5月に起きた目黒区での幼児虐待死に関する調査結果が出された。
調査結果では、直接の原因は前住地の香川県(丸亀市)と転居地の東京都(目黒区)それぞれの児童相談所間の案件引継ぎの齟齬(写真等の重要情報未送付)とされている一方で、丸亀市児相が医師の証言等を採用せずに脅威の程度を正確に把握しなかった実態と虐待を重ねる父親の改心・更生を過度に期待したことが挙げられている。丸亀市児相の対応は、お役所特有の抱え込みや何とか穏便にとの事なかれ主義によるものであるかもしれないが、日本人が持つ特質も関係しているのではないだろうかと考えられる。法律は総て性悪説によって作られるているが、量刑規定の末尾には情状酌量規定が設けられており司法関係者の裁量の余地が残されているのが一般的でり、この酌量規定に日本人特有の性善説が作用しているのではないかと推測するものである。キリスト教、イスラム教及びマルクス主義では、犯罪が唯一神の教えに合致したものであるかどうかが情状酌量の基準であり、それ故に、殺人に対しても神の教えに背いた殺人は例え被害者が一人であっても死刑となり、神の御心に添って原爆投下を命じたトルーマンや9.11同時テロのビン・ラディンが訴追すらされない事態が起こる。一方”和をもって貴し”とするバックボーンに支えられている日本人には確たる酌量の基準が無く、死刑判決に際しては永山事件の被害者数を基準とせざるを得ないように、司法・行政者の慣例・裁量に任され過ぎているのではないだろうか。丸亀市児相は、父親から隔離・保護した幼児を父親の改心が顕著であり子供は両親のもとで生活するのが一番との理由で、2回に亘って親元に返しているが、結果的には最悪の事態を防げなかった。
今回の事案では、”父親も人間であり、いつか悔い改めるだろう””もともと悪人はいない”という性善説の対応が、法律の意図する目的を具現できなかった最大の要因と考える。「雀百まで踊り忘れず」「三つ子の魂百まで」と古人が説き、「人を見たら泥棒と思え」とも説いている。我々にとっては窮屈な時代の到来かとも思えるが、性悪説に発つ立法・律法の精神を、司法・行政が生かすことが求められているのではないだろうか。
追伸:OSの再インストールでもPCは完治せずに依然として不安定なままですが、壊れるまで使用したいと思うところでああります。、