えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

夫の思いに応えて・・・

2013-11-19 | 日記
 夫のところにはいろんな方から手紙が届く。
獄中からも届く。
昨日はW刑務所に服役中だという女性の方(30代)からのものを夫から読むように渡された。(ふだんは、ほとんど夫が自分で判断し、自分で返事を書いているのだが)
 
夫は、その手紙と一緒に「えん罪ファイル」NO.20の掲載記事を見せてくれた。そこには、

 やはり「虚構の事件」だったのか?
「人工呼吸器外し患者殺害」事件で
 注目の新鑑定!

と、大きな見出しが書かれていた。

 そして、小見出しには、
「人工呼吸器外し患者殺害」事件で、注目の新展開があった。その第2次再審請求審で、この事件はそもそも「事件」ですらなかったことを示す新証拠が弁護団より提出されたのだ。」

とあり、患者Aさんの「死因」は、「人工呼吸器のチューブを外したことによる急性の心停止」では説明のつかない所見があったことが、新たな鑑定であきらかになったとあった。

事件の概要は以下のように書かれてある。

「2003年5月に入院患者の男性Aさん(72歳)が亡くなった一件をめぐり、看護助手の〇〇〇〇さん(逮捕当時24)が翌04年7月、「看護助手の待遇への不満」からAさんの人工呼吸器のチューブを外し、殺害したことを「自白」して殺人の容疑で逮捕、起訴された。〇〇さんは裁判では自白を撤回、無実を訴えて最高裁まで争ったが、07年5月に上告棄却され、懲役12年の判決が確定。有罪証拠は事実上、〇〇さんの捜査段階の自白だけである上、その自白は変遷が激しく、荒唐無稽な供述や客観的事実と矛盾する供述が散見されたにも関わらず、裁判官たちが〇〇さんを有罪と決めつけた事件である。」


 私は、「看護助手」という職種と
「待遇に不満」などの理由で患者さんを殺害などするか?と思った。
私も病棟経験はないが看護助手だった。たくさんの仲間も知っている。「待遇への不満」はあったとしても、患者さんを殺害するなんて決してない。
まして20代の〇〇さんだ。おそらく、看護師への希望を持って、「好き」で選んだ道ではなかったのか?

 夫はさっそく返事を書いた。そして、
「獄中詩集(〇〇さんの希望)と『ショージとタカオ』を一緒に送ってあげて。手紙もそこに入れて」と言った。

「この本読んだら、私のことにも関心持ってくれるかもしれないね。中に、私が看護助手だったこと書いてあるからね」と私。
「そのことは手紙に書いたよ。」と夫。
続けて
「それに『北陵』(クリニック筋弛緩剤えん罪事件)とも共通するものがあるかもしれないからね」とも。

 夫が、手紙を読ませてくれた理由を知った思いだった。

東京に向かう夫を赤塚駅に送り、その足で赤塚郵便局に行った。
そして、〇〇さんの封筒に書かれてあったW刑務所のあて先と〇〇さんの名前を、意識して書いた・・・。


 まだ〇〇さんのこと、事件のこと、ほんの入口しか知らない私に現段階では何も言えないが、もっとこの事件のことを知りたいと強く思った。
何故なら、患者さんの亡くなるのは、病院では通常ありえること。
それを、死因を徹底して究明することなく、安易に「殺人」と断定して捜査が進んでしまっていることは絶対許されないことと思うからだ。

 守大助さんの動機も、「病院に不満があったから」と裁判で認定されたのだ。
全く同じ理由だ・・・。


 

千葉刑務所へ2

2013-11-06 | 日記
 千葉刑務所は夫が17年半いたところです。
夫もえん罪被害者だったのです。
拘置所にいた期間も含めると逮捕から29年間という、とてつもなく長い期間でした。
二十歳で逮捕された夫は、仮釈放で出てきた時は、49歳になっていました。

 そして、裁判のやり直しが認められ、無罪確定するまでさらに15年を要し、人生の大方を国家による過ちのため、自由を奪われたままだったのです。

 その夫の服役していた千葉刑務所へ、夫とともに訪れたのです。
でも、再審無罪になるというのはこういうことなのか・・・と思いました。
夫が、知っている(服役中世話?になった)刑務官何人かの方に挨拶したら、皆さんが気軽に応じてくださり、
「テレビで見てたよ」という方も・・・。
和やかに談笑する夫たちを見て不思議な気持ちになりました。

 でも、それは、夫が理不尽な拘束を受けながらも、「真実を貫いた生き方」を通してきた証のように思えたのです。

守大助さんも、まじめで誠実さが表れていました。
一日も早く、千葉刑務所から救い出さなければなりません。

千葉刑務所へ1

2013-11-06 | 日記
 初めて仙台北陵クリニック筋弛緩罪冤罪事件被害者の守大助さんに面会して来ました。
夫と守大助さんを支援する会のOさんと一緒です。
大助さんは、現在千葉刑務所に服役しています。

 今となっては、信じられないような真実が明らかになっています。
当時、あれほど大々的にマスコミが報道した「筋弛緩罪殺人事件」はまぼろしだったのです。

 急変した患者さんの原因が判らなかった。

 それは、当時、病名そのものが医師の間でも認知、浸透してなかったことが原因で、今なら、明解に説明がつくもの。
その一人の患者さんの急変がなぜ「殺人事件」として捜査されることになったのか?
筋弛緩罪による薬効とは矛盾する患者さんの状態が克明に記録されていたというのに。
その前後で急変した患者さんみんなが「筋弛緩罪」によるものだと、何を根拠にそう捜査が進んで行ったのか?
主治医の診断、看護記録には何一つ不自然さはなかったというのに・・・。
守大助さんが犯人にされたのはなぜか?
そもそも動機のない殺人事件なんてありえないはずだった。
患者さんの血液や尿から筋弛緩剤が検出されたという大阪科捜研の鑑定書も、あまりに不自然なもの。
その不自然さを裁判官は見落とした。

大助さんは、裁判で無実を訴えた。
でも、裁判官は大助さんに「無期懲役」を言い渡した。

 全く事件性の無かったところで、「殺人事件」の犯人とされてしまい、裁判官にもその真実を見抜く力がなかった。
大助さんは29歳だった・・・。
そして、現在42歳。

こんな恐ろしいことがあっていいはずがない。

でも、これが現実。
千葉刑務所の面会室で、確かに大助さんは私たちの目の前、アクリル板の向こうにいたのです。
どんなことがあっても大助さんは無罪となって釈放されなければなりません。
そして、「国」は大助さんに謝罪しなければなりません。


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刑務所では、

 重苦しい面会となってしまうのかと心配でしたが、何度か手紙を出していて、大助さんからも返事をいただいていたせいか、初めてという感じはなく、あっという間に20分という時間が過ぎてしまいました。
 大助さんは、とても元気でした。
夫が「中」のことを知っている人間ということ、また、二回目の面会ということもあり、夫と率直な思いをぶつけ合う姿が印象的でした。
「30代は無駄になってしまいました」「無駄じゃなかったと思える日が必ず来るから、一日々々を精いっぱい生きてみろ」
「僕なりに考えてやっています。だけど、ボクはやってないんですよ」
「焦るな」「両親が元気なうちに帰りたいんです」など、など。

 雰囲気的には明るい会話でしたが、言葉の一つ一つが「当事者の苦しみ」そのものでした。
そして、私たち支援者からの情報をとても心待ちにしている様子をうかがい、もっと密に正確な情報を届けることが大助さんを励ます力になることを知りました。
 

 想像ではなく、生きた人間「守大助さん」に会い、20分間の限られた時間を共有し、別れ際には「またね」「元気でね」と言ってアクリル板を挟んで大助さんの掌にハイタッチ。
表現しようのない感情のまま、面会室を後にしましたが、支援の迅速化、拡大の必要性を一層強く感じながら帰途につきました。

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