えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

88歳の誕生日まで・・・

2012-05-29 | 日記
 父の、
「この頃、また、死にたくなくなってきた」のことば。

病が、父を苦しめている現実はあるが、どうも私には、外見では判らないくらい「安定」して見える。
たぶん症状はあっても、「食べられる」「動ける」ことの喜びが父をそんな風に考えさせるのかもしれない。
そして、初夏の自然の力が「何かをしたくなる」思いを引き出してくれるのだろう。

 車はもう運転できないからと、手放したとたん、
「野菜の苗を買いに行きたい」
「支柱が足りないから買い物に行こう」
と、頻繁に私の元に電話が来るようになった。
それだけ、外に出て行動したいという積極的な意思の表れでもあると考え、実家に向かう。
「緩和ケア」のDrから
「思っている以上に急激に悪くなるという事も念頭においてください。そのような時は、いつでも連絡下さい。すぐ対応しますから」と説明を受けていたのが、何だか嘘のような時間が今の父には流れているのだ。

 確かに、田舎では車がなければ生活できない。
でも、臀部に腫瘍が大きく出てきて、痛みも薬が無いとコントロールできなくなって、普通に座る事のできなくなった状態では
「もう、車の運転は無理」と判断せざるを得なかった現実があった。

 昨日は、「郵便局」に父と行った。
「もう長くないから」と、何度も口にする父に、窓口の女性が、
「その言葉、もう、何年も聞いてるんだけど・・・」と笑って応えていた。

 父は長く、この「特定郵便局」に勤めていた。
局舎の前の松やヒノキを指して、
「これは若い頃、俺が植えたんだ。ずいぶん大きくなっちゃったなぁ」と見上げながら言った。
「ダメだな、少し切ってやんなくては」と。
民営化になって、今の局長?さんも職員の方も、もう地元の人ではなくなった。
局舎の周りの樹木の手入れは、職務外だし、時間もなく手が回らないのだろう。
伸ばし放題になりつつあるその周辺に目をやりながら、私は父の若いころを思い出していた。

 でも、でも、でも、
やっぱり、益々頑固で、愚痴の多くなった父。
あ~ぁ、これって娘だから受け入れられるけど、お嫁さんだったらイヤになっちゃうだろうな・・・

「今年の誕生日まで持たないなぁ」と言っていた、数ヶ月前。
大丈夫!
このままきっと迎えられる。8月なんて、もうすぐだもの!


 そんな時間を過ごして帰宅。
「お義父さん」ってどんな人だったんだろう、と思った。
「ショージは似てきたよな」と、義父の晩年を知る支援者の方のことばが思い出され、夫の姿と重なった。

 


初めてのお茶作り、失敗!

2012-05-28 | 日記
 昨年は、セシウム残留濃度が高く1年分の実家の茶葉を放棄した。
今年はどうかと城里町の発表を待っていたところ、安全性が確認され、新聞で公表された。製茶工場も稼動していると人伝に聞き、それじゃ、「お茶摘みしよう!」と
​父と母と決めた。

 その前に、製茶工場に持ち込みの予約をしなければ、と、電話をしたら、「個人のは今年もやっていません。契約農家(組合)分だけで、それも、すべて検査をしながらやっているんですよ」とのこと。

やっぱり!
まだ、その段階なんだと了解するしかない。
なら、自分で飲む分だけ作ってみよう!と、初めて自宅でのお茶作りに挑戦・・・。

「美味しいお茶を作って持ってくるから!」

そう言って、実家の茶葉を少しだけ持って帰った。
         

早速、キッチンにたって、やってみた。
けれど、思っていた以上に難しく、それに、結果(風味・味・見た目も)も納得いかない・・・。

 悔しい。考えていたより、かなり労力いるし、上手くいかない。

           

                        

また、リベンジしたい


・・・・・

 お茶は自分の家で、と長い間そういう生活をして来た人たちにとって、
「今年もダメなのか・・・」と、原発事故によって壊された自然と生活形態への失望感でいっぱいのはずだ。
ひとたび事故が起ると、無限の被害と、人間の知恵と科学で収束させることの出来ない原発は、使用してはいけない、強くそう思う

36年のご支援に感謝して

2012-05-27 | 日記
  
                              
                


 布川事件守る会の解散総会が東京で行われた。
第36回と書かれた横断幕と活動の経過報告を受け、改めて、夫たちの支援がこんなにも長く続けられたのだと再認識し、胸がいっぱいになった。
 前日の、名張事件の再審取り消し決定の直後でもあり、再審裁判の厳しさが言われる中、「布川」の勝因がどこにあったのか、何がその分かれ目になるのか、夫たちの幸運に感謝せずにはいられなかった。

 弁護団の先生方の周到な準備、守る会の多彩な分野からの支援、企画、当事者に寄り添った地道な援助、そして、当事者二人が支援者に信頼を寄せ、依拠した、意欲的な活動。
私が関わった後半の第二次再審に向けた闘いの時間は、人間関係の面から見ても、決して順調に進んできた来た事ばかりではない。
二人を囲み、大きな、大きな人間集団がそこにでき、さまざまな摩擦、感情の行き違いによるトラブルも少なからずあった。
それでも、みなさんは二人をいつも寛容に受け止め、励まし続けて下さった。
 しかし、私が見てきたのは、希望を持って前へ、前へ、と前進し続けていく姿だった。
それだけに、そこに至るまでの、展望が見えなかった時代のたたかいはどんなだっただろうと思うと、
改めて熱いものがこみ上げてきた。

 何人かの方から、私が関わる前の初期の段階でのお話をうかがうことができた。
夫の父が、守る会の方たちとどんな交流があったのか、義父がどんな人だったのか、話の断片から窺い知ることもできた。
「父子だな」と思わせられるようなエピソードも・・・。

 特に、杉山さんの叔父さんが地元の知人と、東京の松本善明法律事務所に相談に行ったこと。
そこで出会った柴田弁護士が、杉山さんの私選弁護人になり、1審敗訴から、夫の弁護も引き受けてくださり、「裁判だけでは勝てない。日本国民救援会に支援を訴えるように」と助言をいただき、二人が支援を訴える手紙を救援会東京都本部に送った事。
その手紙に高橋勝子さんが応えて下さり、
以後、東京都本部は毎月二人への面会を重ねながら、学習会、現地調査を重ね、守る会の基盤を作ってくださった。

 それから、36年間。途絶えることなく、面会、差し入れ、署名宣伝、支援コンサート、支援美術展、裁判所要請など、など、守る会活動を発展させ、二人を励まし続けて下さった。
仮釈放になってからも、精神的援助のみでなく、多彩な企画で支援カンパを作り出し、経済的援助もし続けて下さった。

 お名前を聞いて私が知る限りでも本当にたくさんの方にご支援いただいた。
すでにお亡くなりになられた方もたくさんいる。
ひとりひとりに感謝とお礼の気持ちをお伝えしたい、と心から思った。

 昨日は、
昨年「晴れて無罪を獲得」し、真の自由を得て1年が経過した二人が、「ふつうのおじさん」になれた穏やかなの表情の姿に安堵された方も多かったと思う。
共に苦楽を分かち合って来た皆さんと、喜びを持って守る会解散となり、また、新しい歩みにそれぞれが足を踏み出す、それをご報告できるステキな1日となった。


 守る会事務局の皆さん、本当にありがとうございました。
ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました
また、参加できなかったみなさんは、それぞれの場所で、それぞれの思いで感慨に浸っていただけたかと思います。
亡くなられた皆さんは、きっと天国で共に祝杯をあげてくださっていた事と思います。

 本当にありがとうございました。


 一夜明け、夫は、水戸に帰らず、そのまま京都での可視化集会?に参加するため向かいました。

私は、仏前で夫の両親に昨日の報告をしました。

裁判所の責任

2012-05-25 | 日記
名張毒ぶどう酒事件の再審の可否の決定の日。

名古屋高裁の開廷は10時と聞いていた。
決定もすぐに出るはず。
なのに、現地に行っていた夫からいつまでたっても連絡が入らなかった。

 私は、朝からNHKをつけていた。
臨時ニュースで、
「再審開始決定」を知らせる臨時テロップが流れるものと信じて・・・。
でも、いつまで待っても流れなかった・・・。

11時のニュースで「不当決定」の垂れ幕を持って固い表情で法廷から走り出してきた弁護士の映像が流れた。
「なぜ?どうして?」の思いが走った。
奥西さんは、この決定をどんな気持ちで聞くのだろう、と思った。

夫にメールした。
「ニュースで見ました。なぜ?どうして?」と。

夫からは、
「酷い!言葉が無いよ」と返ってきた・・・。



 それにしても、最高裁が差し戻した意味が、名古屋高裁の裁判官には通じなかった…。
 「疑わしきは被告人の利益に」に働かなかった。
 冤罪被害者の人権、命までもが、こんなに軽んじられるなんて。

奥西さんの
「今後の勝利を信じます」のコメント・・・・を聞いた。

どんなに悔しかっただろう。
落胆しただろう。
なぜ?なぜ再審を認めないのだ!と、大声で叫びたかったろう。
胸の奥の怒りが抑えきれないはずだ。
でも、でも、冷静なコメント・・・。

 前回、最高裁が名古屋高裁に差し戻したとき、私は、「再審へ近づいた」と喜んだ。
しかし、夫は違った。
「最高裁はなぜ自ら『再審開始決定』を出さないのだ?」と。

今になって思う。
いたずらに時間をかけ、またもや奥西さんの再審にすがる思いを踏みにじり、奈落の底に突き落とすような決定。
いったい、裁判官は、人の命、人権を何と考えているのか?
あまりにも酷い決定・・・。

夫の言ったように、最高裁は名古屋高裁に差し戻すことなく、あの時最高裁の責任として「再審開始決定」を出すべきだった。
責任逃れをした最高裁の判断を、一時でも、よかった、と思ってしまった自分の判断を恥ずかしく思う。

1審で無罪、2審で死刑。
そして、やっと
第7次再審の1審で「再審開始決定」
いかし、同じ高裁でまた「決定取り消し」

そして今回だ。
何度、何度、奥西さんの無実の叫びを弄ぶように、裁判官は真実から眼を背けるのだろう。

2012年5月25日
奥西勝さんは、86歳4ヶ月の年齢で、冷たい裁判所の仕打ちに今夜も一人耐えている・・・。
何としても、一日も早く「生きて社会へ」帰っていただかなければ・・・。

奥西さんは「無実」なのだから。


いくつになっても

2012-05-19 | 日記
テディベア館に行って、
「これ、カワイイ!!買いたい」って言ったら、
「いいよ」と、あっさりOKの返答。

???

「俺はこれがいいな」…とも。

はい?(こんなことめずらしい!!)

いつもだったら、
「俺、そんな趣味ないから」
と、言われちゃうのに。

と、言うわけで、信州(白樺湖)から水戸までやってきた我が家の新しい住人?です。

笑いが止まらない話1

2012-05-15 | 日記
初めての人間ドック。

検便の検体を自宅で採って持っていかなければならない。

で、一回目。

専用の容器を持って、いつものようにトイレへ。
そして、…。
さあ、
「採らなくっちゃ」と、便座からおしりを上げたら、?あら、あら、あらら~!?
『自動便器洗浄』がONになっていたことをすっかり忘れてたのだ!!
あら~、検体が流れていっちゃった~、と、ただ為す術なく見ている自分が可笑しくて、可笑しくて、笑いが止まらなくなってしまった。
『バッカだな~!』
と、思ったけど、笑いが堪えられない~。
トイレが悪い~!
今までの生活では、ずっと手動だったもの。
こんなこと想定外だよ~!!

夫に話したら、『バッカ!』と、かなり呆れられてしまった。
でも、出掛ける前に、
『自動で流れないように設定を変えておいたから』とのこと。

嬉しいやら、悲しいやら、情けないやら、でも、笑いが止まらない。

笑いが止まらない話2

2012-05-15 | 日記
びっくりすることがあった!
お隣の奥さん、私の勤務していた病院の看護師さんだったのだ!
それも、採用時の対応(白衣等の準備、ロッカー案内など)は、間違いなく私が担当した…。

それなのに…

引越しの挨拶に行ったのは、3月の初めだった。
あれからすでに2か月。
何度もお互いに顔合わせていたのに…。
彼女も、
「似てるんだけど…」と、思ってたらしい。

今日、人間ドックで健診センターに行き、最初の採血コーナーに行って、
「久しぶりだなあ、Kさんだ~。ここに異動になったんだ」と、思って彼女の姿を見て思った。
ところが、採血針を私の腕に刺しながら、
「Kです。お世話になったのは私の方ですのに、きちんと挨拶せずにすみません。これからも宜しくお願いします」と挨拶された。
「ああ、お隣のKさんね。こちらこそ宜しくお願いします」と、言いながら私の頭は、完全に目の前のKさんの親族のことかと思い込んでいるから、どうも会話が噛み合わない。
採血が済んで、椅子に掛けながら彼女の顔を見続けた。

えっ?!本人!!

そういえば!と、お隣でみかけたK夫人のことを頭の中で思い返した。

何か似てる人がいるものだな…とは思ったけど、まさか、まさか!

実は、私たちの友人が来て、
「お隣、Kさんだよ。いつも一緒にいろいろやってるんだ」と言っていた。
それが、ご主人のことで、以降、何かとご主人のことばかりが私たち夫婦の話題に上がった。

彼女の顔見て、似てる人いるんだな、ぐらいにしか思わなかった。
私がやめる少し前、でもないかな?
子供さんが小さいからという理由で、午前中だけのパートさんで採用になったんだった。って、やっと記憶が戻って来た…。
どうりで、いつも昼ごろ、吹っ飛んで帰ってくる姿を良く見かけていたのだ。
前後して小学生のお子さん(兄妹)が帰ってくる、そんな光景を見ていたのだ。
どうして、私の頭の回路が「K夫人=Kさん」と繋がらなかったのだろう?
その事のショックの方が強い…。

彼女は、私からは無視?されるし、挨拶のタイミングをはずし、困ってたみたいだった。

あ~、私ってどこまで「トンマ」なんだろう…。
悲しい。

今度の休みには、Kさんを我が家に呼んで、お詫び、しなきゃ。

完全に私、頭、おかしい…かも?

あ~、思い出しただけでも恥ずかしい!
穴があったら、飛び込んでしまいたい!


「一人の思いが世の中を変える力に」

2012-05-11 | 日記
 夫の記事が本日11日付のしんぶん赤旗に掲載された。
読まれた方から、丁寧なお電話をいただいた。
「いやぁ~、ショージ君、すごいなぁ。自分の裁判の事を憲法に照らして書いているし、そればかりでなく、ちゃんと、今の若者のことも触れていて、感動しました」と。

・・・こんなとき、私はどんな反応すればいいのか・・・。
ありがとうございます、というのもどうかな・・・。

えん罪とは国による人権侵害。

無罪判決により無実を明らかに出来た夫は、自らの体験を通し、二度と国による人権侵害を繰り返させないための制度改革を実現させたいと活動中である。
そして国家賠償請求裁判を準備中である。


 夫は言う、

「一人では何も出来ないと思わないほうがいい。一人が大事なんだ。一人の思いが、世の中を変える力になるんだ」


夫はまさにその信念あるたくさんの人に支えられて、裁判を勝利することができた。
そして自らも「真実は必ず明らかになる」と確信して裁判を闘って来た。

「自分の勝利だけど終わらせるわけには行かない。「仲間」を救出したい。えん罪を防ぐための制度改革を実現したい」と声を上げ続けている。

憲法で守られるべき人として当たり前の権利を主張し続ける事で、近い将来必ず「主流派」になる事を確信して。









父と母と兄と・・・

2012-05-11 | 日記
 病院で疲れていたにも拘らず、その帰り、両親と兄が揃って、初めて私たちの新しい家に立ち寄ってくれた。
中古住宅ではあるが、私たち2人には十分の家だ。

 兄は引越し前の草取りに、父は二度ほどやはり病院の帰りに来ていたが、初めての母は、2階にも上がり、間取りを確かめたりしていた。
和室の仏壇に気付き、夫の両親にお線香も上げてくれた。
階段は「急だなぁ」と言いながら、手すりにしっかりつかまって、一歩一歩確かめながら降りた。
そして、リビングのソファーに座り、お茶を飲みながらしみじみ言った。

「いい家が見つかってよかったなぁ。これで落ち着けるね」・・・と。

 家を留守にしている夫にメールでこの事を知らせたら、

「涙が出た。我が家に寄ってもらえた事と、これで「eiji」がいたらなぁという思いが重なって・・・」と返ってきた。

 私たちの結婚を誰もが反対した。
両親には、許してもらえなかった。
そして、結婚を祝う会の日の前日が弟の手術の日だった。
弟は
「姉貴の結婚式なので、手術日をずらして欲しい」
と、Dr.に言い、週明けに手術を変更して、祝う会に兄と出席してくれた。
その弟は、2年後に亡くなり、その間弟を見舞う夫と私の姿から、両親との間に入ってつないでくれていた。
弟が亡くなったその日、弟の遺体が病院を出るときに、初めて、父は夫に
「一緒に家に来てくれるか?」と言ってくれたのだった・・・・。

 あれから11年の歳月が流れた。
私には忘れかけていた記憶だったが、夫のメールから「私の家族への心遣い」が感じられ、胸が熱くなった。

私も、母がお線香を上げてくれている姿に、何か「一区切り」がついたような感情がわいた。

裁判が一段落した事で、私たち夫婦も、夫の親族も、私の家族も順々に新しい一歩を踏み出し始めている・・・。