NBAで活躍する八村塁氏と弟の阿蓮氏(東海大)に対するヘイトメッセージが報じられた。
八村兄弟は西アフリカのベナン出身の父と日本人の母の混血とされている。今回、阿蓮氏が公開したメッセージの内容は「死ね」「間違えて生まれてきた」「バスケだけがうまい〇〇(差別的スラング)」などとされているが、兄の塁氏は「こんなのしょっちゅう来るよ」と述べているので、彼等に対するヘイト行動は日常のことであったと思われる。
自分のブログでも公明党や枝野氏を始めとする立民議員諸氏をネタにすることが多いので、ヘイト発信者に当たるのかと思ってネット上の解説を拾い読みすると《「ヘイト」とは、憎む、憎悪する、反感を持つ」という意味で、特に「ヘイトスピーチ」や「ヘイト発言」といった場合は、人種・国籍・宗教・性的指向など個人のパーソナリティに関する事柄について攻撃したり誹謗中傷する発言や煽動》とされていた。いささか、自己弁護・正当化・言い訳になるのかも知れないが、政治活動や公的活動に対する攻撃については、思想・言論・表現の自由に守られているように思う。しかしながら政治・公的活動についても、例えば「天誅」などの過激言語を使用する場合や身体的な危害を予告する行動等は、ヘイトの範疇を越えて脅迫等の別の罪科に問われるだろう。閑話休題。
ヘイトは何故に生まれるのだろうかと考えたが、人間社会において自己の存在は周囲との相対評価でしか確認できないという宿命に起因しているように思う。相対評価には、個人のパーソナリティ(人格)の個々の要素の優劣を減点評価する方法と、加点評価する二つの方法があると考える。例えば、八村塁選手の場合について云えば、減点法ではアフリカ系を減点要素としてー(マイナス)評価となるが、加点法ではNBAにスカウトされるほどの運動能力は加点要素であり+(プラス)評価となる。勿論、加点と減点を相殺して評価することも理論的には可能であるが、加減の評価自体が判断者個々の価値に基づくことや、判断する要素選択が恣意的であることから成立し得ない。
しからば、加点法による相対評価が万能であるかと云えば、殺人犯の場合でも減点法では殺人という1点が致命的なマイナス要因となって悪人とされるが、加点法では殺人という要素を無視して、例えば動物を可愛がるという行為で+評価=善人にカウントされるかも知れない。この欠点を補うために人は刑法を作り出して評価する要素と基準を定めたように思えるし、刑法に抵触した場合にも情状酌量という加点法の概念を取り入れるとともに、「推定無罪」や「罪を憎んで人を憎まず」という理念を産み出したのではないだろうか。
社会における個々人や自己を評価することは極めて困難で、八村兄弟を誹謗した人達も、何らかの要素で八村兄弟よりも優っていると考えた上での行動であるかも知れない。
他人を評価する場合にあっては、刑法犯については司法判断に従い、それ以外の場合にあっては他人を加点法の視点で眺めることが、社会や対人関係のストレスから逃れ得る最良の方法であるかのように思う。
池江選手に対しても、五輪開催阻止を標榜する人々から、代表辞退を求めたり五輪中止の行動を求める書き込みが多いそうであるが、自分の主張が正義として他人の心中に土足で踏み込むような行為は、ヘイト以上に悪質であると思う。
柄にもなく善人を気取り、人生訓的記述に辟易として終演。御容赦を。
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