、
母への思いを精一杯心こめて作った夫の作品を、光政さんの力で、名曲といわれるまでに完成させていただいている・・・。
そんな感動を覚える瞬間でもあった。
「いい歌だね~」と、曲が終わったときに、思わず夫と口をそろえて言ってしまった。

 出会いによって夫は助けられ、救われた。
そして、それは今も変らず続いている。
私もその同じ空間を体験している・・・。
コンサート後の、仲間との飲み会も含め、それを実感するそんな一日となりました。
 

11年目

2012-04-20 | 日記
弟の命日だった。

この時期を迎えると、いろんなことが想い返される。

あの年のさくらの美しさ
ベッドサイドでの弟との会話
亡くなる前の夜のこと
翌朝の最後となった会話
急変の知らせを受けて駆けつけたときのこと
蘇生術をただ見守る事しかできず立ちすくんでいた事

そして・・・
永遠の眠りについた弟の最後の姿を目に焼き付けたこと。

夫が来て、私の子どもたちが来て、両親が来て・・・

父が夫に言ったことば
「すまないが、家まで来てくれるか?」

私たちは、弟と一緒に2年振りに実家へ帰った。

その夜、父が、
「こんな時でなんですが、keikoの連れ合いのsakuraiです」と、初めて夫を組内の人たちに紹介してくれた・・・。


・・・・・・・・・

あれから11年。
弟の死をきっかけに、私たちは両親からの勘当が解かれ、新しい親子関係を築いてきた。

夫は亡くなった弟の代わりに、「娘婿」として両親に尽くしてくれた。
そして、昨年5月。
「無罪判決」を両親に報告してくれた。
長い時間がかかったけれど、一番心配を掛けていた両親への最高の報告が出来た。

今日、
墓前で弟に
「ありがとう。これからも見守っていてね」と手を合わせながら語りかけた・・・。
「足が痛くて歩けないから、お墓には行かない」と言う母のこと、
病の進行と闘いながら、自宅療養で頑張っている父の事を思いながら・・・。




踊るチューリップ?

2012-04-20 | 日記

朝起きたら、前日生けたチューリップが、こ~んな形で…。

外出して戻ったら、またまた踊るように形を変えていた。

花瓶が適当な大きさのものがなく、無理やり口の狭いところに押し込んだことに抗議されてるような…。



改めて生け直したら、今朝は、
こ~んな形に!?

やっぱり

踊りたかったのかな?

「ショージとタカオ」、今度は「本になりました」

2012-04-18 | 日記
                               




井手洋子監督著
 「ショージとタカオ」が近く書店で発売となります。(4/21発売予定)
  発行元の文芸春秋から、一昨日、一足先に夫の元へ送られてきました。

 映画で描ききれなかった事や、長い期間を要したため、井手監督自身も苦しんだ時期があったこと、当事者2人の関係などなど、映画をより深く理解できる内容が満載です。

私からもお勧めします。

ぜひ皆さん、手にとって読んで下さい。

  

少しでも多くの人に

2012-04-18 | 日記
映画「ショージとタカオ」を観ていただきたい。
そんな思いで千葉県市川市まで出かけていきました。

 上映主催者の日本国民救援会市川支部のみなさんが、

   上映成功へ ープレ企画ー
     桜井恵子さんと語ろう

という企画を組んで下さったからだ。


 初めに、昨年の5月24日、布川事件の再審「無罪判決」日の、一日を追った映像が流された。
その映像を見ながら、あらためて
「あの無罪判決の日」から、夫の新しい生活がはじまったんだな・・・と思った。
まもなくその記念すべき日から、一周年を迎える・・・。

明らかに夫の心境に変化が表れてきた。
「安らかな日々」と、夫自身が言っている様に、私たち夫婦の間にも穏やかな時間が流れている。
それを思うと、44年間背負わされ続けてきた「えん罪の苦しみや重み」がどれほどのものだったか、その重荷から解放されるということが、
如何に望まれていたことなのかと思わないわけにはいかない。
その深刻さ、重大さを、今一度みなさんに一緒に考えていただき、今も苦しんでいる方への支援の強化と、二度とえん罪被害者を生まないための運動を強めるためにも
映画「ショージとタカオ」をぜひ広めていただき、たくさんの方と観て頂きたいとお願いした。

「生のお話が聞けてよかったです」
「重いだけの内容だと思って、あまり積極的に観たいと思わなかったのですが、誘いあって映画に行きたいと思いました」
「涙を流しながら聞きました。映画の見所も聞いて一層、観たいと思いました」
「上映日も来ていただけませんか」
など、嬉しい感想を聞かせていただきました。

 少しずつ、皆さんに伝わる話が出来てきているのかなと、安心しました。

 29日、もう一度会場へ行きたい気持ちに、今、なっています。

市川支部の皆さん、
ありがとうございました。
上映成功をお祈りしています。

上映は

 4月29日(日) ①10時~  ②13時半~ 市川市文化会館地下ローズルーム
         入場料1000円(当日券も1000円)

    です。

時の流れ

2012-04-15 | 日記
 私が水戸市民になってどれくらいになるだろうか・・・。
今日、歩いて40分、車で2時間半、通常郵送している救援新聞の配達(直接、会員さんと顔を合わせたいと思って)のため、市内を回った。

 少し風が冷たかったが、晴れた天気の中、住宅街を歩いたら、家々の庭の花や花木がとてもきれいで「春」を楽しむ時間となった。
歩いてみると、車では気付けない新たな発見も生まれる。
特に、この地に引っ越して間もない私には、「探検気分」でわくわく! 花を見て、るんるん!
太陽と春の風を受けながら、「うん!これぐらいなら、歩ける!」と少し自信も持てた。
やっぱり、歩くって、気分いい!

 車で回ったところは、なぜか、何度も行ったことがあるところなのに、ふっと遠い記憶が蘇ってきた。
学生時代生活していた所は、当時は校舎と寮があったが、今は、まったくその形を変え、校舎は看護専門学院となり、寮は無くなり、校庭には県の住宅が建っている。
学生時代がなつかしく思いかえされた。

 初めて社会人になり、保母(保育士)として勤めた保育園の周囲では、受け持ちの子どもたちの家庭訪問した記憶が蘇ってきて、
一人ひとりの顔が思い出された。
「あの子は、今、いくつになったのかな?」などと、ふと、思ったりしながら、住宅地を通り過ぎた。

 昨年まで勤めていた、病院の周辺も歩いた。
元同僚の家の前や、病院の建物を見ながら、もう、すっかり「違う空気、違う世界」で生きている自分を感じた。
時間に追われたあの頃の生活が、今では「とても遠く」感じた。

 高校生の頃、自炊生活をしていた近くも通った。

新聞は、それでも会員の6分の1しか、今回は配れなかった。
次は、地域を変えて、また時間が有るとき回ってみよう。

 今日、会員さんと話せたのは、少なかったが家を覚えただけでも、収穫あり!と思う事にしよう。
会って、話が出来たところでは、さといも、ほうれん草、庭に咲いていたスイセンやチューリップのお花などいただき、夜の食卓が豊かになった。
 こういうお付き合いが大事なんだろうな・・・。
日常的に繋がって、「顔の見える」関係が大切なんだろうな・・・。

 今日は、何だか「記憶の中の市内めぐり」をしたような・・・。
そんな半日でした。

訃報

2012-04-14 | 日記
 突然の別れがあった。

 1ヶ月前お会いしたときに、「陶板浴はいつ行っても入れるの?今度行ける時に電話をするから」と仰っていたOさんが、もらい火による?火災で亡くなられたというのだ。

 その日、ちょうどその時間、私は救援会水戸支部の会議中だった。
Oさんのことも話題に上がっていた。

Oさんは、82歳。
10年前、水戸支部再建のために動き出そうとしていた私たちを、県本部常任委員として、本当に丁寧に根気良くご指導いただいた大先輩で大恩人だった。
やっと、やっと県本部から独立し、独自の活動を展開できるまでになった水戸支部。
Oさん無くしては語れない。

足が不自由になり、少し体力も落ちてきているように見受けられて、陶板浴をお奨めしたのだが、「前から行きたいと思っていたのだ」とのこと。
そんな矢先の訃報・・・。

 会議のあった翌朝、新聞記事にあった「火災」「身元確認中」の文字に、
妙な胸騒ぎを覚えたのは何故だったのか・・・?
足が不自由・・・
逃げ遅れてしまった?
まさか、Oさん、てことはないだろう・・・

でも、・・・。
その日の昼ごろになって救援会関係者から、Oさんが亡くなられた、という連絡が入ったのだった。

  ・・・・・・


 昨日の御通夜、本日の告別式に夫と参列した。
0さんの「世の中を良くしたい」「国民が主人公となる社会を」「人権と民主主義が守られるように」等等、平和と民主主義、革新運動に生涯を投じたお話を聞き、改めて尊敬と感謝の気持ちでいっぱいになった。
訃報は突然で、それもあまりに残念な形で、悲しみいっぱいだったが、
Oさんがたくさんの人たちに、数知れない教えを遺し、それを引き継いで行こうとするたくさんの参列者を前に、悲しみだけでない「お別れ会」となったことに私は安堵していた。
私も、その一人なのだという強い自覚をもてたから・・・。

 おりしも陽気は穏やかで桜は満開。
Oさんは満開の桜に見守られ旅立って行かれた・・・。




「救援運動とは、ということで、常に私たちを原点に立ち返らせてくださった。

新聞社の姿勢

2012-04-07 | 日記
 こちらに引っ越して来て、新聞を重ねてとるようになった。

 夫が、朝起きて一番にするのは4紙すべてに目を通す事だ。
私はその間に朝食の準備をする。
2人で朝食を済ませると、こんどは食事の片付けは夫が、わたしが、全紙に目を通し、目に付いた記事を切抜きする。
これが日課となった。

 そんな中で私は初めて気付いたことがある。
同じ記事でも、新聞社によって全く扱われ方が違うという事だ。
そこに新聞社の方針、カラーがある、ということなのだろうが、1紙しか読まなかったら決して「気付けない」事もあるのではないかと。

 えん罪についても、司法制度に関する記事もその扱われ方について、布川事件の渦中にあったときは気付かなかったが、今、一歩ひいて第三者的に他の事件の進行具合を報じる記事を目にするたび、明らかに違いを感じるのだ。

そういえば・・・
「布川事件」もマスコミが集中するようになったのは、本当に再審開始決定が出てからだった。
良心的に、ずっと早い時期から「追い続けて」くれていた記者さんの中には、
「転勤が決まったのですが『布川事件だけは最後までやらせて下さい』と頼んで、認めてもらいました」という方もいたし、
関西に転勤になった方は、
「判決の日には、休みを取って裁判所に駆けつけます。自分の目で立会い、最後まで書きたいのです。」という方も。
「編集会議で、シリーズを組むスペースを割いてもらうために頑張りました」と言う方もいた。
記者さんも「たたかい」なんだな・・・。

良くそんな事を思ったものだった。

 今回、「4.1集会」の記事がY紙に全く触れられてなく、自分が見落としたのかと慌てたのだが、

「原発賛成ってとこが、反対集会の記事載せないの当然だろう」と夫が私に言った。

「えっ?! だって、ほかは、ちゃんと記事になってるよ!いくらY紙だって、一行も触れて無いってこと、ある?」

・・・・・・・

今朝のY紙。
確かに、社説にはっきりと
『脱原発からの決別が急務だ』の見出しがついていた。

でも、でも、でも・・・
事実は事実として報道してこそ、マスコミの公正というものでは無いだろうか・・・。

Y紙を購読している両親と、4.1集会の話をしようと思ったが、そのような集会が茨城で行われた事を全く知らないでいる姿を前に、
「新聞(商業紙)はどれでも同じ」ではないことを改めて実感。

Y紙、好きな記事もあるんだけどな・・・。