もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

野田聖子氏の「岐阜女性政治塾」に思う

2018年04月02日 | 与党

 野田聖子総務相が「岐阜女性政治塾」を立ち上げたことが報じられた。

 冒頭「女性が政治に参画し、自分を生かせる環境を整備する運動」と挨拶したそうであるが、宰相を目指す人物の政治スタンスとしてはあまりにも卑小な趣旨と思われる。以下、男尊女卑的な考え方との批判を承知で言わせて貰えるならば、日本で女性の社会進出拡大を説く女性活動家の多くが、ひたすら「女性目線」を協調することが理解できない。なぜなら、その女性リーダーが同時にジェンダーフリーをも口にするからである。自国の権益を守るために兵士の血が流れることを厭わなかったサッチャーは、自分が女性であることなど協調していないし、難民や移民の受け入れに比較的寛容な政策を採るメルケルも自分の政策の原点が女性目線であるとは述べていない。ヒラリー・クリントンが大統領選に敗北したのは女性ということが原因ではなく、優柔不断な人物に核のボタンを握らせないという米国民の選択であったと思う。男性社会であった日本においては過渡的な手段として雇用機会均等法などに依る女性労働者の保護と地位向上が必要であったと思われるが、若干なりとも社会が成熟して能力評価に男女の垣根が無く(低く?)なった今、雇用機会均等法など不要であり撤廃することこそ真のジェンダーフリーとする意見が出ないことを不満に思うものである。野田聖子氏の挨拶に立ち返れば、国や自治体の政治に参画して女性の特性を生かせる環境を作るというのは、男女の立場を逆転させた性差別社会を目指そうとするのに等しく、論理的にも未成熟で総理・総裁を目指す人物としては鼎の軽重を問われる発想と思える。頓挫したものの小池百合子氏の新党立ち上げほどのインパクトには遠く及ばない運動に終わるものと思う。

 雇用機会均等法が原因で出世競争に女性の後塵を拝したと考える男性も少なからずにいることと思う。女性運動は、女性としてのハンデを獲得するのを主眼とする運動なのか、個人としての正当な能力評価を受けるための運動なのかをはっきりして欲しいものである。


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