福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

なぞの20ミリ・シーベルトの怪:「100まで上げる気か!」

2011-04-30 00:13:24 | 新聞
改めて、福島県内の学校の「安全」基準の問題点とそれをめぐるメディアの対応を検証しよう。
この基準は「校庭の放射線量が1時間あたり3・8マイクロ・シーベルト以上の場合は屋外活動を制限し、屋内活動を中心」にすること、逆に言うと3.8マイクロ未満なら普通に活動してよろしいというお達しである。この判断のもとになったのは、読売4・19の記事によれば、

『内閣府の原子力安全委員会によると、基準は、児童生徒の年間被曝(ひばく)線量の上限を20ミリ・シーベルトとし〈1〉現在の放射線量が今後も継続〈2〉1日の屋外活動は8時間〈3〉残りは木造家屋内で過ごす――との想定で算出した。年間20ミリ・シーベルトは計画的避難区域の設定基準と同じで、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告を基にしている。』

言うまでもなく、年間20ミリ・シーベルトというのはとんでもなく高い値である。上の記事が言うとおり、それだけの放射線が予測される場合、住民を避難させなければならない。ちなみに、計画的避難区域指定を伝える朝日新聞は、

 『「計画的避難区域」に指定されるのは、積算量が1年間で20ミリシーベルトを超えると推定される地域だ。浪江町や飯舘村などが対象だ。これらの地域では、半減期が30年と長いセシウム137が高いレベルで降り注いだ所があり、住民が長期間、地面から放射線を浴び続ける心配がある。放射線による長期的な影響では、がんが数年~数十年後に増える危険が心配される。・・・・数十ミリシーベルトという低い放射線量による影響は不明点も多いが、20ミリシーベルトを浴びると、がんになるリスクは0.1%程度上昇するとみられる。』

と書き、土壌汚染などの継続的な放射線被害の可能性と20ミリシーベルトの放射線によるがんリスクを具体的に指摘した。

しかし、ここで忘れてはならない重要な点がある。計画的避難区域、すなわち「積算量が1年間で20ミリシーベルトを超えると推定される地域」の線量積算は、屋外活動時間と家屋内にいる時間の配分を考慮していない。よく言われる「24時間屋外にいたとして」想定した数値である。これに対して、子どもたちの被曝基準を考えるときは、「1日の屋外活動は8時間、残りは木造家屋内で過ごす――との想定」という、恣意的な想定をしている。8時間対16時間という配分が恣意的(例えば熱心な運動部員なら、8時間以上屋外活動など十分あり得る)だというだけではない。避難区域決定の場合と、「年間」被曝量の予測方法が異なっているために、同じ「20ミリ・シーベルト」を、同じ数値として扱うことができなくなっている。つまり、「20ミリ・シーベルト」という数値の意味が恣意的に操作されてしまっているのだ。そして、年間量の予測に関して、文科省は避難区域の決定時よりも多めの算出方法、子どもたちにより多くの被曝リスクを許容(強制)する算出方法をとっている。

文科省は福島県教育長らに交付した通告で、子どもの被曝限度量20ミリ・シーベルトは

『幼児,児童及び生徒(以下,「児童生徒等」という。)が学校に通える地域においては,非常事態収束後の参考レベルの1-20mSv/年を学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的な目安とし・・・』

ているとのことだ。「非常事態収束後の参考レベルの1-20mSv/年」というのは「国際放射線防護委員会(ICRP)」が日本政府に推奨した準拠放射線レベルのことだ。誰でもすぐに思いつくことだが、原発自体の放射線流出がまったく制御できない状態で、しかも実現見通しについて多々批判のある東電「工程表」が実行されても、流出が抑えられるのは数か月先という状態で、どうして「非常事態収束後」と判断することができるかのだろう。このような状況で、なぜ、「非常事態収束後」の準拠スケールに従ったのか、という疑問が必然的に生ずる。

さらに問題がある。子どもたちの被曝基準は、上の「非常事態収束後」の準拠スケール上における最大値がとられている。一方、避難地域を決定する基準は、1日=24時間屋外を前提にした積算方法(つまり子どもたちの場合よりも低いリスクを限度とした積算方法)によって得られた20ミリ・シーベルトなのだが、それは、上記の朝日の記事によれば、

『国際放射線防護委員会(ICRP)勧告では、緊急事態で住民が20~100ミリシーベルトの被曝が予測される場合は対策をとるように求めている。「今回の見直しでは、ICRPなどの勧告の下限値をとった」(原子力安全委員会)』

と、こちらは「事故継続等の緊急時の状況における基準」の最小値を採用している。原子力委員会は、この「下限値」をとったことをなにやら自慢げに強調しているのに対して、子どもたちの被曝基準を、国際勧告の「上限値」に設定したことを文科省は恥じている様子もなく、詫びることも説明することもしていない。

いったいこれはどういうことなのだろう。すでに非人道的・犯罪的と言わなければならない被曝強制基準の裏に、さらにもっと邪悪な何かの存在を感じるのは私だけだろうか。なぜ文科省は、原子力安全委員会の委員が「成人の半分に当たる年10ミリシーベルト以下の被ばくに抑えるべきだ」と言った(朝日新聞)のをわざわざひっこめさせてまで、この「20ミリシーベルト」にこだわったのだろう。

この同じ朝日に記事よれば、高木義明文科相は、20ミリシーベルトを下まわるような「(基準厳格化により)学校を頻繁に移動させることはできない」と言ったそうだ。要するに、手間のかかること、大変なことはしたくない、という官僚の意向だろう。しかし、それならどうして避難区域決定の時と同じように、「事故継続等の緊急時の状況における基準20~100ミリシーベルト」に準拠して、この20ミリシーベルトを根拠づけなかったのか。そのほうが諸政策の基準が統一され、理解しやすくなるし、「どうして現状を「非常事態収束後」などと判断したのだ」という文句も付けられずに済んだはずだ。

これをしなかった理由は、とりあえずいくつか考えられる。まず、子どもたちの「安全基準」と「避難区域決定」が同じ準拠スケール上の同じ値であったなら、文科省は「子どもたちのためには特別な措置を何も取らない」という姿勢が露骨に明らかになってしまう。積算線量が20ミリシーベルト/年という値は、子どもがどうのというレベルではなく、大人を含めたすべての人々に対して対策を取らなければならなくなる値だ。それをわざわざ「学校における子どもたちのための対策」とするのはあまりに空虚で見え透いている。政策の破たん、文科省の無作為が隠れもなく明らかになってしまう・・・。次いで、第二に、避難区域決定と学校安全基準との上で指摘した積算方法の違いが一層目立つことになり、子どもたちにとりわけ過酷な積算方法を用いて、被爆基準を無理やり引き上げた作為が浮き上がってくることになる。第三に、「非常事態収束後の1-20mSv/年」という準拠スケールにおける「20mSv/年」を引き合いに出すことによって、文科官僚たちは住民たちに「これ以上、上がることはありませんよ」という印象・暗示を与えることを意図したのではないか。「収束なんかしてないぞ!」「どうして上限値を取るのだ!」という抗議に身をさらすことになったとしても、彼らにとっては、こうした印象・暗示を与えることが大切だったのではないか。文科省の「通知」は言う、

『国際放射線防護委員会(ICRP)・・・によれば,事故継続等の緊急時の状況における基準である20~100mSv/年を適用する地域と,事故収束後の基準である1~20mSv/年を適用する地域の併存を認めている。』

文科省はこれら二つの準拠スケールを組み合わせて私たちをけむに巻こうとしている。客観的な情勢が「非常事態の収束」を合理化する要素を一切提供していないとき、あえて無理を犯して「非常事態の収束」期の準拠スケールに依拠して、これ以上はありません、という暗示、事態は収束に向かっています、という前提を暗黙に私たちに飲み込ませる。そして、その場合、値はぜひとも「20ミリ・シーベルト」でなければならない。というのもこの値こそ、二つの準拠スケールの橋渡しをし、二つを連結する機能を持っているからである。二つの準拠スケールを使うことが「認められている」とする文科省は、しかし、どこにどのような根拠に基づいて「事故継続等の緊急時の状況における基準」を適用し、どこに「非常事態収束後の基準」を適用するか明示していない。区分はここでも官僚の恣意的なご都合主義に任されているのである。いま「収束後」としていても、場合によって明日「事故継続」に乗り換えるかもしれない。そんなことをするときに、前の値が20ミリ・シーベルト未満であったら、恣意的に準拠スケールを乗り換えたことが露骨にばれてしまう。

子どもたちに特別な配慮をしたという見せかけを維持し、現状はこれ以上悪くならないはずだ、という根拠のない、しかし私たちの願望をくすぐる命題を受け入れさせつつ、次の段階の「基準変更」の準備をするには、どうしても「20ミリ・シーベルト」に落としどころを見つけるしかなかったのだ。福島の住民の方たちと文科省との交渉(U-tube1U-tube2)のなかで、怒りを込めて叫んでいた方がいた。

『100まで、上げる気か!』

私の疑いは、この方の怒りと同じである。


最後に一つだけ、付け加えさせてください。
社民党・福島瑞穂氏は本気なのか!福島の住民の方と文科省の交渉をセットしたのは福島瑞穂議員だという。しかし彼女は「所要のため」、その場に姿を見せなかった。どういうわけで?福島氏はご自分の「欠席」を前もって文科省らの官僚に伝えておいただろう。それが、官僚側の出席者が下っ端役人であることを許したのではないか。福島氏のやり方は極めて疑わしい。一方で、交渉をセットしたことで、住民たちから感謝される(交渉の日は選挙の数日前だった)。一方で、政府や官僚たちからは、「住民たちと会った」というアリバイを確保しながら、はかばかしい進展のない会合に終わらせることができて、失うものがなかったことをやはり感謝される。
社民党が見せかけで動いているように見えることがもう一つある。会合の冒頭でのんきに「挨拶」などしていた社民党のオヤジ議員は会合に最後まで参加したのか。もしずっとそこにいたなら、なぜ、官僚たちのおそろしい無知・無責任・無節操・無情・無恥をきちんと追求しないのだ。文科省当局にしっかり抗議したのか。

社民党が本気だとはどうしても思えない。本気だというなら、今度はきちんとした資格のある責任者を福島まで引っ張り出し、住民の移動の負担を除いたうえで、再度前回ごまかしに終始した点について、議員たちも最初から最後まで参加して新たな会合を組織したらどうだ。そういうやる気を見せたなら、私は考えを変えるだろう。

文科省の「安全」基準撤回要求の署名締切はあす4月30日土曜日です!

署名フォーム(日本語版)

署名フォーム(英語版)


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